第二章
『1、バイト地獄と 妹の甘々』
翌週の月曜日からは地獄の
もちろん、フルタイムで仕事をし、
分かってはいるが……俺はひきこもりだったのだ。
というか、今も、可能ならひきこもりに戻りたいのだ。
その俺が、午後二時から七時までのわずか五時間とは言え、バイト先に出向き、二十歳近くも年上の女性の理不尽な虐めに耐えながら──しかも仕事を教える時は一方的に早口でまくし立てられ、メモを取れば不機嫌な顔で
泣きたいほど辛い。
今すぐ辞めたいレベルで辛い。
◆◆◆
月曜日はかろうじて『CR(コンポジットレジン
というか、早口で適当に「はい、コレとコレとコレ使うから。あとコレね」と説明とも言えない野村女史の言葉をなんとかメモして(しかし薬剤の名前も器具の名前も
「初期の『う
母親がポットに用意しておいてくれたコーヒーを飲みながら歯科助手ガイドブックをめくる。
「へえ……C2までなら一回の診療で治せるんだな……」
芽衣がくれたクッキーを
「なるほど……表面のエナメル
時計を見れば針は深夜二時を指している。それでも吉川先生の微笑みを思い浮かべれば、まだ頑張れる。早く仕事を覚えて先生の役に立つんだ。
「あ、これ『
──って、こんな必死に努力したのは生まれて初めてだっ!
ちなみにレジンも何種類かあり、その名前を調べるのも一苦労だった。
仕事いうものはココまで苦労して、こっそり盗むように覚えなければならないものなのか。学校の授業のように
優しい吉川先生も、なぜか野村女史の「仕事をマトモに教えない」という虐めを止めてはくれない。もしかしたら俺が虐められている事に気付いていないのかもしれないが……自分に都合の良いように考えてしまうと、俺が
なにしろ俺は働いた経験が無いので社会の
グチャグチャ考えていると、野村女史の酷い教え方も虐めではなく、あれが普通なのかも知れないという気もしてくる。
謎だ。
謎過ぎる。
この世は謎に満ちている……
それはともかく、吉川先生が時々ぼんやりしていて、治療に集中している時以外はどことなく上の空なのも気になった。何か心配事でもあるのだろうか?
俺も窓の外の月を眺めながら少しぼんやりしてしまった。
◆◆◆
火曜日は『RCT(
いや、教わってはいない。相変わらず野村女史に早口で適当にまくしたてられて、必死で書きとれる言葉だけをメモして、後で自宅で自力で調べた。
水曜日は『RCF(
ほとんど
お陰で段々とメンタルが
これを教わっている時は、野村女史も教え下手なだけで悪い人ではないかも知れないと思ったりもしたのだが、受付業務の際に、わざと入力画面を変えられていて「やっぱり気付かないでミスした。そういうところがダメなんだよ」と言われた時には、悪い人じゃないかもしれないなどというアホのような勘違いしてしまった事を激しく後悔した。
一度など、次に診療する患者のカルテを隠されていて「きちんと探せるかと思って」と笑いながら言われ、
つまり、それなりに教えてくれる仕事は、型取りも、器具の洗浄や滅菌も、下っ端にやらせたい仕事だという事か……ヤバイ、
毎朝「仕事に行きたくない」と思うようになり、出勤しなければならない午後一時半が近付くにつれ、酷く憂鬱になるようになってしまった。
たった五回のバイト勤務でここまで滅入るなら、世の中のみなさまの苦労はいかばかりだろうかと、泣きそうになったくらいだ。
◆◆◆
そして、木曜日の夜──
心配した
「大丈夫、お兄ちゃん?」
軽いノックの後、
「ふっ、なんの話だ?」
俺はだいたいこんな感じで恰好を付けた返事をする。芽衣は慣れているので気にしない。てくてくと部屋に入って来て、俺の背後に立った。
「俺の後ろに立つな」
「はいはい、じゃあ、お兄ちゃんがこっち向いてよ。そしたら後ろじゃなくて前に立ってる事になるよ」
「それは屁理屈だ……」
「そうかなぁ。
「嫌だ……」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「
俺は
疲れ切っていたのだ。
パソコンデスクの椅子に根が
「いい子、いい子」
うっ、メンタルダメージが
「芽衣……さすがに五歳
「別にいいじゃん。お兄ちゃんって、あんまりお兄ちゃんって感じがしないんだもん。私が
「おまえ、言いたい放題だな……」
「うふふ~。お兄ちゃん、素直で可愛い~」
動く気力の無い俺が抵抗しないのを良い事に芽衣はいつまでも撫で撫でしている。
「ねえ、お兄ちゃん、なんかやつれて来たけど大丈夫?」
「俺の事は気にするな。おまえはおまえの
「おまえの成すべき事って──宿題?」
くふっ、と芽衣は
ツインテールがサラサラと揺れてゆっくり心が落ち着いていく。
毒を
なんだか久しぶりに
「お兄ちゃん、無理しなくていいんだよ? ママも心配してるよ」
「母さんが……?」
「うん。お兄ちゃんがバイトしてるのって、ほら、ママの知り合いの歯医者さんでしょ。なんかね、そこの女の先生が、男の子のバイトを探してるのに見付からなくて困ってるって言ってたから『うちの子に手伝わせましょうか』ってうっかり言っちゃったって
「え……後悔……?」
どういう事だ? 母さんは俺がひきこもっている事を迷惑に思って働かせようとしたんじゃなかったのか? 芽衣、おまえだって──
「どういう事だ?」
「どういう事──って……だから、困ってる知り合いを放っておけなくて、お兄ちゃんに強引に歯医者さんのお仕事を手伝うよう頼んじゃったから『無理させてるんじゃないかなぁ』ってママが心配してるよって話だけど?」
芽衣は
「な、ええ──っ?」
それ早く言ってよーっ! いや、俺も
「つまり、俺は別に、母さんとおまえに『ひきこもっていて迷惑だ』と思われていたわけではなかったって事なのか……?」
「やだぁ、なに言ってんの、お兄ちゃん?」
芽衣はころころと笑った。ツインテールの長い黒髪がサラリと揺れる。
「ママも私もそんなコト思ってないよ。だってパパがお金はいっぱい
「う……うっさい、ボケ」
言い返した俺の声は少し
ホッとしたのだ。
母親と妹に、迷惑だと思われていなかったと分かっただけで……
◆◆◆
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