『4、不思議の国のメイド』


 追いかけているうちに、白石しらいし妃菜ひなは疲れたのか少しずつ走るスピードを落とし、ついにはとぼとぼと歩き始めた。


 相変わらず泣いているようで、握りしめたタオル地のハンカチで時々目元を押えている。店で見た時は特に取り乱している様子は無かったのに、人目も気にせずあんなに泣くなんて、急に何が起きたのだろう?


 十五分ほど歩いて、途中右折し、西武せいぶ新宿駅を左手に見ながら進むうち、辺りの風景は古い建物ばかりの市街地しがいちに変わっていた。


 人通りが幾分いくぶんか減ったので、ターゲットに気付かれないよう慎重しんちょうに尾行する。


 更に五分ほど歩いた後、白石妃菜は、華やかなメイド姿の女性には不似合いの古ぼけた賃貸ちんたいマンションらしき建物の外階段そとかいだんを上り始めた。


 エントランスは無く外階段から直接各階かくかいのぼれる構造になっている。かべ煉瓦れんが色で、かなり汚れて黒ずんでいる。築年数ちくねんすうは数十年以上だろうと想像できる外観がいかんだ。


 路上ろじょう駐車ちゅうしゃしていた車のかげに隠れて見ていると、白石妃菜は二階の一室に入って行った。


「ここは?」


「さあ?」


「事件に関係のある場所でしょうか?」


 ヤバイ組織そしきのアジト的なものを想像したのだが、どうも普通の賃貸マンションのようだ。玄関ドアの並ぶ間隔かんかくの狭さから、ワンルームか1Kだろうと察しが付いた。


 足音を立てないようしのあしで俺たち四人は白石妃菜が入って行った部屋の前に向かう。


 玄関ドアには『白石』と素っ気ない表札が出ていた。


 どうやら彼女の自宅のようだ。


 通路に面した窓が少し開いていて、中の様子がのぞける。ただし防犯用の鉄格子が付いているので、その窓から侵入しんにゅうする事は不可能だ。


 その窓から部屋の中を盗み見て1Kだと分かった。


 狭いキッチンの一部と間仕切まじきり用の引き戸が見えたからだ。その引き戸が邪魔をして奥の部屋の様子は分からない。


「ずいぶん静かですね?」


「中で何をしているのかしら?」


 数分、その場で待機していたが、中からは何の気配も感じられない。


 そわそわした様子で芽衣が呟いた。


「ねえ、お兄ちゃん。あの人、出水さんを殺したかも知れない人なんだよね? ドラマみたいにベランダから逃げちゃったりしてないかな?」


「あ──っ!! なんでその可能性を考えなかったんだっ!!」


「そうですよ、お兄さん。あの人が逃げちゃってたらどうしましょうっ!?」


 俺と美波ちゃんが慌てる横で、剣崎刑事は即座に行動に移った。


「警察ですっ!! 開けなさいっ!! 開けないとドアを蹴破けやぶるわよっ!!」


 叫びながらドンドンドンッと玄関ドアをはげしくたたく。かなりの騒音そうおんだったにも関わらずしばらく反応は無かった。


 これは逃げられたかもしれないとあきらめかけた時、中からかすかに人の足音が聞こえ、次いで、乱暴に玄関ドアが開いた。


「なんなのよっ?」


 出てきた白石妃菜は手首からダラダラ血を流していた。


「ぎゃあああああああああああああああああああああぁっ!!」


 俺は思わず絶叫してしまった。


 血は意外と苦手ではないのだが──そうでなければ歯科助手は務まらない。治療中に歯茎はぐきから出血する事は多いからだ──いかんせん、白石妃菜の出血は派手過ぎた。歩いて来たであろう狭くて短い廊下ろうかにも玄関にも血がぽたぽたとれている。


「なんて事をっ、早く止血をっ!」


 さすがに剣崎刑事は冷静で、手早くハンカチを取り出し、彼女の傷口をしばって手首を肩より上に上げさせた。白石妃菜は少しぼんやりした顔で、しばしされるがままになっていた。


 芽衣と美波ちゃんはオロオロしている。


「罪の意識にさいなまれているからって自殺はダメよ。自首じしゅしなさいっ!!」


 応急手当てを終えてから毅然きぜんはなった剣崎刑事を、白石妃菜はきょとんと見詰めた。


「何の話?」


「あなたが出水いずみ頼次よりつぐさんを殺したんでしょう?」


 数秒の沈黙ちんもく


「はあ?」


 白石妃菜は思いっきり眉間みけんしわを寄せて剣崎刑事をにらみつけた。


「そんなわけないじゃない。私は出水なんて殺してないわよ。絶望的な事が起きたから死にたいだけなの。警察だか何だか知らないけど、騒がないで放っておいてよっ!」


「え?」


「だから、絶望的な事が──」


「いえ、そうではなくて……出水さんを殺してないんですか?」


 どうにも話がみ合わない。剣崎刑事は少し考え込むような表情を浮かべたが、警察けいさつ手帳てちょうを取り出し自らの身分を明示めいじしながらいなと言わせない口調で言った。


「すみません。少し部屋の中でお話を伺っても構わないでしょうか?」


「え……まあ、別にいいけど……」


 白石妃菜は、なぜか俺だけを注視ちゅうしし、頭のてっぺんから爪先つまさきまで何往復なんおうふくかジロジロとながめてから、ううむ、と難しい顔で腕を組んだ。


「私、自分の部屋に男は入れないって決めてるんだよね。けど、そういう恰好でメイクまでしてるってことは、あんた、せい自認じにんは女って事?」


「え? 俺? あ、いや、その……」


「うん、ごめん。言い難い事は言わなくていいよ。私、差別さべつとか嫌いだし、あんたもどうぞ」


 ああぁ~~~っ!!!


 そう言えば、俺、まだ女装のままだった。


   ◆◆◆


 色々有耶無耶うやむやのうちに、俺たちは白石妃菜のアパートに入れてもらった。


 血痕けっこんが点々とある事が気になったが、意外な事にキッチンの奥にある生活空間と寝室しんしつねた小ぢんまりとした部屋は綺麗に整えられていて、壁には大きな本棚が並べられていた。


 漫画も多いが小説や専門書せんもんしょも多い。外見にはんして読書家のようだ。


 しかし、カーテンやベッドカバーはフリルの多いラブリーなピンクで、大きな白いクマのぬいぐるみも鎮座ちんざしていた。インテリアの好みはイメージ通りだ。


 小さな白いテーブルを中心に全員が座れるほど部屋は広くなかった。


 床にくピンクのふわふわクッションは二つしかなく「ベッドに座っていいよ」と言われ、俺と芽衣と美波ちゃんは遠慮えんりょがちにベッドに腰かけた。


「さっそくですが、あなたは出水頼次さんとどういったご関係だったんですか?」


 白石妃菜と向かい合う場所に座った剣崎刑事は前置まえおきも無く切り出した。


「ただの客だけど?」


 はあ? と呆れた様子で白石妃菜は首をひねった。思いっきり意味不明の事をいきなり言われた人の顔だ。


 思わず、俺は横から口を出してしまった。


「で、でも、メイドカフェの店長は出水氏とあなたが付き合っていたと言っていましたよ!」


 良く言えば裏の無さそうな、悪く言えば頭の悪そうな、あの店長が嘘をついたとは思えない。あの人は、白石妃菜と客の出水氏が付き合っていると本心から(そんな真摯しんしな場面ではないが)思っていたはずだ。


 松林准教授も出水氏はメイドと付き合っていたと言っていた。


 だから、二人には何らかの関係があったはずなのだ。


 事情を察したのか剣崎刑事は俺にアイコンタクトを送って来た。コクンとうなずくと、剣崎刑事も頷き返してくれた。「なるほど」という小さな呟きも聞こえる。


「白石さん、先週の木曜深夜に出水さんが亡くなった事はご存じですよね? あなたの自殺じさつ未遂みすいは出水さんが亡くなった事と関係があるのではありませんか?」


 剣崎刑事ははたで見ていてハラハラするくらいズケズケとたずねる。


 手首の傷を指差して自殺未遂と言われた白石妃菜は、取り乱すかと思っていたのに予想外の反応をした。


 あっけらかんとした調子ちょうし勝手かって自分じぶんがたりを始めたのだ。


「え? あんな男どうでもいいわよ。私はヘタレ社長になんか興味無いの。私が愛してるのは世界でたった一人の素敵な人、りったんだけよ」


 緊迫きんぱくした状況にそぐわない語りに俺たちは四人そろって毒気どくけを抜かれ呆然ぼうぜんとしてしまった。


「りったんて……誰ですか……?」


   ◆◆◆

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