第26話 記憶
遥の病状は、結局のところ快方に向かうどころか、悪化してしまっているようだった。
また二週間の入院が決まったのだけれど、今回は検査入院ではなく、治療のための入院で、パルス療法を施されるということだった。
パルス療法とは、少し強めのステロイドを数日投与し、その後数日間は無投与といった風に、間隔をあけて繰り返すことで副作用も抑え、炎症にも強く作用するのだという。
ただし身体への負担もある事と、経過推移を診ていくということで、入院という運びになったとの事だった。
遥はこの機会に会社へも辞表を提出したのだと、僕に話してくれた。病気と向き合う覚悟が出来た時から、遥かはそう決めていたようだ。
僕としては口をはさむ余地もなかった。
遥の決断を尊重し、寄り添うことが僕自身の覚悟だった。
遥とのギクシャクした関係は、意外とあっさり解消することが出来た。
お互い顔を合わせれば、何とかなるもなのだ。
僕たちが重ねてきたこれまでの長い時間は、言葉では表せない間というものを醸成してきているのかも知れない。少なくともその時の僕はそう考えていた。
その日も夕方近くに、遥へメッセージした。
見舞いに行けそうな日は、こうしてメッセージを送るのが常だった。とは言ってもいつも面会時間ギリギリで、慌ただしく駆けつけるのだった。
病室の前で呼吸を整え、ノックをする。
何故か病室からは笑いながら返事を返す遥かの声が聞こえてくる。
誰かいるのかと訝しく扉を開けると、病室にいたのは遥一人だった。
「誰もいないのに笑ってた?」
「ぼーっと昔のこと想い出してたら、笑ちゃってたみたい」
「何それ、今日の調子はどう?」
僕はそう言って、ベッドの横の折りたたみ椅子を広げて腰掛ける。
「薬のせいで身体が重たいから、一日中病室に籠ってた」
ベッドに腰かける遥と向き合うようにして、僕は彼女の顔を覗き込む。
「一人笑いもクスリのせい?」
「ちょっと、変な薬みたいに言わないでよ」
遥がコロコロと笑うと僕は安心する。
遥が突然、僕に訊ねる。
「丞ちゃん、私と初めて会った日のこと覚えてる?」
「なんだよ、急に。もちろん覚えてるよ」
「じゃあ、いつ?」
「えーっと、入学式の講堂で」
遥は納得いかないとばかりに僕を見る。
僕は更に頭を中を引っ掻き回し、答えを探す。
それから記憶をたどるように続ける。
「その後、学部の教室でまた会って、サークルの新歓でも会って…、初めて話した」
「それでは半分だけ正解!」
「半分だけ?」
僕は驚く。半分だけって?
「そう半分」
「どういうこと? 勿体つけずに教えてよ」
「本当はね。もっとずっと前に、私たちは出会ってるんです。大学に入るずっと前」
大学に入る前?
さらに混乱してしまった。
いぶかしく答えを待つ僕に、遥が続ける。
「本当は予備校の模擬試験で初めて会ってるんだよ」
「えっ?」
「高校三年生の春に、模擬試験でこの近くの予備校に来たことあるでしょ? その時、席が隣り合わせているんです。ほら、消しゴムの」
「えーっ! あの時の消しゴムの?!」
突然僕の頭の中で記憶が繋がる。
消しゴム事件は覚えている。
いや、というか僕の中ではそっと心の奥にしまっていたほろ苦い大切な記憶だった。
高校三年の春、この街の予備校で、僕は模擬試験を受けた。
わざわざ県を跨いでこの街の予備校へ来たのは、同じくこの街の大学を志望していた友達の発案だった。
予備校への模擬試験の申し込みも受け付けられ、前日にはホテルに宿泊するという気の入れようだった。
当日は受験番号の振られた席で行われた。
友達は少し離れた席になり、同じ長机の隣の席には小柄な女の子が座っていた。
正直言えば、男子校の僕には、女性は不慣れだった。
少し離れていても隣というだけで、心穏やかではいられなかった。
それに隣の女の子は、横目にちらっと見る限りで、も大人しそうではあるが、顔立ちが整っていることはすぐに分かるくらいだった。
試験開始のまでの間、参考書に目を通して臨戦態勢に入っていた。
しかし隣の女の子はソワソワと落ち着きがない。
すぐに消しゴムを忘れたのだと分かった。
僕は自分の持ってきた消しゴムに定規で少し傷をつけ、半分にちぎり、隣の女の子に渡す。
何と言ったら良いのかも分からなかったので、ぶっきらぼうになってしまったのだった。
何とか無事に試験が終わり、僕は忙しく机の上を片付けていた。
電車の時間も迫っていて、急がなくてはいけなかったのだ。
筆記用具をリュックにしまっていると、隣の女の子が半分の消しゴムを掌に載せて礼を言い、丁寧に頭を下げる。
僕は舞い上がってしまい、またぶっきらぼうに彼女の手のひらから消しゴムを受け取り、立ち去った。
慌てて友達の元へ駆け寄ったのは、恥ずかしさを隠すためだった。
顔こそしっかり確認はできなかったが、丁寧に頭を下げるしぐさや、大人しく柔らかな雰囲気は、女性に免疫のない僕の心をつかむには十分だったはずだ。
もう二度と会うこともないのだろうと、ずっと心の奥に大切に仕舞い込んでいた記憶だ。
「そうだよ、ずっと黙ってたけど」
遥は今まで僕が気付いて無かったことが不服とばかりに続ける。
「多分覚えてないだろうから、今まで言わなかった。あの時の丞ちゃんぶっきらぼうだったし、覚えてないって言われたら傷つくじゃない。そんな事もあって新歓コンパのときは思わず運命って叫んじゃったんだよ」
なるほど、このエピソードが、新歓コンパの時の遥の「これって運命よね!」のセリフに繋がるわけか。
でもそれは僕も同じだった。
もしあの高校生の時に、遥の顔をしっかりと記憶する勇気があったなら、あのセリフは僕が先に叫んだかもしれなかった。
僕は遥に言う。
「消しゴムの事はよく覚えてるよ。でも正直顔までは…。だって恥ずかしくてさ、女の子に免疫もないし。顔もちゃんと見られなかったよ、あの時」
「なんだ…。やっぱり覚えてなかったんだ…私のこと」
「でも何となく、可愛らしい子だったってことは…。だって、だから恥ずかしくて…」
「本当?」
僕は恥ずかしくて曖昧に頷く。
「でもどうして、今頃そんな話? そんなのあの新歓コンパで言ってくれたら良かったのに」
「それこそ私だって男の子苦手だし、連絡先交換するのだってすごい事なんだから」
確かに、あの時は二人とも異性が苦手だった。
コンパの後、二次会には参加せず、偶然駅に向かう道すがら話をし、たどたどしく自己紹介して連絡先を交換したんだった。
それにしてもあの消しゴム事件の女の子が遥だったことには驚いた。
僕たちはすでに高校三年生の春に出会っていたのだ。
もしも遥がその事を話してくれなかったら、この記憶はずっと一方通行だったに違いない。間違いなくこの遥の告白が、僕たちの記憶に深い色合いを加えてくれたのだ。
面会時間があっという間に終わってしまい、看護師さんに急かされて、僕は病室を後にした。
病棟のエレベーターを降りてロビーに差し掛かったところで、順子さんと鉢合わせた。
「丞君、今日も来てくれたんだね。遥、喜んだでしょ?」
「ええ、まあ。でも面会時間の終了のゴングを看護師さんに鳴らされてしまいました。順子さん、これからですか?」
「そう。ちょっと遅くなっちゃったんだけど、着替えだけ届けに。遥の様子はどうだった?」
「僕が行った時は薬のせいか少しぼーっとしてました。でもとっておきの思い出を掘り起こされて、かなり盛り上がりました。そこで試合終了のゴングです」
「丞君ありがとう、いつも。ああ見えても結構この治療は堪えてるみたい。だから丞君が少しでも顔を見せてくれると気が紛れるみたいなんだ」
「いえ、僕にできる事なんて…」
順子さんはとびっきりの笑顔で僕の肩を叩く。
「てれるなよ、若者! 頼りにしてるんだから」
「あの、順子さん…」
僕は言う。
これはずっと僕が考えてきたことだった。
そしていつどのタイミングで申し出たら良いのか悩んでいたことだ。
「ずっとお願いしたかったことがあるんです」
順子さんは笑顔のまま首をかしげる。
僕は思い切って申し出る。
「遥の入院費のことなんですが、僕に少しだけでも…」
「丞君!」
順子さんの声がロビーに響き渡り、周りの人たちの視線が集まるのが分かる。
順子さんの顔はみるみる紅潮し、今までに見たこともないような強い形相になる。
「いい、丞君! それ以上は言わないで。私たちが丞君に求めてることはそんな事じゃない。私のことも馬鹿にしないで欲しい。私たちはこれまでだって二人で何とかしてきたの。お金の話なんて、お願いだから私たちにしないで欲しい。お願いだから、丞君…」
あまりの剣幕に、僕は言葉を失ってしまった。
もちろん馬鹿にしたつもりなんてない。
僕にとって何ができるのかを、真剣に考えた末の提案だった。
順子さんは一呼吸おいて、心を静めるように続ける。
「ねえ、丞君…。お金のことは、本当に大丈夫なの。遥は難病指定も受けてるし、保険にも入ってるから。でも、ありがとう丞君。気持ちだけ、本当にその優しい気持ちだけありがたく頂くね」
「順子さん…」
「突然大きな声出して驚かせちゃったね。私たち親子って、お金にすごく苦労してきちゃったから。二人でいつもお金の心配しながら生きて来ちゃったから。だからお金のことだけは、二人で何とかしたいんだよ。本当に。私たちのお金の問題を、誰かに背負わせる事だけはまっぴらなの。丞君をここまで付き合わせておいて、ムシが良く聞こえるかもしれないけど…」
順子さんの言っていることはよく解かった。でも僕の中に何か冷たい風が吹きすさんだことも事実だ。まだまだ僕にはこの二人の間に入ることが出来ない隙間があったのだ。順子さんは今私たちといった。そこには僕が含まれていなかった。ついさっき病室で語り合った時、僕と遥の記憶は繋がったのだ。
しかし遥の記憶の背景には、順子さんと生き抜くことに必死な日常が、強く刻まれていたのだ。
あの頃の遥の大人しく、柔らかく、丁寧なしぐさには、僕の知りえない壮絶な生活が、その背景にあったのだ。
お互いに異性が苦手だったのだとさっき僕は考えた。でもその異性が苦手という背景も、僕のそれとはまるで違ったもののように思えた。
順子さんはその後も、僕に優しい言葉を掛けてくれていた。
でも僕の頭の中は、上手くその言葉を吸収するだけの余地が残されていなかった。
遥と順子さんに対する、僕の見当違いな提案は、結局僕の心の中で行き場を無くし、じっと小さくなっていつまでも
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