『4、健気な姉妹の悲壮な覚悟』


 美波ちゃんの自宅は、我が家とは駅を挟んで対角たいかくの地区にある古い2LDKの賃貸ちんたいマンションだった。


 初めて会った時に少しだけ聞いていたけれど、美波ちゃんと凪砂さんの両親は十年以上前に亡くなっていて、姉妹は母方の祖母に引き取られ、今も三人暮らしだそうだ。


 通されたのは普通のキッチン兼リビングだった。


 狭いが掃除の行き届いた清潔な家で、シンプルな家具とカーテンはセンスが良い。四人掛けダイニングテーブルのベンチタイプの椅子に、憔悴しょうすいした様子の凪砂さんが一人で座っていた。


 祖母の繁子しげこさんは凪砂さんの為にご馳走ちそうを作ると言い、今は買い出しに出ていて留守らしい。


 少しやつれてメイクもしていなかったが、凪砂さんは清楚せいそな美人だった。サラサラの黒髪を肩より少し長く伸ばしてシュシュで一つに結んでいる。


 金髪でパンクファッションの美波ちゃんとは真逆の外見だけど、美波ちゃんと今日一緒に過ごしてみて真面目でシッカリしたお姉さん思いの子だと分かっていたので、二人が姉妹だという事に違和感いわかんはない。


 むしろ内面は似ているんじゃないかと思った。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 美波ちゃんは凪砂さんの隣にぴたっとひっつくように座って、顔をのぞき込んだ。年相応の甘えた仕草しぐさで、この子はお姉さんが大好きなんだと分かった。


「ちょっと疲れた。明日も任意で警察に呼ばれているの……おまえが殺したんだろうって何度も言われていると頭がおかしくなりそう……」


 菱山教授に聞いて捜査本部の事情をいくばくかは知っているだけに、凪砂さんの辛さは想像にかたくなかった。


 美波ちゃんは言いにくい事を切る出す前に、一度、大きく息をついた。


「お姉ちゃん、辛いと思うけど聞いて。出水さんにはお姉ちゃんの他にも付き合っていた女の人がいたんだよ。その人が真犯人だと思う」


「え……どういう事……?」


 人は信じ難い事を言われると、一瞬、笑ってしまうらしい。


 凪砂さんも例にたがわず表情だけで微笑んだ。


 それから、ジワリと美波ちゃんに言われた事の意味が浸透しんとうしたようで、眩暈めまいを起こしたようにふらりと上体をかしがせ、ほっそりした手を額に当てた。


 濃い懊悩おうのうがその仕草と表情ににじんでいる。


 美波ちゃんは、お姉さんの複雑な心情を理解できていないようだった。ただ、お姉さんを無実の罪から救おうというだけの気持ちをぶつける。


「お姉ちゃんの無実は必ず証明してみせるから、負けないで!」


 真っ直ぐで純真なだけの気持ちをぶつけられた凪砂さんは、瀕死ひんし殉教者じゅんきょうしゃのように焦点しょうてんの合わない視線を中空ちゅうくうに泳がせた。あえいで、必死で息をしようとしているようにも見える。


「待って……どういう事……?」


 分からない、と呻くように凪砂さんは呟いた。


「たくさんの事が一気に起こり過ぎていて気持ちが追い付かないわ。どういう意味なの? 彼が浮気をしていたって事?」


 美波ちゃんはじれったそうに畳みかけた。


「シッカリして、お姉ちゃん。ショックなのは分かる。でも今は自分の無実を証明するほうが大事でしょ。出水さんが浮気していたって事は、その浮気相手の女の人が出水さんを恨んでいたって事だと思わない? その人には出水さんを殺す動機があるんだよっ!」


「殺す……動機……?」


 凪砂さんはぼんやりした声音で呟いた後、せきを切ったように涙を流し始めた。


「そんな……彼に他の女性がいたなんて信じられない。だって、私たち結婚する約束をしていたのよ……出水さん、あの日も、君を必ず幸せにするって言ってくれて……彼が私だけを愛してくれていると信じていたのに……ぜんぶ嘘だったの……?」


 あっ、と美波ちゃんは狼狽うろたえた。


 やっと気付いたのだ。婚約者の突然の死や、それが殺人事件だという事実や、あまつさえ自分が婚約者を毒殺した犯人ともくされ警察から厳しい取り調べを受けているという事態よりも、心から愛した男性に自分以外の女性がいたかもしれないという疑惑のほうが、より深く、凪砂さんの心を傷付けてしまっているという事に……


「お姉ちゃん、ごめん。私、お姉ちゃんを傷付けるつもりじゃ……」


 苦しげに言葉をしぼり出した美波ちゃんに、凪砂さんは弱々しく首を振った。


「ううん、違うの。私がバカだったの。あんな素敵な人と夢みたいなデートをしてもらって浮かれていたから、何も気付かなかった。私は本気で愛していたのに……」


 かすかな嗚咽おえつが部屋に響き、信じていた恋人に裏切られた女性の悲しみが肌に痛かった。


 凪砂さんが心身共にかなり耗弱こうじゃくしている事は素人目にも理解できる。


 それも当然だ。


 結婚の約束までしていた恋人がデート中に突然亡くなったうえ、自分はその恋人の殺害容疑ようぎを掛けられて任意でとはいえ厳しい事情聴取までされている。しかも、その恋人が浮気をしていたと知らされるなんて……あまりにも辛い出来事が短い間にいくつも重なっておそって来たのだ。


 とても受け止めきれないだろう。


 か弱い女性でなくとも、普通の人間なら精神的にも肉体的にもまいってしまう。


 しかし、時間は無情だ。


 今は凪砂さんに気持ちを強く持ってもらうしかない。俺は、彼女の気を逸らす……あるいは引き戻す意図いとで、敢えて姉妹の会話に割って入らせてもらった。


「すみません。ご心痛は察しますが、俺たちは凪砂さんの無実を証明したいんです。だから、事件のあった日の事をなるべく詳しく聴かせてもらえませんか?」


「事件のあった日……?」


 凪砂さんは相変わらず焦点の合わない悪夢の中にいるような目をしていたが、水を飲んで呼吸を整えた後、ひと通り警察には話したけど、と前置まえおきしてぽつりぽつりと話し始めた。


「本当に……何があったのか分からないの……惚気のろけのようで恥ずかしいけど、彼とのデートはいつも素敵で、あの日も楽しいデートだった。彼とヨットに乗って夜の海を見詰めていると、世界にふたりきりのような気がして、とても幸せだった……」


 凪砂さんの話によると、事件の起きた先週木曜は凪砂さんがわざわざ有給ゆうきゅう休暇きゅうかを取って、夕方から翌朝までの予定で出水氏のヨットで海に繰り出したらしい。


 出水氏が自分のヨットをいつも停泊ていはくさせている横浜ベイサイドマリーナから出航し、海から横浜の夜景を眺めようと言われていて、暮れていく空を眺めながら太平洋上でシャンパンを開け軽い食事をとった直後、出水氏は苦しみ始め、すぐに息を引き取ってしまったらしい。


 出水氏から有事の際にそうしろと教えられていた通り、凪砂さんは無線で海上保安庁に連絡し、後は報道されていた通りになった。


 何者かがヨットに忍び込んで出水氏に毒を盛った様子は無かったですか、とも訊ねたが、狭いヨットなので誰かがヨットに乗り込んできたらすぐに気づいただろうし、凪砂さんは誰かが乗り込んできた気配は感じなかったとの事だった。それに、他の船も二人が乗っていたヨットには近付いて来なかったらしい。


 参った。


 これでは振り出しだ。


 誰もヨットに近付いて来なかったと言われてしまうと、容疑者は依然いぜん、凪砂さん一人しかいないという事になる。八方はっぽうふさがりの気分を味わい、俺たちはそろって落胆らくたんした。


 ちなみに、シャンパンを飲みながら食べたものは、凪砂さんが作って持っていったベーコンとレタスとチーズのサンドイッチと、出水氏が用意していたナッツ類だったという。当然、テトロドトキシンが含まれる食材は無い。


「そう言えば……彼、倒れる少し前に『歯が痛い』って言っていたわ。歯科クリニックで固いものを食べないよう注意されていたのに、うっかりアーモンドを仮の詰め物をした治療中の歯でくだいてしまったって……」


「それは事件とは関係なさそうですね」


 出水氏が事件当夜、歯が痛いと言っていたとしても、それは不自然な事ではない。出水氏は事件の一週間前に吉川歯科クリニックに来ていた。俺が初めて彼を見た日に、馴染みの患者としてやってきて吉川先生に迷惑顔をされつつも治療を受けていたし、死亡した日にも診療予約が入っていた。


 実はカルテをこっそり確認しておいたのだが、右下第二臼歯きゅうし根管こんかん治療ちりょうちゅうだったはずだ。仮封かりふうのカルボボンドを詰めただけの歯でアーモンドを噛めば、そりゃ痛いだろう。


 そんな事が分かるのも、ある意味、野村女史のお陰だ。あの人がろくに仕事を教えてくれないから自力であれこれ調べて勉強しているうちに歯科治療について素人しろうとのわりには無駄に詳しくなってしまった……


 野村女史の顔を思い出すと気が滅入る。


 それで、ふと思い出したのだが──いや、ふと思い出したとか言うのは、俺の分際ぶんざいで図々しいのだが──俺は月曜から金曜までは二時から七時まで歯科助手のバイトがあるのだ。バイトは休めない。吉川先生に迷惑がかかってしまう。


 なんとしてでも、この土日のうちに事件の真相しんそうを解き明かし真犯人を探し出さねば……


   ◆◆◆

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