第39話 手紙
翌朝一番に木村さんに断りの連絡を入れる。
案の定木村さんは大袈裟に残念がった。
「今日の今日だぞ、宮内。これがどんなひどい仕打ちか分かるか?」
木村さんは何度もそう繰り返した。
「木村さん、本当にすみません。必ず近いうちに僕の方から誘います」
「宮内はいつもそう言って、ちっとも誘わないよ」
「絶対です。今回ばかりは必ずします!」
「信じてもいいのか?」
「お願いです。信じて下さい!」
何とか木村さんをなだめて電話を終えると、事業所の何人かが笑っているのが分かった。
電話口の相手が、本社公共事業部の部長様であることは、皆大方察しがついているようだった。
ため息をついて、デスクに着く。
メールチェックを手早く終え、スケジュールに落とし込んだ後、現場に向かう。
今日一日、何事もない事を願うばかりだった。
午後に一旦帰社し、それから夕方までに事務所での仕事を終える。
少し早くはあったけれど、電車で順子さんとの待ち合わせに向う事にした。
待ち合わせは、本社近くに古くからあるカフェだった。
金曜の夜といえども僕以外に、他の客は見当たらない。
静かに話すには良い場所だった。
それでも本社近くということもあり、顔見知りがいないかと気が気ではなかった。
特段、木村さんにこのカフェにいることが分かったら、何を言われるか分からない。
それだけに、窓際の席は選べなかった。
最も奥まったテーブル席に座り、コーヒーを頼む。
順子さんを待つまでの間、コーヒーを啜りながらこの十年の歳月に想いを馳せる。
とりわけ遥と別れた後の最初の二年間は、暗闇の中を生き抜いた思いだった。
著しく色彩を欠いた世界で藻掻きながら、別れの理由や、遥の幸せを僕なりに祈ることしかできなかった。
同じ背丈の女性に思わず声をかけてしまったことも、遥の家の最寄り駅に、何も考えず降り立ってしまったこともあった。
そんな時はすぐに次の電車に乗り換え、或いはその場を急ぎ足に立ち去り、祈るような気持でやり過ごしたのだった。
やがて詩織という伴侶を得、僕は再び光の
順子さんはいったい、今の僕に何を伝えたいというのだろう。
もしかしたら、今日この場に僕がいる事は、大きな間違いなのかも知れなかった。
十年も前の恋人の母親と、この期に及んで待ち合わすなんて、どう考えたって可笑しいじゃないか。
改めて、そんな思いに至る。
すっかり冷めてしまったコーヒーカップをソーサーの上に戻し、立ち上がった。
やはり帰ることにしよう。
そして順子さんの連絡先も消去し、ブロックすれば良い。もう十年も前の話なのだから。
伝票に手をかけ、レジに向かう。
同じタイミングで店の扉が開き、順子さんが静かに入店する。
十年前より小さく、どこか疲れてしまっているようにさえ見える。
でもその姿は間違えようもなく、順子さんだった。
順子さんは僕の姿を認めると、小さく会釈して僕の目の前に静かに歩みを進める。
もう僕には逃げる事すら出来なかった。
「丞君…?」
順子さんは電話口と同じ声だった。
「はい。ご無沙汰しております」
返事をして僕は頭を下げる。
それからお互いの姿を確認するように無言の時間が過ぎ去る。
ややあって、順子さんは少し困ったように微笑む。
「丞君、見違えちゃったね…」
テーブルに向き合って座り、順子さんは紅茶を、僕は二杯目のコーヒーを頼んだ。
十年前は
当たり前のことだけれど、過ぎ去った歳月の長さを今更ながら想う。
順子さんが僕に話があるのだという以上、それは遥のことに違いない。
僕は順子さんが話し出すのを、息を呑んで見守った。
「丞君、仕事に変わりない?」
「はい、ずっとあの会社で働いています。今は隣り街の事業所に配属されて、相変わらずそこで住宅をやっています」
「ずいぶん顔つきも確りしてるし、出世してるんじゃない?」
「出世っと云うか、年相応という感じです」
そう答えてから、僕は思い切って遥の事を尋ねる。
「あの…、遥さんは、お変わりないですか?」
不思議な
雫が滴り落ち、静かに跳ね上がるような小さな間だった。
順子さんの表情に、張り付いたような笑みが浮かんだ。
その不自然な微笑みに、僕の方がたじろぐ。
順子さんのその笑顔は、過去の記憶をいくら探っても見たことがない無機質なものだった。
余計なことを訊ねてしまったのだと、前言を撤回し、僕は慌てて話題を変える。
「変な事聞いちゃいました。ちょっと気になっただけで、元気にやっていてくれるなら大丈夫です。順子さんもお変わりないようで、安心しました」
言って、自分の場違いな自分の
順子さんの張り付いたような微笑みが、にわかに崩れ落ちる。
順子さんは声もなく、涙を流しているのだった。
口角に力を込めて感情を押し殺すように、順子さんは恐ろしい言葉を口にする。
「丞君…、遥ね…、死んじゃったんだ…」
耳の奥で、頭の中で、心の深い深い所で、何か大きな音がした。
僕はおそらく声を発したはずだ。
でも何と言ったのか、それは自分さえも解らなかった。
言葉なのか、
息を呑み、やっとの思いで僕は順子さんに訊ねる。
「順子さん、何言ってるんですか…?」
順子さんは
「丞君と別れたあとね、半年くらいしてあの子、内臓の方でも炎症を繰り返すようになってしまって、多臓器不全たった…。二十五の時…」
先ほど全身を駆け巡った大きな音の正体が、今はっきりと解った。
それは僕の心の深い場所からふつふつと湧き上がる、言い表す事も出来ない程の怒りだったのだ。
「何言ってるんですか…? 順子さん、遥は完治したんですよね…?」
順子さんは涙交じりに何度も頷く。
まるで嫌な過去でも振り払うみたいな、そんな頷き方だった。
「丞君…、ごめんね…」
苦し気に涙を飲み込み、順子さんが謝罪する。
言葉にならない心の震えが痛いほどこの胸に伝わる。
でもこの僕の中で湧き上がる怒りは、どうしたら良いのか。
僕の口をつく強い言葉が、すぐに力を失う。
「遥は完治したって…、順子さんも…、だからあの日デートをしても良いって…、だからあの時の別れも…」
気持ちの置き所が、もう解らなくなっていた。
遥が別れを切り出したあの日の光景と、いま目の前で知らされた現実とのギャップに、僕は混乱してしまっていた。
怒りの矛先をどこにぶつけたら良いのか、行き場のない感情が僕自身を責め立てていた。
そして結局のところ弱々しく、疑問しか見つからない。
「どうして…」
順子さんは何度も頭を下げながら啜り上げ、遥のその後を話し始めた。
あの日、最後のデートで僕に別れを告げる事については、順子さんは事前に承知していたのだという。
長くなることが予想される闘病生活に、これ以上僕を付き合わせてはいけないのだと、遥がついた嘘なのだということだった。
しかしあれから遥の病状はどんどん良くなり、散歩で遠出をすることも出来るようになっていたのだと順子さんは言った。
そんな矢先、遥の容態は著しく悪化し、痛みが全身に広がるようになる。
その後は動けない日が多くなって行き、痛みに悶える闘病生活が始まったのだと、順子さんは弱々しく言った。
遥はベッドの上でいつも小さな貝殻を眺めて過ごしていたのだそうだ。
見兼ねた順子さんは、僕に連絡を取ることを幾度となく遥に提案したのだとも。
それでも遥の意思は固く、断固として僕に連絡をすることを拒んだ。
「丞ちゃんは本当に優しい人だから、もう一度でも頼っちゃったら、死ぬまで離れなくなっちゃうよ。それよりも丞ちゃんのこれからの幸せを祈った方が、私にとってもすごく幸せなことだよ。丞ちゃんならきっと素敵な人と一緒になるんじゃないかな。私は、自分がそんな未来を想像できることが誇りなんだよ。私はいちばん星みたいに、そんな未来を見守るんだ。おせっかいだけどね」
何ということだろうか。僕が遥との別れに悩んでいる時、
遥自身の身体だって病魔に侵され、内臓からも痛みに苦しんでいる時なのに。
言葉にならなかった。
どう飲み込んで良いのかさえ解らないほどの大きな思いが、僕の眼前に横たわった。
いちばん星だと遥は言った。
そうだ、かつてあの迷子になったキャンプ場で、遥は一番になりたいのだと僕の胸の中で泣いた。
僕の頼りない小さな胸の中で泣きじゃくって言った言葉を、遥は最後まで貫いてくれていたのだ。
たった二年じゃないか。
僕が苦しんだのなんて、たった二年だ。
それになんて僕の世界はちっぽけなんだろう…。
唯々至らない自分が悔しかった。
もしも僕自身が頼もしく大きな人間だったなら、あるいは遥は僕をちゃんと頼ってくれたのだろうか。
以前、木村さんは僕にこんな事を言った。
神様に身を捧げたのは彼女の方かも知れないぞ、と。
その通りだった。
遥は自分の治癒への願いと引き換えに僕を捧げたんじゃない。僕の幸せを願い、神に自らを捧げたのだ。
こんなちっぽけで頼りない僕の為に自ら身を引き、幸せを祈り続けてくれたのだ。
もしかしたらこの十年間、僕は遥の祈りを下敷きに、のうのうと生きて来てしまったのではないか。
やりきれない思いに打ちのめされていた。
本当にどうしたら良いのかさえ分からなかった。
そして思い切って僕は順子さんに訊ねる。
それがあまりに稚拙な質問だと云うことは分っていた。
「順子さん…、どうして、今になって僕にこの事ことを…」
順子さんは唯々頭を下げる。
「ごめんなさい…。遥には最後まで口止めされてたんだけど…。私の事は絶対に丞ちゃんに知らせないでって…、本当に最後まで…。
丞君、日曜日…、七五三だったでしょ? 綺麗な奥様と、とっても可愛らしい娘さんと…。見ちゃったんだ…、すぐそこの神社の前で…」
何と答えたら良いものか、僕は言葉にできず順子さんを見つめる。
「すごく幸せそうだった…。着物を嫌がる娘さんを丞君が追いかけて、そんな二人を奥様が優しく見守って…。まるで絵に描いたみたい…。
そんな姿をずっと見てたらね…、遥もそうだったのかなぁ…、って。もし遥が生きてたらこんな風だったのかなぁ…って。
ちゃんと自分の人生を歩いている丞君には本当に申し訳ないって思ったんだけど…。でも、居てもたってもいられなくなっちゃって…。遥は生きていたんだよ、遥はこの世にいたんだよ、って…。遥は過去じゃないんだよ、って…。どうしても伝えなくちゃって…」
順子さんはもう泣いてはいなかった。
それでも順子さんの心の震えは、僕の目の前の空気を震わせ、確かに僕の心を悲しく震わせていた。
「丞君、本当にごめんなさい…。許されないよね、こんな事…。でも、私どうしようもなくて…、だから私のこと恨んでも良いから…」
これが本当に金曜日の夜なのかと思うほど、静かな夜だった。
街の喧騒とは程遠いこの店の中で、時間は止まってしまっているのかとさえ思えた。
順子さんはこの十年という歳月を、悲しみに耐え、押しつぶされそうになりながら生きていたのだと思う。
夫を亡くし、また同じ
おひさまみたいに明るい人だった。
僕の知っている順子さんは、夫を亡くした苦しみを力に、必死に、努めて明るく、娘を育て上げた人だった。
僕には順子さんを責める事なんて出来ない。
でも僕の中に渦巻くこの感情は、いったいどう消化したら良いと云うのだろう。
順子さんが自分のバッグに手をかけ、その中から二つ折りにした一枚の紙を取り出し、僕の前に差し出す。
受け取って開いてみると、それは古いレポート用紙に書かれた、遥からの手紙だった。
『初めて手紙を書きます。電子メールでもスマホのメッセージでもなく紙の手紙。
この手紙は
誰にも届かない手紙です。だから思い切り本音を書きます。
丞ちゃん、私は今仕事の合間にこの手紙を書いています。
丞ちゃんとお別れして半年がたとうとしています。
本当は別れたくなかった。できることならずっと一緒にいたかった。
丞ちゃんと一緒にこの病気を乗り越えて、結婚して子供を産んで、時々喧嘩もしながら歳を取って、最後は一緒に天国に行く。
順番はまず丞ちゃんを看取ってすぐに、私の心臓が止まる。一瞬遅れるけどすぐに追いついて、手をつないで天国に行く。それが私の夢だった。
でもね、丞ちゃん。私の病気はそんなに甘くは無かったみたい。今の医学では対処する方法が無いらしく、遺伝性の私の病気は子供を産むことについても、色々考えなくてはいけないみたい。私にはそのことが最もつらい事でした。丞ちゃんとこのまま手をつないでいたら丞ちゃんをどんどん消耗させてしまう。そんな風にしてまで一緒にいて私たちは幸せなのかってたくさん悩みました。
どうやらこの病気の克服には、たくさんの時間が掛かりそうです。その間に丞ちゃんも私も歳を取ってしまって、丞ちゃんの大切な時間を奪ってしまうんじゃないかって。
大好きな丞ちゃん、私は一人でこの病気と闘います。そう決めました。
前に丞ちゃんに言ったとおり、私は今でも丞ちゃんの一番になりたい。
この病気に少しでも早く打ち勝っていつか丞ちゃんに会いに行きます。
もしその時丞ちゃんに誰も良い人がいなくて、ちょっとくたびれたおじさんになっていても、いえ、私がちょっと
今もまだ丞ちゃんが好き。今すぐ会いたい。別れたいなんて全部嘘だよ。
ずっと丞ちゃんの一番でいたい。
でも決めたから。私はここから丞ちゃんを想いながら頑張ります。
そばにはいられないけど、一番星みたいに輝きながら頑張るんです!
怖いけど、すごく怖いけど、丞ちゃんいないのはすごく
丞ちゃん、今まで本当にありがとう。
私は丞ちゃんと出会えて、本当に本当に本当に幸せでした』
手紙を読み終えても、すぐにはその手紙を閉じることが出来なかった。
懐かしい、遥が書いた文字だった。
目の前で語りかけて来そうなほど、遥の口調そのものを書き綴った文面だ。
気を許してしまえば、すぐに僕の全てを引っ張っていきそうなほどの懐かしさに、胸が締め付けられ、苦しくなる。
順子さんはもう一度バッグに手をかけ、今度は透明な内袋を僕の前に差し出す。
透明な内袋の中に桃色の小さな貝殻が、大切に仕舞われていた。あの日、浜辺で僕が拾った貝殻だった。
順子さんは言った。
「この貝…、カバザクラガイって言うんだって…。あんまり遥が大切にしてたもんだから、私、調べてみたんだ…」
順子さんの顔色が少しだけ曇り、今にも泣き出しそうになる。
「そしたらね…、この貝、このあたりの浜辺なら、どこにでもある貝なんだって…」
まるで自嘲するみたいに、順子さんは口角を歪める。
僕の中にある何かがもう一度熱く燃え上がった。自分でも驚くくらい、大きな声で否定する。
「順子さん、この貝はどこにでもある貝なんかじゃありません。この貝は、この世にたった一つしかない、かけがえの無い貝なんです」
順子さんは零れ落ちた涙をぬぐい、何度も何度も頷いた。
「ありがとう…。丞君、本当にありがとう…」
別れ際、順子さんから遥の残した手紙を、僕に形見として受け取って欲しいのだと懇願された。
散々迷いはしたが、僕はその申し出を固辞した。
それならせめてカバザクラガイをと、順子さんは僕の手のひらに無理に預ける。
結局僕は、順子さんの必死の形相に
カフェを後にし、隠れるように本社に背を向ける。
駅に向かいながら、金曜夜の賑やかな街並みに馴染めない自分に気づく。
ネオンは陽気にぎらつき、酔い客たちはお互いに凭れかかり闊歩していた。
怒鳴る人も、笑う人も、先を急ぐ人たちも、みんな生きていた。
まるで街中が生命に満ち溢れているのに、そこに遥はいなかった。
この世界から遥だけが失われた、そんな気さえした。
ガードに凭れかかり、呼吸を整える。
今この場で叫んでしまいたい衝動に駆られた。
でも同時に、そんな事さえできない自分自身に、自虐の笑みをもらす。
あの日の消えゆく遥の後ろ姿が目に浮かび、ひとり
ポケットの中のカバザクラガイを握りしめ、むせび泣く。
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