『4、K大学の謎の教授』


 その、少しだけ白くなったパサついた髪をした黒縁眼鏡の落ち着いた中年男性は、俺が思った通りK大学の教授だった。


 菱山ひしやま亮介りょうすけ──海洋かいよう生命せいめい科学部かがくぶで学生の指導をしているらしい。年齢は四十八歳。


 痩せた長身と髪の質感しつかん相俟あいまって風になびくれススキが思い浮かぶ。


 彼は俺たちに自販機じはんきの缶コーヒーを奢ってくれた。教授は木陰こかげのベンチにくつろいだ様子で腰掛け、俺たち三人は立ったまま彼の前に並んだ。


 なんだか先生にお説教をされるみたいな立ち位置だ。少しきまり悪い気分になっていると、菱山教授は独特どくとくの、ふふっ、という柔らかな笑い声を漏らした。それで俺の緊張はするりとけた。


「君たち、面白い事をしているね。事件の捜査をしているなんて探偵さんかな?」


「あ、いや、その……」


 また菱山教授は優しく笑った。


「話は勝手に聞かせてもらったよ。金髪のお嬢さん、君のお姉さんが任意同行されて事情を聴かれている女性の妹さんだね」


 手のひらを向けられて、美波ちゃんはおずおずと自己紹介した。


「はい。相沢あいざわ美波みなみといいます」


 俺と芽衣も慌てて名乗る。


夏ノ瀬なつのせ真之まさゆきです」


「妹の芽衣です」


「なるほど、君たちは兄妹か。よく似ているね」


 まるで近所に越してきたオジサンのようにニコニコ頷くと、菱山教授は再び美波ちゃんに顔を向けふわりと言った。


「お姉さん思いだね」


 一瞬泣きそうな顔になったが、彼女は唇をぎゅっと引き結んで勢いよく頭を下げた。


「お願いします、知っている事なら何でもいいんです、教えてください。あの刑事さんは先生に何を訊きに来たんですか?」


 ううむ、と菱山教授は顎に手を当てた。


「本当は言っちゃいけないんだけどね……」


「そこをなんとかっ!!」


 俺は菱山教授を拝み倒した。


 菱山教授は、ふふっ、と揶揄からかうように笑うと、意外なほど軽く秘密を教えてくれた。


「実はね、出水くんの死因はテトロドトキシンらしい」


「テトロドトキシン──っ!?」


 俺たち三人はそろって大袈裟に驚いた後、そろって首を捻った。


「お兄ちゃん、テトロドトキシンって何?」


 こそっと芽衣が俺に耳打ちしてくるが、喉元まで出かかっているのに思い出せない。サラリと蘊蓄うんちく披露ひろうして恰好を付けたいところだが、しょせん俺は無駄な知識しかないオタク……大学教授の前で知ったかぶりはやめておきたい。早々そうそう白旗しろはたを上げることにした。


「……それって何ですか?」


 不躾ぶしつけな問い方になってしまったかもしれないが、菱山教授は鷹揚おうように答えてくれた。


「一部の真正しんせい細菌さいきんによって生産せいさんされるアルカロイドで、フグの毒として有名だよ」


「フグの毒……?」


「他にはヒョウモンダコがテトロドトキシンの保有ほゆう生物せいぶつとしてメジャーかな。一部のハゼや甲殻類こうかくるい貝類かいるい、イモリやヒキガエルなどもこの毒を持っている。ナトリウムチャンネルをブロックする神経しんけい毒で、摂取せっしゅすれば筋弛緩きんしかんを引き起こし、重篤じゅうとくになれば呼吸こきゅう麻痺まひで死亡する。熱に強く三百度以上に加熱かねつしても分解ぶんかいされない一方で、アルカリせい溶液ようえきには弱く容易よういに分解される。興味きょうみぶかい物質だよ」


 説明されても、フグの毒という事以外ピンと来なかった。


「それで、出水氏の死因がテトロドトキシンだということと、菱山教授にどんな関係が?」


 俺のまとはずす質問に菱山教授は機嫌きげんそこねもせずに、うん、と頷いた。


「僕の専門は海洋生物の毒なんだよ。だから剣崎刑事は僕に話を訊きに来たんだろうね」


「なるほど」と、俺がまぬけな納得の仕方をしていると──


「ちょっと待って!」


 美波ちゃんが大声を上げた。


「死因がフグの毒ってことは、出水さんはフグを食べて亡くなったって事ですよね。だとしたら、ただの食中毒しょくちゅうどくだし、出水さんは事故死ですよね?」


「残念ながら、そうとは言えない」


 気の毒そうに菱山教授は目を伏せた。


検死けんしの結果、胃の内容物ないようぶつの中にフグはもとより、他のテトロドトキシンを含む食材も見付からなかった。より正確に言えば、胃の内容物からはテトロドトキシンは検出されなかったという事だ。しかし、出水くんの血中のテトロドトキシン濃度のうど致死量ちしりょうに達していたらしい」


「どういう意味ですか……?」


「テトロドトキシン溶液ようえき……今回のケースではおそらく天然てんねんのテトロドトキシンではなく人工的じんこうてき合成ごうせいされたテトロドトキシンの溶液だと思うんだけどね……その毒液を、彼が死亡した時に彼の側に居た誰かが出水くんに注射ちゅうしゃしたと警察は見ているようだよ」


 菱山教授は重ねて毒の性質せいしつを説明してくれた。遅効性ちこうせいではなく即効性そっこうせいだと……


「フグの有毒ゆうどく部位ぶいを食べた場合でも、致死量を摂取せっしゅしていれば、早ければ二十分ほどで中毒症状が現れ、四時間から六時間で死亡する。経口けいこう摂取ではなく血中に直接ちょくせつ投与とうよしたならば、中毒症状は即座そくざに現れたと考えられる。死亡するまでの時間も短かっただろう。出水くんが死亡したのは太平洋上のヨットの上だ。誰しもが容易よういに近付ける場所ではない。つまり、犯人は出水くんが死亡した際、現場にた可能性が高い」


「そんな──っ!!」


 美波ちゃんはフラッとよろけてたおれそうになった。芽衣に支えられてやっと立っているが、貧血ひんけつを起こしたように顔面がんめん蒼白そうはくになっている。俺はどうしていいのか分からなかった。


 これは、


 しかも現場は他の人物が近付きにくい海の真っただ中──これじゃ、出水氏とふたりきりでヨットに乗っていた凪砂さんが犯人として疑われるのは当然だ。


「ただし──」


 チッチッ、と菱山教授はしたを鳴らしながら人差し指をった。


「出水くんの身体からだからは、注射痕ちゅうしゃこんも発見されていないらしい」


「えっ?」


「お嬢さん方の前で恐い話をして申し訳ないが、検死けんし解剖かいぼうさい頭髪とうはつなどもすべてって注射痕が無いか調べたらしいが見当たらなかったらしい」


「そこまでしても見付からなかったなら、注射痕はそもそも無いんじゃないですか?」


 おれは思わず、そう言っていた。


「そう考えるのが普通だね。それで、経口摂取でもなく注射でもない方法で、どうやってテトロドトキシンをターゲットの血中に入れられるのか、刑事さんが僕の意見を訊きに来たんだ」


「どうやるんですか?」


「残念ながら……おっと……また、お嬢さん方の前で失礼するよ。僕はね、月並つきなみに肛門こうもんから投与するくらいしか方法は思いつかなかったんだけど、それは不正解だった。遺体いたいにそういう痕跡こんせきは無かったらしい」


 専門家の菱山教授でさえも、ご自身で仰有るように月並みな方法しか思いつかず、そして、考えられる三つの方法のどれでもないとなると──


 これは、不可能ふかのう犯罪はんざいじゃないか。実行じっこうする方法が無い!!


 だが、犯人は実際じっさいにやり遂げている。無いように思えているだけで、方法はある。


 でも……いったい、どうやって……?


   ◆◆◆

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