第37話 微かな澱

 自分の成長とは比べものにならないくらい、娘の成長が早いことは、本当に驚くばかりだった。

 うっかりしている間に碧も三歳になり、そういう僕自身も、三十四になっていた。

 木村さんは転勤どころか、公共事業部の若き部長に昇進し、僕は代理という肩書が外れ、事業所の課長職にやっと落ち着いたところだった。

 相変わらず住宅の仕事は楽しかったし、やり甲斐に満ちていた。

 今後その家族なり夫婦なりの人生計画に携わることが出来るのは、責任の重さと共に、喜びを分かち合う仲間に加えてもらえたような感じさえした。

 その家で育まれるドラマを想像しただけで、仕事への満足感も増すばかりだった。

 当たり前の事なのだけれど、もうこの仕事が自分に向いているのかなんて過去に迷ったことさえ忘れていた。


 帰宅し、碧からの熱烈歓迎を受け、抱き寄せる。

 碧を膝に抱えたまま夕食を摂り、一日の出来事を家族で共有する。

 とは言いながらも、いつも話題は、本日の碧の様子ばかりだった。

 夕食後、詩織が新しくお茶を淹れながら、碧とじゃれ合う僕に言う。


「そろそろ七五三の事も考えないといけないんだけど」


「どうしようか?」


 僕は答える。


「帯祝いやお食い初めやった同じところで良いよね」

「そうだね。あそこくらいだね」


 自宅からは少し離れてはいたけれど、安産祈願からの一連の行事ごとはいつも本社近くの神社で済ませていた。

 有名なやしろなので、土日はいつも参拝客で溢れていた。


「準備は詩織に任せてもいい?」


「任せるって言うとカッコいいけど、私に丸投げってことでしょ?」


 詩織は少しだけ不機嫌に返し、僕は笑ってごまかす。

 碧も僕のマネをして、にっこり笑うのだった。


 天気予報では午前中から雨が降るとのことだったが、七五三当日は朝から見事に晴れ渡っていた。

 気持ちの良いほど外れてくれた天気予報に、僕も詩織も安堵した。

 ただでさえ落ち着きのない碧のことだ、足元がぬかるむ中を借り物の着物で過ごすのは、我々としても気持ちが落ち着かない。

 僕も詩織も、空に向かってお礼を述べたいくらいだった。

 それにしても、碧の着付けには一苦労だった。

 着慣れない着物を嫌がる碧に、僕と詩織はご機嫌取りに終始したのだった。

 そのお陰で、詩織渾身の変顔は、碧の機嫌を回復させる為の強烈な決め技であることも判明した。



 何とか参拝と写真館での記念撮影を終え、碧の着物を返却する。

 着慣れない着物から解放された碧の元気は、まさに最高潮だ。

 できればその笑顔を写真館で見せて欲しかった。


 本社の駐車場に車を停めさせてもらい、近くのレストランで昼食を摂る。

 碧の元気はとどまることを知らず、昼食後はそのまま近所の公園まで足を延ばした。

 公園で走り出す碧の背中に笑顔を見せながら、詩織がほっとしたように言う。


「天気が何とか持ってくれて良かったね」


「本当に助かった。でも雨じゃなくたって、着物を汚さないかひやひやしたよ」


 僕は答えて、空を見上げる。

 いくらか雲の量は増えてはいるものの、晴れ間の方が多かった。

 詩織も空を見上げて楽しそうに言う。


「天気予報士さんは、今頃悔しがってるのかもね」


「それじゃまるで…」


 天気士と言いかけて、僕はおかしな気持ちにさいなまれた。

 何か心の底に溜まっていた重たいおりが微かに舞い上がったような気がした。

 僕が言いかけた言葉を拾い上げて、詩織が訊ねる。


「それじゃまるで?」


「いや、何でもない」


 僕は碧の背中を追いかけて走り出す。

 追いつかれまいと逃げ回る碧を捕まえて抱え込み、そのまま肩車する。

 肩車されると、碧は僕の髪の毛を掴み、そのあと嬉しそうに手を上げる。

 碧は本当に元気で快活な女の子だ。

 しばらくは碧を肩に乗せたまま、僕もはしゃいでいた。

 東屋を見つけて、少し休むことにした。

 詩織が持参した水筒からコップにお茶を分け、碧の口元に運ぶ。

 碧は美味しそうにそれを飲みながら、足をぶらつかせる。

 そこで初めて、先ほどのおかしな気持ちの正体に、僕は思い至った。

 そうだ、この公園はむかし遥と訪れた公園だった。

 遥が初めて膝の違和感を訴えた公園だ。

 あの時遥は、この東屋で、僕に膝の違和感を訴えたのだ。

 いま彼女はどうしているだろうか。

 ふとそんな事を想った。

 考えてみれば、もうあれから十年が経ってしまっていた。

 今僕はこうして詩織という伴侶と出会い、碧という宝物を授かった。

 遥も同じようにしているのだろうか。

 彼女は重い病気と闘い、克服した強い人間なのだ。きっと素敵な伴侶に出会い、幸せに暮らしている事だろう。

 いや、そうでなくてはならない。

 そうでなくては、二年も失恋に苦しめられた僕自身にしても立つ瀬がないではないか。

 自嘲気味に視点を定めていると、詩織が訊ねる。


「どうしたの? にやけて」


「別ににやけてなんてないよ」


 碧の飲み干したコップを受け取り、詩織に渡す。

 そのまま、また碧を抱えて、肩に乗せる。

 歓喜する碧の声が誇らしい。

 そうだ、僕も遥も、違う道を歩いている。

 お互いが求めあったものに、今お互い出会えているのだ。

 碧が僕の頭を抱えるようにして、僕の頬に小さな手を当てる。

 この世界で最も尊い温もりを、僕は感じていた。

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