『2、告白』


 長く……息苦しい沈黙ちんもくがあった。


 それから、観念かんねんしたように、吉川先生は微かにまつげを震わせ、淡い溜息をついた。


「一部間違いがあるけど、ほとんど真之くんの言う通りよ」


「え……間違いは一部だけなんですかっ!?」


 俺は実は自分の推理に自信が無かったので、思わず妙な返しをしてしまった。吉川先生はそんな俺を見てクスリと笑った。


「テトロドトキシン溶液を仕込んでおいたのは、シリンジではなく、患者ごとに使用するプラスチックニードルのほうよ」


 あっ、と俺は声を上げてしまった。


 そう……それが分からなかったのだ。毒殺で重要なのは、致死量の毒物の確保だ。少量しか入手できないならば、あるいは、少量しか投与できないのであれば、極力きょくりょく、混入させる媒体ばいたいを少なくしなければいけない。


 つまり、


 毒を何に混入するにしても、その溶液の絶対量をいかに少なくするかがハードルだと俺は気付いていたが、その方法がどうしても分からなかった。


「それ……まったく思い付きませんでした……」


「そう。いっそ、何も思い付かないでくれれば良かったのに……」


 吉川先生は珍しく軽口を叩き肩をすくめて見せた。不思議だ。出会ってから初めて、吉川先生がリラックスしているように見える。もしかしたら、時々、上の空で物思いにふけっているように見えたのは、先生が罪を隠していたからだったのかもしれない。


「……どうやってプラスチックニードルに毒を仕込んだのか、教えてくれますか?」


 吉川先生はすんなり首肯しゅこうした。


「先端に極少量……芥子けしつぶよりも少ない量のグリセリンを詰めて栓にし、粉末ふんまつ状のテトロドトキシンを溶かした精製せいせいすいを別のシリンジとニードルを使って流し込んでから、シリンジに装着そうちゃくする側もグリセリンで蓋をしておいたの」


 なるほど。そんなやり方があったとは……


 さすが吉川先生……


「ちなみに、今、真之くんが手に持っているシリンジの中身は、あなたが言った通り弱酸性のハンドクリームです。シリンジのほうの内容物はただニードル内に仕込んだ毒物を押し出すだけの役目ではあったけれど、アルカリ性のカルシペックスでは、万が一、根管こんかん内で混ざってしまった場合にテトロドトキシンを分解してしまうから、中身を入れ替えておく必要がありました」


 推理が正しかったと褒められたような気がして、不謹慎ふきんしんにも俺は吉川先生をじっと見詰めてしまった。そんな俺の気持ちを見透かしたのか吉川先生は困ったように微かに片眉を上げた。


 ああ、と俺は内心で溜息をつく。今、この瞬間、俺は失恋したのだろう。


 そんな不純ふじゅんな気持ちは心の端に片付けて、推理した事を語り続けなければならなかった。今、それの正誤せいごを訊いておかなければ、おそらく一生、真実を知ることは出来ないだろうから。


「カルシペックスのシリンジを犯行に利用したのは、シリンジの過量かりょう吐出としゅつを防止する機能が重要だったからですよね。根管から溢れさせてしまえば、口腔こうくうない粘膜ねんまくからテトロドトキシンが吸収されてしまいますし、それこそ致死量のテトロドトキシンを誤って飲みこませてしまえばたちまち中毒症状が起こって、数時間でターゲットが亡くなってしまいますからね。カルシペックスのシリンジは一度に〇.一グラムしか薬剤を押し出せない構造になっています。それが、プラスチックニードルの内容物を安全に根管内に注入させるのに都合が良かったんですね」


「その通りです」と吉川先生は優しく言った。


 プラスチックニードルの容量ならば、溶液の重さがグリセリンの蓋を押し流すほどの力にならない。針先にほんの少し詰められた、それこそ一ccほどのグリセリンの栓は、そのまま歯髄しずいの先端に留まってテトロドトキシンが血中に浸潤しんじゅんする事を防ぐ栓にもなっていたはずだ。


 出水氏が治療中の歯でアーモンドを噛み砕きさえしなければ──


 薬剤を根尖孔外こんせんこうがいへ押し出さないよう製薬会社のガイドにも書かれているが、アーモンドを噛み砕いた際の負荷によって、根尖孔外への漏出ろうしゅつが起こったのだろう。


 それがカルシペックスや他の根管治療に使用される薬剤であれば、顎管がくかんに成分が漏出し歯槽しろう神経の損傷そんしょうを引き起こす危険性があると注意喚起されてはいても、致死性ではない。


 吉川先生は、その「押し出し」が、起きるか起きないか賭けたのではないかと思う。


 テトロドトキシンが芥子粒ほどのグリセリンの栓もろともに根尖孔外こんせんこうがい、つまり顎管がくかん漏出ろうしゅつした場合、生体内にテトロドトキシンが吸収され始めるという事だ。


 いつ破裂するか分からない毒の爆弾を奥歯に仕込んだ──それが、時間差毒殺あるいは遠隔えんかく毒殺のトリック。


 犯人は……吉川先生は、犯行現場に居る必要は無かった。


「動機はなんだったんです? 先生はギリギリまで迷っていたんじゃないですか? 出水氏の歯を歯髄まで削ってしまいはしたものの、一旦は思い直して、通常通りの根管治療を行おうとしたんじゃないですか?」


「どうしてそう思うの?」


「あの日、吉川先生は、最初は本物のカルシペックスを手に取ったはずです。俺が見た『』はソレです。先生はソレを拾わず、キャビネットに用意しておいた毒を注入する為に用意した偽のカルシペックスのシリンジに持ち替えた。最初に本物のカルシペックスのほうを手に取ったのは、罪の意識が先生を迷わせたからでしょう? あの時、先生がシリンジを落としていなければ、俺はカルシペックスを意識する事も無かったでしょうし、トリックにも気付かなかったかも知れません」


「そうかしら? そんな些細な事で私が真犯人だと気が付いたのなら、きっとあなたは名探偵なのよ。きっかけが無かったとしても、いずれは真実に辿り着いたはずよ」


「そんな褒められ方をしても嬉しくありません」


 俺と吉川先生はしばし黙り込んでお互いの表情を探り合った。


 俺は何をどこまでたずねれば良いのか判断できずに迷っていたし……吉川先生も、事ここにおよんで、どんな態度をしてどこまで話せば良いのか、あるいは、この場所に居る俺たちに、どこまで心を開いて話をしたいのか、決めかねて躊躇ためらっているように見えた。


 俺は、とにかく言いたい事だけを言い、訊きたい事は訊いてしまおうと思った。出水氏を殺した吉川先生に対する気の遣い方なんて分からない。


 なぜ、この美しくて優しい人が、殺人などという恐ろしい罪を犯したのか……


 ただ、動機が、理由が知りたかった。


「先生は一旦は犯行を躊躇ちゅうちょしただけでなく、出水氏に一週間の猶予ゆうよも与えましたよね。何事も起こらなければ、次の治療で歯に仕込んだ毒を取り出して命を助けてあげるつもりだったんじゃないですか? 先生は、出水さんを殺すか生かすか、ご自分では決められなかったから、運を天にゆだねたんですよね?」


 吉川先生はともとも言わず、剣崎刑事も、芽衣も、美波ちゃんも、野村女史でさえ、固唾かたずを飲んで吉川先生の答えを待っていた。


 俺は覚悟を決めて、先生の心にもう一歩踏み込む。土足で。


「でも、出水氏は治療中の──毒が仕込まれた歯で、アーモンドを噛み砕いてしまった。吉川先生は『固いものを噛むな』と忠告しておいたのに」


 天は出水氏を見放したのだ。仕込まれていた毒の罠は起動した。


「他の誰かと一緒に居る時、あるいはパーティーの最中や、一人で居る時に毒の漏出が起きてもおかしくなかった。なのに出水氏が凪砂さんとヨットに乗っている時にソレが起こり、凪砂さんに殺人容疑がかかったのは想定外の不幸な偶然だったのでしょう?」


 凪砂さんの名前を出した時、ついに吉川先生は眼差しを泳がせ、掠れる声で唇を開いた。


「そうね、不幸な偶然だったわ。だけど……だからこそ、私は運命を感じた」


 吉川先生は顎を引き、中空を睨むように少しだけまなじりを上げた。初めて見せる恨みを含んだ暗くて硬い表情だった。


 固く握り合わせた両手が痛々しい。そして、どこか子供っぽいような頑是がんぜない調子で先生は告白した。


「だって、相沢凪砂さんと婚約した事が、私が出水くんを殺した動機だもの」


「勝手なこと言わないでっ!」


   ◆◆◆

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