『3、デブスお局のパワハラ』


 面接めんせつからの帰路きろ、俺は悶々もんもんとしていた。


 こんなに強引ごういんにバイトを決められてしまうとは……


 うちの母親は──妹の芽衣めいも──今までただの一度も、俺がひきこもっている事に苦言くげんたぐい愚痴ぐちこぼした事が無く、働けとも進学しんがくしろとも何とも言わなかったどころか、嫌な顔ひとつした事がなかったのだが、実は心のそこではひきこもりの俺を心配しんぱいしたり、あまつさえ、苦々にがにがしく思っていた可能性かのうせいすらあるという事だろうか……


 そんな事を考えると、さすがに少し落ち込んだ。


 なんの悩みも無い明るく楽しい悠々自適ゆうゆうじてきなひきこもり生活だと思っていたのは俺だけだったのか? 俺は、あのおだやかな三人家族さんにんかぞくの中で、ただひとり、迷惑めいわく問題児もんだいじだったという事だろうか? 母親と妹の芽衣を三年近くも悩ませていたのかもしれないと思いいたり、愕然がくぜんとした。


 だが、真相しんそうは分からない。


 まさか、二人に面と向かって「俺、迷惑だった?」なんて確認できるわけがないからだ。疑惑ぎわくは疑惑のまま、そっとふたをしておくしかない……


   ◆◆◆


 こうして、よく分からないまま「とにかく母親が与えてくれた職場しょくばで、もういいよと言われるまでは働き続けなければいかない」というような気分になり、重い心と体を引きずって働き始めることになったのだが、その憂鬱ゆううつなバイトの初日しょにちから、早速さっそく厄介やっかい問題もんだいあらわれた。


 先輩せんぱいの歯科助手、野村のむら江里子えりこがやたらとたりがきつかったのだ。


 俺の母親より年上に見えるが、まだ四十歳にはなっていないらしい。タヌキ顔で、がっしりした骨格こっかく上背うわぜいもある女性で、かみはやけに明るい茶色のゆるふわウェーブ、メイクがく、作り笑顔に異様いよう迫力はくりょくがあった。あわい黄色のナース服(歯科しかではデンタルウェアと呼ぶらしい)を着ているが、あまり優しそうには見えない。


 この野村女史のむらじょし、なにが気に入らないのか、俺にマトモに仕事を教えてくれなかった。


 最初は受付うけつけ業務ぎょうむ患者かんじゃ情報じょうほう管理用かんりようPCパソコン操作そうさを、次に器具や薬剤のある場所など教わったのだが、野村女史は早口でまくし立てるだけで、その説明はあっちへ飛びこっちへ飛びして整合性せいごうせい要領ようりょうない。何をやれと言われているのか、容易よういには理解りかいできなかった。


 今まで一度も仕事をした事が無いので、最初は職人しょくにんモノの漫画まんが影響えいきょうで「仕事は見てぬすめってことか……簡単かんたんには教えてもらえないとは、ははっ、世間せけんきびしいな」などと思っていたのだが、それにしても、何かがおかしい。バイトって職人か?


 そもそも、ここは歯科なわけで、医療行為いりょうこういをしているんだよな?


 バイトとはいえ、医療行為の手伝いをするのに、基本的きほんてきな仕事も教えてくれないと、患者かんじゃも、俺も、危ないんじゃないかーっ?


 とにかく、野村女史は何もかもがひどかった。


 手始てはじめに、受付業務をまくしたてられている時、患者情報の管理かんり使用しようしているソフトをたずねたら「知らなくていい」と物凄ものすごい顔で一喝《》いっかつされ、あるはずのマニュアルも一ページも読ませてはもらえないというなぞ洗礼せんれいけた。


 少しでも早く仕事をおぼえる為に自宅じたくでソフトの使い方を調べてこようというきわめて真摯しんしな気持ちからはっした質問しつもんだったのだが……


 しかも直前ちょくぜんに「パソコン使える?」とかれ「ネットはパソコンでやってますし、オフィス系のベーシックなソフトならそれなりに使えます」と答えたら、なぜか急激きゅうげき不機嫌ふきげんになり「パソコンが得意とくいとかそういうのいらないから」と文脈ぶんみゃく無視むし台詞セリフを冷たく言いはなたれ、質問しづらい雰囲気ふんいきにされていた中、そこをえてなんとかしようとつとめた結果けっかがソレだったので、心がバッキバキにれた。


 そして、ろくな説明もされないまま「やってみて」と言われて患者のデータ登録とうろくをいきなりかんだよりでやらされ、当たり前にミスをしたら「こんな事も出来ないの?」とさげすむような口振くちぶりで嘲笑あざわらわれた。しかも「どうしたら仕事を覚えられるの?」とバカを見るような顔で盛大せいだい溜息ためいきまでつかれる始末しまつだ。


 いやいや、マトモに教えてくれれば覚えられると思いますよ、誰でもっ!


 どうにもぐちゃぐちゃしている指導しどう(なのか?)にストレスを感じながらも、母親と妹にひきこもっている事を迷惑がられている可能性を考えるとここでめてクビになるわけにもいかず、渋々しぶしぶ「覚えが悪くてすみません」と謝罪しゃざいし、ネットで仕入しいれた『仕事はメモを取って覚えよ』という情報通りにメモ帳に要点ようてん(と思われなくもない部分を)書き込んでいたら、唐突とうとつに野村女史は声をあらげた──


「メモなんか取らなくていいからっ!」


 え……?


 今、どこにキレる要素ようそがあった?


 俺は一瞬、事態じたいが飲みこめず、ぽかんとしてしまった。


 会話かいわ脈絡みゃくらくが無さ過ぎるし、どこにキレるスイッチがあるのか分からなくて恐い。


 野村女史は自分が声を荒げてしまった事に気付いたようで、あはは、と場にそぐわない笑い声をあげ、誤魔化ごまかすように言葉を変えた。


「メモなんか取らなくても大丈夫よ。仕事はゆっくり覚えてくれればいいから。佐々木さんなんて仕事を覚えるまで三ヶ月もかかったんだから」


 ああ、佐々木さんとかいう人は三ヶ月もこの苦行くぎょうえたのか……と思わず素直すなおに感心してしまったが、次の瞬間、俺はさっした。


 あっ、この人、新入しんいりすべてが気に入らないから、あれこれと仕事を教えているフリで、本当は失敗しっぱいするよう仕向しむけていためつけているのだ。


 なんと、俺は人生ではついじめを受けていた。二十歳近くも年齢としの離れた女性から。


 直前ちょくぜんまで、俺は学生時代の自分を思い出していた。俺がかよっていたのは幼稚園ようちえんから高校までおしなべて自由な校風こうふう私立校しりつこうばかりで、富裕層ふゆうそうの子が多かった事も理由のひとつかも知れないが、野村女史のような陰険いんけん人物じんぶつはいなかった。


 一度たりとも嫌な虐めにはわなかったし、人間関係にんげんかんけいひどい思いをした事も無い。


 とはいえ、俺は物心ものごころついた頃からコミュニケーションが苦手で、幼稚園から高校までの十四年間、一人も特別とくべつに親しい友達は出来なかった。一人でいる事はではないし、クラスメイトから無視されていたというわけでもないので、特に困った記憶は無い。だから、関係者かんけいしゃ全員ぜんいん俺自身おれじしん名誉めいよのために『友達がいないからひきこもったわけではない』という事は強調きょうちょうしておきたい。


 しかし、だ……「友達が出来ない自分の性格が『今、この場』で、仕事の障害しょうがいになっているのでは?


 自分のコミュニケーション能力のとぼしさがこの問題の原因なのでは?」と、ついさっきまでうたがっていた。「野村女史と意思いし疎通そつうが出来ないのは俺が悪いのだろう」と……


 だが、違ったのだ。


 なぜなら、野村女史は、わざと新人に仕事を覚えさせないようにしているからだ。


 ううむ、と俺は顔に出さず心の中でうなってしまった。事前にザッと検索して下調べをしてきたのだが、歯科助手の仕事は確かに複雑ふくざつ慎重しんちょうにこなさなければいけない業務ぎょうむも多いが、本当に覚えるのに三ヶ月もかかるものだろうか。上手くこなせるまで時間がかかるというなら納得なっとくできるが、覚えるだけの事にそれほど手間てまるのかはうたがわしい。


 教えるがわに覚えさせる気が無い事が、佐々木さんとやらが仕事を覚えるのに三ヶ月もかかった理由りゆうではないのか?


 しかし、新人が仕事を覚えないと、古株ふるかぶの歯科助手の負担ふたんらないだろう。つまり、野村女史の仕事が減らないということだ。


 それって自分で自分の首をめるようなものではないか?


 野村女史の心理しんりはまったく理解できない。縄張なわばり意識なのか、虐め大好き人間なのか、理不尽りふじん不気味ぶきみぎて、俺の思考しこうキャパを軽くえてしまった。


 さらに二時間もつ頃には「俺は野村女史にねたまれているようだ」と確信かくしんしていた。


 野村女史は、俺をイビリながらも、中年女性ちゅうねんじょせいにありがちな性癖せいへきでか、どうでもいい世間話せけんばなしをベラベラとよくしゃべった。どこでうわさ仕入しいれたのか謎だが、我が家が裕福なほうだという事も知っていて、チクチクと「お金持ちは楽でいいわね。真之君は働く必要が無いから大学にも行かずに遊んでいたんでしょう」と言われえぐられた。


 そんな調子ちょうしで、普段ふだん食事しょくじや、買い物や、俺の交友関係こうゆうかんけい挙句あげくは妹の高校の学費がくひまで、やたらと詮索せんさくされた。


 まいった……


 こんな人は初めて見たし、こんな目に遭うのも初めてだ……


 初日から最高潮さいこうちょうめたい。


 たすぶねを求めて吉川先生に何度か視線を向けてみたが、何故なぜか彼女はうわそらだった。


 その日は午後四時頃から、診療予約しんりょうよやくが立て続けに入っていて急に忙しくなった。当然、吉川先生の診療介助しんりょうかいじょ(歯科助手が歯科医師の診療のアシストをする事をこう呼ぶ)には、ずっと野村女史がついた。新入りにいきなり診療介助をさせるほうがおかしいので、そこに疑問は無い。


 それに、忙しくなったら、やっと俺にも仕事が回って来た。治療器具の洗浄だ。さすがの野村女史もこの作業だけはマトモに教えてくれたので、ほんの少しだけ気が楽になった。


 ちなみに、スタッフルームには石膏せっこう印象剤いんしょうざい練和れんわするさいに使用した容器ようきとスパチュラなどを洗う水場みずばがあり、そのシンクには消毒薬しょうどくやくたした大きなバットが置かれていて、治療に使った器具はまずそこに浸漬しんせきしてから流水りゅうすいで洗浄するというきびしいルールがあった。きんやウイルスの飛散ひさんふせぐ為らしい。


 歯科診療しかしんりょうで使う器具には先端せんたん針状はりじょうとがった物もあり、患者がなんらかの菌やウイルスのキャリアだった場合、血液けつえき唾液だえきなどが付着ふちゃくした鋭利えいり部位ぶい怪我けがうと感染かんせん危険リスクがあるのだそうだ。ちなみに麻酔用ますいようの針はキャップをしてから専用の箱に廃棄はいきする。


 危険な作業は野村女史でさえも教えないわけにはいかなかったようだ。その部分にだけでも最低限さいていげん職業倫理しょくぎょうりんりがあるのはよろこばしい。というか、この作業は野村女史としても下っ端したっぱにやらせたい雑用ざつようだったから普通に教えてくれたのだろうけど……


 器具を洗ってはき、洗っては拭きしながら、オートクレーブという高圧こうあつ蒸気じょうき滅菌めっきんをする機械に入れて滅菌し、棚にしまう作業を俺は無心むしんかえした。


 積極的せっきょくてきに働きたいわけではなくとも、母と妹がひきこもりの俺を心配し、あまつさえ迷惑にすら思っているかも知れないという疑惑ぎわくいた今となっては、母親がセッティングしてくれた仕事を簡単にめることはけたい。


 その状況でマトモに仕事を教えてもらえないというのは精神的にかなりキツイ。


 受付業務がよく分からない。患者の予約の入れ方も分からない。患者データを管理するソフトの使い方もイマイチ分からない。電話の出方も分からない。取ってと言われた薬剤や治療器具の在り処ありかが分からない。歯科しか技工士ぎこうしに渡す指示書しじしょなるものの書き方も分からない。何もかも分からないというのに、ろくに教えてくれず、いきなり「やって」と言われる。どうしようもないからやり方をたずねれば「こんな事も出来ないの?」とさげすまれる。


 野村女史の虐めのお陰で、俺はどんよりとした気分になっていた。


「すげえ……働くって辛いなぁ……」


 初めて仕事をしたその日は、一日中(午後だけのバイトなので半日か)仕事をマトモに教えてくれない野村女史に辟易へきえきさせられた。


   ◆◆◆

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