『4、真っ白な歯がキラッと輝き』


 さて、そんなこんなで酷いスタートだったが……


 午後六時十五分──吉川歯科クリニックの診療しんりょう時間じかん終了しゅうりょう間際まぎわ


 バイト初日のラストの患者はさわやかな青年せいねん実業家じつぎょうかだった。


出水いずみさぁん、お久しぶりですぅ。もうっ、ずっとお待ちしていたんですよぅ。検診けんしんの案内お葉書ハガキ出したのになかなか来て下さらないからぁ。で、今日はどうなさったんですかぁ?」


 野村女史が一オクターブ高い(こんな言い方は失礼だと重々じゅうじゅう承知しょうちしてはいるが)びにちた気色きしょくわるい声とくねくねした珍妙ちんみょうな態度で彼を歓迎かんげいしながら待合室まちあいしつまねれた。


「いやぁ、仕事が忙しくて定期検診をサボっていたせいか、固いものをかじった時に右下の奥歯が少し欠けてしまってね。あわてて来たんだ」


 彼は右顎みぎあごをわざとらしくさすりながら無駄に爽やかな笑顔を浮かべた。歯列しれつ矯正きょうせいで整えたであろう真っ白な前歯がキラリと光った──ような錯覚さっかくおちいるほどの美形びけいだ。


 出水いずみ頼次よりつぐ──品の良いスーツに身を包んだ、大手飲食店グループ会長の御曹司おんぞうし


 自身は都内に十数軒のレストランを経営する企業の社長らしい。名前に次の字がある事から察せられる通り身軽で気ままな次男であり、後に聞いたところによると某有名私大経済学部卒の若きエリートだとか。三十一歳、独身、身長百八十センチ、趣味はヨット。明るく気さくなスポーツマンで顔も良いとくれば、まあ、推定すいてい四十歳を超えているのに、独身彼氏無しの(自分で勝手にベラベラ喋った)野村女史が目の色を変えるのも仕方ないと思う。


 出水氏は同性の俺から見ても、気障きざで、嫌味いやみで、目がつぶれそうなほど魅力的な男だった。


 だが、来患らいかんをしらせるベルを聞いてスタッフルームから出てきた吉川先生は、出水さんを見た途端とたん、わずかに眉をひそめ、複雑な表情で一歩後ずさった。


「出水くん、本当に来るなんて……」


 明らかに戸惑とまどっている様子の吉川先生とは正反対の、鷹揚おうよう図々ずうずうしい程の態度で出水氏はからからと笑った。


「診療の予約を取ったんだから来るに決まってるじゃないですか。さやかさんは僕をなんだと思ってるんです? クリニックの予約もすっぽかすようなだらしのない男だとでも?」


「そんなつもりは……」


「はははっ、冗談ですよ。でも、どうせ歯の診療をしてもらうなら、担当歯科医は、さやかさん以外には考えられませんからね。これは本気です」


「はあ……」


 吉川先生は本気で困って呆れているようだった。


「軽口はいいから、どうぞ診療台へ」


 意外なほど冷淡れいたん声音こわねで吉川先生は言った。


 どうやら、彼女は出水氏に好感こうかんいだいていないように見える。


 嫌っている……と判断しても良さそうだ。


 よっしゃ、と思わず心の中でガッツポーズをしてしまった。イケメンが美女に嫌われていると嬉しい。狭量きょうりょうだと笑わば笑え。


 しかし、出水氏は強者つわものだった。冷たくあしらわれているというのにりた様子も無く、むしろ愉快ゆかいげに浮き浮きとした足取りで吉川先生に付いて行く。


「相変わらず、さやかさんは手厳しいな。まあ、そこが難攻不落なんこうふらく高嶺たかねの花って感じで素敵なんだけどね」などと軽薄けいはくな言葉をれ流す事も忘れない。


 そんな出水氏が出水氏なら、野村女史も野村女史でたいがい図太ずぶとい。


「出水さぁん、診療のお手伝いしますねぇ。エプロンかけますよぉ」


 甲高かんだかい媚びた声で言いながら、そそくさと出水氏にけ寄った。


 吉川先生は秀麗しゅうれいひたいにほっそりとした手を当てて、疲れ切ったように溜息をつく。


「野村さん……彼は最後の患者さんだし、診療介助は結構です。もう一度、真之くんに患者さんのデータ管理の仕方と保険証の種類を説明してあげてください」


「ええ~っ、そんなぁ~っ!」


 野村女史はあからさまにガッカリした。よほどイケメン社長である出水氏の世話をしたかったらしい。しばらくブツブツ言っていた。


 俺はえたハイエナのように不機嫌ふきげんになった野村女史と二人で受付うけつけカウンターへ向かったのだが、吉川先生が出水氏にしつこくされないか気になり、ブースの端に立ち、診療室が見えるよう気を配ってしまった。


「最初にレントゲンをりますからこちらへ」


 吉川先生に案内されて、出水氏は振り返りもせずにレントゲン室へ入って行った。楽し気に話しかける出水氏の声だけが聞こえる。吉川先生は適当に相手をしているようだ。


 それは、さておき。俺は相変わらず説明の下手な野村女史の指導に苦しめられた。ソフトの使い方の説明は最初と同じく「ココ押してココ押してココ押してコレ」だったし、保険証についての説明も酷いものだった。


 保険証の種類は大まかに分けると、地域保健ちいきほけん国民健康保険こくみんけんこうほけん)と職域保険しょくいきほけん社会保険しゃかいほけん)と後期高齢者こうきこうれいしゃ医療制度いりょうせいどの三種だ。国保の場合は『国民こくみん健康けんこう保険ほけん被保険者証ひほけんしゃしょう』と、後期高齢者なら『後期高齢者医療被保険者証被保険者証』と保険証に書いてある。社保しゃほの場合は特にこれといった統一された記載はない。これは、あとで自力でネット検索して調べて分かったコトだ。他にも保険証の種類は幾つもあるのだが、とりあえず、その三種の見分けが付けば、当面とうめんの受付業務はある程度できることになる。だが、しかし、野村女史の説明ではまったく分からなかった。


国保こくほと社保はどうやって見分けたらいいんですか?」


「それは慣れるしかないでしょ。書いてあるから」


「え? 何がどこに書いてあるんですか?」


「そんな事も分からないの?」


 また野村女史はヒステリックにキレた。何がどこに書いてあるのか訊ねる事の何がいけないのか微塵みじんも理解できない。最低限の説明はしてくれ、とこっちがキレそうだ。自分が分かっている事は他の誰もが分かっていて当然だと考えているのであれば、野村女史は本来ヒトがもっているべき彼我ひが境界きょうかいを消失させている。何故そんな異次元いじげんレベルの勘違いが出来るのか、もはやウンザリを通り越して怒りすら覚えそうになる。


 ああ、ストレスが溜まるーっ!


 苛々して指先が震えそうになっていた、その時──


 カタン、という軽い音が響き振り返ると、吉川先生が白い薬剤の入ったシリンジを落としていた。なんの気なしに見ていると、吉川先生は落としたシリンジはそのままにして、キャビネットから同じシリンジを取り出し、患者ごとに使い捨てにするプラスチックニードルを個包装こほうそうの袋から出して装着そうちゃくすると、その先端せんたんを出水氏の口の中に差し入れた。


 予備よびがあったのなら良かった。本来なら、落としたシリンジを歯科助手が拾って消毒してから先生に渡さねばならないところだが、ラストの患者だし、診療が済んでから拾って消毒しても間に合うな。


 あれ? でも、それで大丈夫だったっけ?


 キャビネットに入っていたという事は常温保存じょうおんほぞんだよな?


 あれは、確か……カルシペックスという根管治療こんかんちりょうもちいいる薬剤だったと思う。


 うん、常温保存でOKだ。


 とはいえ、野村女史が「メモなんか取るな」とキレるのでうろ覚えだ。あとでこっそりキャビネットの引き出しを開けてあれが何という名前の薬剤か確認しておくことにしよう。いずれ自分が診療介助に付く際に先生に差し出す必要があるかも知れないし……諸事情しょじじょうにより簡単に仕事をめるわけにはいかなくなったからには、なるべく早く覚えてしまいたい。


 ああ、それにしても、母親と妹の本心が分からないというのは憂鬱ゆううつだ。なんとも不安で落ち着かない。こんな気分を味わうのは生まれて初めてだ。


   ◆◆◆


 俺が野村女史の理不尽な指導に耐えていたのとは雲泥うんでいの差で、優しい吉川先生の診療を受けていた出水氏は、会計と次回の予約までを上機嫌じょうきげんで済ませると、気障な笑顔を浮かべて吉川先生にウインクした。


「今度のデートは僕のヨットに招待しょうたいしたいな」


 うおっ、なんという大胆だいたんなセクハラ。


 吉川先生が不快になっているのではないかと心配になり、こっそり綺麗な横顔を伺うと、そこには何ら特別な感情は浮かんでいなかった。


「お大事にどうぞ」


 り付けたような完璧な笑顔で応じられると、さすがの出水氏も少しはこたえたようで軽く肩をすくめて、自嘲的じちょうてきに唇のはしを上げた。


「次の予約は来週の金曜日ですね。七日後、またよろしくお願いしますよ」


 そう皮肉っぽく言い捨てて、彼はクリニックから出て行った。


 あんな男が歩いて帰るとは思えないから、たぶん表の駐車スペースに高級車でもめているのだろう。そう考えていたら、うんじょう、高そうなエンジン音が聞こえてきた。


 なかなか発車しない。


 エンジンを温めているのだろうか。


 すると、ずっとそわそわしていた野村女史が「もう我慢できない」というていでバッと吉川先生に取り縋った。


「先生、私、もうお仕事上がっていいですかぁ?」


「え、ええ……どうぞ……」


 吉川先生は、一瞬、面食めんくらったように言葉をまらせたが、野村女史の迫力はくりょくし切られたのだろう、こくこくとうなずいている。


「出水さぁん、待ってくださぁいーっ!」


 野村女史は疾風はやてごと素早すばやさでタイムカードを押し、ナースシューズからパンプスにえるとバッグを引っつかみ、着替える時間もしいようでデンタルウェアの上に薄手うすでのコートを羽織はおりながら走って出水氏を追いかけて行った。


 ビ……ビックリした……


 外から何かしら言葉をわす声が聞こえて来たかと思ったら、車のドアをバタンッと閉める音がひびいてきた。野村女史、すげえ、あの出水氏の車に乗り込んだのか!


 あんなイケメンの車に図々しく乗り込もうとする野村女史も信じられんが、あんな……まあ、その、さすがに言えないが……つまり……あんな女性を乗せる出水氏も信じられんーっ!


「驚いたでしょう?」


 いつの間にかすぐ横に立っていた吉川先生に声をかけられ、俺は素直に首肯しゅこうした。


「ええ、かなり……」


「出水くん、いつもあんな調子で困ってるのよ……」


「え? あ? はあ? 出水さんですか?」


 野村女史はなくて──とは、ちょっとただせなかった。


「あの人、正直に言うと困った患者さんなのよ。女性とみると誰でも口説きにかかるから迷惑しているの。それに……言いにくいんだけど、女性もほうも彼みたいなタイプが好きな人が多いでしょう。のよ」


 なるほど……


 俺はみょう納得なっとくしていた。


 出水氏のような男性が好きな女性というのは、吉川先生は遠慮えんりょして明言めいげんしなかったが、野村女史のことだろう。あの浮かれっぷりは俺が見ても不安になるレベルだったので「」という吉川先生の言い分はよく分かる。


 その時、しばしの沈黙ちんもくただよった。


 勝手かってに気まずい気分になって、何か言うべきかと顔に出さずにあわて始めた時、吉川先生はまるで聖母せいぼのようにきよらかに微笑ほほえんだ。


「だから、女性ではなく、男性の歯科助手を探していたの。真之まさゆきくんを綾子あやこさんが紹介してくれた時はわたりにふねだと思ったわ」


「え……?」


 ちなみに、綾子というのはうちの母親の名前だ。


「真之くん、うちで働いてくれてありがとう。すごく助かるわ」


 不意ふいにそんな優しい言葉をかけられ、俺は我知われしらず感涙かんるいにむせびそうになっていた。一日中、いや、半日か……野村女史の理不尽になぶられつかれ切っていたメンタルにその穏やかな笑顔と言葉はみた。


「これからも頑張ってね」


 ぽん、と肩を叩かれ、「あ、ヤバイ。これ、恋に落ちそうかも」と陶然とうぜんとした時には、吉川先生はすたすたと診療室の奥にあるレントゲン室に歩み去っていた。


「今日の後片付けは私がやっておきますから、真之くんも着替えて仕事は終わりにしてください。タイムカードを押すのを忘れないようにね」


 なにかをがさがさと片付ける音がレントゲン室から聞こえ、吉川先生は言葉通り、すでにを始めている事が分かった。


 もう少し彼女の美しい顔を見ていたかったなと思いつつ、俺は「はい」と単調たんちょうな返事をし、手早く服と靴を替えてタイムカードを押すと、「お疲れ様です」と声をかけながら、初めての職場を後にした。


   ◆◆◆


 その夜──


 人生初のいじめにえ、しかもバイトすら人生初じんせいはつで、やっとの思いで何の知識も無い歯科助手の仕事を終えて自宅に帰りついた俺は、大袈裟おおげさではなく死にそうなほど疲れていた。


 シャワーも浴びずにリビングのソファにたおんだまま指一本動かせない。


 バイト初日が金曜日で本当に幸運だった。


 土日は吉川歯科クリニックの休診日きゅうしんびなので二日間はゆっくり休める。


 母親と芽衣めいは「お疲れ様、お疲れ様」「頑張ったね、頑張ったね」と過剰かじょうなほどにねぎらって普段以上にチヤホヤと世話を焼いてくれたが、吉川歯科クリニックでのバイトの面接は、母親と吉川先生の間で俺をやとうという密約みつやくが交わされていた裏取引うらとりひきだとさとってしまった俺は、母親と芽衣から『迷惑なひきこもり兄だ』と思われていたのではないかという疑念ぎねんをぬぐえず、複雑ふくざつな気分でムスッと黙り込んでいるしか出来なかった。


「今日のお兄ちゃん、変なの~っ」


 芽衣が不満げに片頬かたほおふくららませ、母親はいつも通りのほんわり顔で妹をたしなめる。


「こら、芽衣っ。まーくんは疲れてるのよ。そっとしておいてあげなさい」


「はあい」


「ねえ、それより、今夜のデザートはいちごタルトよ」


「わあっ、私の好きなお店の?」


「もちろんよ」


「さすが、ママ。大好きーっ」


「私も芽衣ちゃん、大好きーっ」


 キッチンに用意されていた夕食は、いつもより塩味しおあじいように思えた。


   ◆◆◆

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