『2、なんと ベタな殺人事件が!』


 そんなこんなで、金曜日──


 心の重石おもしは取りのぞかれ、もう無理して働く理由は無くなったのだが、俺は昼飯を食べながらクリニックに出勤する支度したくをしていた。


 トートバッグに母親が洗濯してくれたダークメイビーのデンタルウェアを入れ、メモ帳とボールペンも放り込む。もう野村女史が嫌味な顔でにらんで来ても気にせず堂々どうどうとメモを取ろう。そのほうが仕事を覚えやすいのは自明じめいだからだ。わけのわからない事でキレられても無視しよう。


 俺は歯科助手のバイトを続けると決めていた。


 かたちかったというほどの覚悟ではないが、せっかく始めた『生まれて初めてのバイト』ではあるし、ここ数日、死ぬ思いで調べた知識と努力が無駄になるのも惜しいと思ったし、他のバイトを探しても、また野村女史のような理不尽な人物がいないとも限らないし、就職活動しゅうしょくかつどうをするのはもっと辛そうだ。


 まあ、そのあたりは良く分からない。


 なにしろ、他の職場を知らないし、世の中の事もほとんど知らない。


 虐められたり嫌がらせをされたら逃げたほうが良いという意見もネットには多い。


 しかし、俺には美人で優しい吉川先生への未練みれんがあった。野村女史のアレは確実に虐めだしパワハラなのだが、吉川先生とはもう少しだけ関わってみたい。だから、今月いっぱいは働いてみて、その後どうするか考えようと思った。(野村女史は人としてダメだと思うし、虐めとパワハラは許せないし、許すべきではないと思うが……)


 俺は、吉川先生に会いたいというささやかな願望がんぼう優先ゆうせんし、クリニックのバイトを今すぐ辞めるのは勿体もったいないと思ってしまったのだ。(※これは悪い判断だった。良い子のみんなは真似しないで、虐められたらすぐに逃げてね)


 家庭の心配が無くなった途端とたん現金げんきんだと笑われるかもしれないが、もしかしたらこれが恋というモノだろうかと俺は調子に乗っていた。


「今日もよろしくお願いします」


 クリニックに着き、珍しく元気良くドアを開けたら、背後からいきなり突き飛ばされた。


大変たいへん、大変、大変、大変、大変よ―っ!」


 野村女史だった。


 いやぁ、この人、ホント、俺の心をってくるなぁ。


 なにも、今日の今、体当たりして来なくてもいいだろうに……


 女性とはいえそれなりの質量しつりょうのある相手に突き飛ばされると、思いっ切り、よろけてしまうし、なんだかみじめな気分になる。


 少し滅入めいりかけていたら、さわぎを聞きつけてスタッフルームから吉川先生が出てきた。


「どうしたの、野村さん? そんなにあわてて」


「吉川先生っ、大変なんですよっ!」


「大変って何が?」


出水いずみさんが殺されちゃったんですよーっ!」


 叫ぶなり野村女史は、わっ、と泣き出した。


 ──?


「どういうこと?」


 さすがに吉川先生もサアッと顔色かおいろが悪くなった。


「さ、さっき、いつものお店でランチを食べていたら……ニュースで……」


 そこまで言うと、野村女史はまた声を上げて泣き始める。


「ニュースって、どういう……」


「先生、テレビをつけてください。どこかのきょくがあのニュースを流してるかも」


 テレビをつけてみたら、どの局もすでに別のニュースに話題わだいが移っており、野村女史が見せようとしているニュースは見られなかった。


「出水さんが死んじゃったーっ!」


 何が琴線きんせんに触れたのか、野村女史は益々ますます声を大きくして泣き出す。これは、野村女史を落ち着かせる為にも、可及的かきゅうてきすみやかに事実確認じじつかくにんをした方が良いと俺は判断はんだんした。トートバッグから自分のスマホを取り出し、いつも見ている大手おおてニュースサイトのトップページを開く。


「ネットに記事きじ動画どうがが上がっているかも知れません」


 俺が声をかけると、吉川先生は素早すばやうなずいた。


 たして──


 俺の予想した通り、サイトのトップページに「男性死亡だんせいしぼう」という見出みだしがあり、そのリンクを開くと、少し前に流れたニュースの動画がアップされていた。再生さいせいアイコンをタップすると女性アナウンサーが神妙しんみょうな顔でニュースを読み始める。


昨夜さくやおそく、太平洋上たいへいようじょうのヨットで男性が死亡していたとのニュースがさきほど入りました。同船どうせんしていた女性からの通報つうほうを受けて海上保安庁かいじょうほあんちょう職員しょくいん現場げんば到着とうちゃくすると、すでに男性は息をしていなかったとの事です。そのドクターヘリで病院に搬送はんそうされ、男性の死亡が確認されました。男性は都内とないに住む出水いずみ頼次よりつぐさん三十一歳です。神奈川県警かながわけんけいは同船していた女性を任意同行にんいどうこうし事情をいているとの事です」


 しん、とは静まり返った。さっきまで泣きわめいていた野村女史もピタッと泣き止み、食い入るようにスマホの画面を見詰めていた。


「死亡した出水さんは複数ふくすうの会社を経営しており、ヨットは出水さんの所有しょゆうであった事が分かっています。出水さんは……」


 パッと画像が切り替わり、そこには、先週の金曜日にこのクリニックで会った、あの気障きざ嫌味いやみなイケメン社長が映し出されていた。


「出水くんだわ……」


 ハッとしたように吉川先生はつぶやき、手で口元くちもとおおった。


 野村女史は声高こわだか主張しゅちょうする。


「一緒にヨットに乗っていた女が出水さんを殺したんだわ。事情聴取じじょうちょうしゅされているんだから犯人に間違いないわよっ!」


 この人は推定無罪すいていむざい原則げんそくというものを知らないのか。任意同行にんいどうこう事情聴取じじょうちょうしゅされる事は、必ずしも容疑者ようぎしゃと見られている事をしめさないし、かり逮捕たいほ起訴きそされても、裁判で有罪が確定するまでは犯罪者はんざいしゃではなく被告人ひこくにんであるにぎないのだが……


 ややあきれていた俺の横で、野村女史はさらに俺を呆れさせる発言をした。


「悔しいっ。誰なのよ? 出水さんのヨットに一緒に乗っていたっていう女は? ニュースも役に立たないわね。この女の名前も報道しなさいよ!」


 おいおい、正気か、この人……


「野村さん、落ち着いて。もう午後の患者さんが来るから、診療の準備をしないと」


 なだめるように吉川先生は野村女史の肩に手をえたが、「来ませんよ」と野村女史は吉川先生の手を退けた。


「午後イチの患者さんは来ません。だって、その時間に診療予約を入れていたのは出水さんですから。私、楽しみにしていたから覚えているんです」


 言われて、受付カウンターのテーブルの上に置かれた予約ノートを確認すると、確かに、金曜午後二時のらんには出水氏の名前が書かれていた。


「本当だ……」


 ふんっ、だから言ったでしょう、というような顔をすると、またも野村女史は泣き始めた。


「出水さん、私もヨットに乗せてくれるって言ったのにーっ!」


 いや、それはさすがに社交辞令しゃこうじれいだろうと思ったが、先週の金曜、出水氏が野村女史を車に乗せた事を思い出し、人の好みは分からないからな、と考え直した。


 それはともかく、午後の診療では野村女史は歯科助手として使い物になりそうになかった。いつまでもわんわんと泣いているし、そのせいでメイクがぐちゃぐちゃになってしまい、その状態で人前ひとまえに出るのはご本人的にいかがなものかとおもんぱからずにはいられなかった。


 吉川先生と俺は目を合わせ、以心伝心いしんでんしん、二人でうなずった。


「野村さん、午後はスタッフルームで器具の片付けをしてちょうだい。今日は患者さんの相手をするのは辛いでしょう。私と真之くんでなんとかやってみるわ」


「でも、この子は仕事を覚えられないから……」


 野村女史はしゃくりあげながらも俺を指差ゆびさし、さげすむような眼を向けてきたが、吉川先生は首を横に振って女史の抗弁こうべん否定ひていし、俺の目を見て強く言った。


「出来るわよね、真之くん? まだ不慣ふなれでしょうけど、分からない事は目配めくばせしてくれれば私がなんとかするから」


「はい、微力びりょくつくくします」


 幸いその日の午後は難しい治療は無く、何度か軽いミスをしてしまったが、そのたびに吉川先生がフォローしてくれて、なんとかラストの患者まで診療を終える事が出来た。


 やった……今日の俺は少しは役に立ったぞ……


 仕事を任された理由りゆう理由りゆうなので、亡くなった出水氏に申し訳なくて……喜ぶのは不謹慎ふきんしんだと分かっていたが、つい、充実感じゅうじつかんを味わってしまった。


 やはり、人として「仕事が出来ない」とけなされ続けるのはキツイのだ。原因が「マトモに教えてもらえないから」だとしても……


 が沈む頃には野村女史も少しは気持ちが落ち着いてきたようで、いつの間にかメイクを直して、いつもの濃いタヌキ顔に戻っていた。


「またニュースが流れてる……出水さん、本当に死んじゃったのね……」


 野村女史のションボリした呟きを耳にし、俺はなんとも奇妙きみょうな気分になった。


 知っている人が一人亡くなったとはいえ、一週間前にほんの少し見かけただけの患者でしかなく、赤の他人であることに変わりはない。


 野村女史は出水氏にかなりの思い入れがあったようで、せっかくメイクを直したというのに、またすすり泣きをらしていたが、俺にはやっぱり他人事たにんごとだった。


 吉川先生も出水氏といくらか関わりがあったようだが、野村女史のような取り乱し方はしなかった。ただの知り合いの一人……あるいはナンパばかりしている迷惑な患者でしかなかったのだろう。


 さすがに知り合いの死にはショックを受けたようで、ずっと顔色が悪く、彼と野村女史に同情どうじょうもしていたが、それ以上の感情は無いように見えた。


   ◆◆◆

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