『4、真っ白な歯がキラッと輝き』
さて、そんなこんなで酷いスタートだったが……
午後六時十五分──吉川歯科クリニックの
バイト初日のラストの患者は
「
野村女史が一オクターブ高い(こんな言い方は失礼だと
「いやぁ、仕事が忙しくて定期検診をサボっていたせいか、固いものを
彼は
自身は都内に十数軒のレストランを経営する企業の社長らしい。名前に次の字がある事から察せられる通り身軽で気ままな次男であり、後に聞いたところによると某有名私大経済学部卒の若きエリートだとか。三十一歳、独身、身長百八十センチ、趣味はヨット。明るく気さくなスポーツマンで顔も良いとくれば、まあ、
出水氏は同性の俺から見ても、
だが、
「出水くん、本当に来るなんて……」
明らかに
「診療の予約を取ったんだから来るに決まってるじゃないですか。さやかさんは僕をなんだと思ってるんです? クリニックの予約もすっぽかすようなだらしのない男だとでも?」
「そんなつもりは……」
「はははっ、冗談ですよ。でも、どうせ歯の診療をしてもらうなら、担当歯科医は、さやかさん以外には考えられませんからね。これは本気です」
「はあ……」
吉川先生は本気で困って呆れているようだった。
「軽口はいいから、どうぞ診療台へ」
意外なほど
どうやら、彼女は出水氏に
嫌っている……と判断しても良さそうだ。
よっしゃ、と思わず心の中でガッツポーズをしてしまった。イケメンが美女に嫌われていると嬉しい。
しかし、出水氏は
「相変わらず、さやかさんは手厳しいな。まあ、そこが
そんな出水氏が出水氏なら、野村女史も野村女史でたいがい
「出水さぁん、診療のお手伝いしますねぇ。エプロンかけますよぉ」
吉川先生は
「野村さん……彼は最後の患者さんだし、診療介助は結構です。もう一度、真之くんに患者さんのデータ管理の仕方と保険証の種類を説明してあげてください」
「ええ~っ、そんなぁ~っ!」
野村女史はあからさまにガッカリした。よほどイケメン社長である出水氏の世話をしたかったらしい。しばらくブツブツ言っていた。
俺は
「最初にレントゲンを
吉川先生に案内されて、出水氏は振り返りもせずにレントゲン室へ入って行った。楽し気に話しかける出水氏の声だけが聞こえる。吉川先生は適当に相手をしているようだ。
それは、さておき。俺は相変わらず説明の下手な野村女史の指導に苦しめられた。ソフトの使い方の説明は最初と同じく「ココ押してココ押してココ押してコレ」だったし、保険証についての説明も酷いものだった。
保険証の種類は大まかに分けると、
「
「それは慣れるしかないでしょ。書いてあるから」
「え? 何がどこに書いてあるんですか?」
「そんな事も分からないの?」
また野村女史はヒステリックにキレた。何がどこに書いてあるのか訊ねる事の何がいけないのか
ああ、ストレスが溜まるーっ!
苛々して指先が震えそうになっていた、その時──
カタン、という軽い音が響き振り返ると、吉川先生が白い薬剤の入ったシリンジを落としていた。なんの気なしに見ていると、吉川先生は落としたシリンジはそのままにして、キャビネットから同じシリンジを取り出し、患者ごとに使い捨てにするプラスチックニードルを
あれ? でも、それで大丈夫だったっけ?
キャビネットに入っていたという事は
あれは、確か……カルシペックスという
うん、常温保存でOKだ。
とはいえ、野村女史が「メモなんか取るな」とキレるのでうろ覚えだ。あとでこっそりキャビネットの引き出しを開けてあれが何という名前の薬剤か確認しておくことにしよう。いずれ自分が診療介助に付く際に先生に差し出す必要があるかも知れないし……
ああ、それにしても、母親と妹の本心が分からないというのは
◆◆◆
俺が野村女史の理不尽な指導に耐えていたのとは
「今度のデートは僕のヨットに
うおっ、なんという
吉川先生が不快になっているのではないかと心配になり、こっそり綺麗な横顔を伺うと、そこには何ら特別な感情は浮かんでいなかった。
「お大事にどうぞ」
「次の予約は来週の金曜日ですね。七日後、またよろしくお願いしますよ」
そう皮肉っぽく言い捨てて、彼はクリニックから出て行った。
あんな男が歩いて帰るとは思えないから、たぶん表の駐車スペースに高級車でも
なかなか発車しない。
エンジンを温めているのだろうか。
すると、ずっとそわそわしていた野村女史が「もう我慢できない」という
「先生、私、もうお仕事上がっていいですかぁ?」
「え、ええ……どうぞ……」
吉川先生は、一瞬、
「出水さぁん、待ってくださぁいーっ!」
野村女史は
ビ……ビックリした……
外から何かしら言葉を
あんなイケメンの車に図々しく乗り込もうとする野村女史も信じられんが、あんな……まあ、その、さすがに言えないが……つまり……あんな女性を乗せる出水氏も信じられんーっ!
「驚いたでしょう?」
いつの間にかすぐ横に立っていた吉川先生に声をかけられ、俺は素直に
「ええ、かなり……」
「出水くん、いつもあんな調子で困ってるのよ……」
「え? あ? はあ? 出水さんですか?」
野村女史はなくて──とは、ちょっと
「あの人、正直に言うと困った患者さんなのよ。女性とみると誰でも口説きにかかるから迷惑しているの。それに……言いにくいんだけど、女性もほうも彼みたいなタイプが好きな人が多いでしょう。診療の最中に気を散らされて困るのよ」
なるほど……
俺は
出水氏のような男性が好きな女性というのは、吉川先生は
その時、しばしの
「だから、女性ではなく、男性の歯科助手を探していたの。
「え……?」
ちなみに、綾子というのはうちの母親の名前だ。
「真之くん、うちで働いてくれてありがとう。すごく助かるわ」
「これからも頑張ってね」
ぽん、と肩を叩かれ、「あ、ヤバイ。これ、恋に落ちそうかも」と
「今日の後片付けは私がやっておきますから、真之くんも着替えて仕事は終わりにしてください。タイムカードを押すのを忘れないようにね」
なにかをがさがさと片付ける音がレントゲン室から聞こえ、吉川先生は言葉通り、すでに片付けを始めている事が分かった。
もう少し彼女の美しい顔を見ていたかったなと思いつつ、俺は「はい」と
◆◆◆
その夜──
人生初の
シャワーも浴びずにリビングのソファに
バイト初日が金曜日で本当に幸運だった。
土日は吉川歯科クリニックの
母親と
「今日のお兄ちゃん、変なの~っ」
芽衣が不満げに
「こら、芽衣っ。まーくんは疲れてるのよ。そっとしておいてあげなさい」
「はあい」
「ねえ、それより、今夜のデザートは
「わあっ、私の好きなお店の?」
「もちろんよ」
「さすが、ママ。大好きーっ」
「私も芽衣ちゃん、大好きーっ」
キッチンに用意されていた夕食は、いつもより
◆◆◆
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