『3、動機と幕引き』


 美波ちゃんは物凄く怒っていて、肩で息をしていた。


「お姉ちゃんはあなたのせいで犯人扱いされて警察で何日も取り調べを受けたのよ。仕事だって何日も休むはめになってクビになりそうなんだからっ!」


 ドンッと壁を殴り、美波ちゃんは溜めに溜めていたいきどおりを吐き出す。


「ううん、それだけじゃない……お姉ちゃんは大切な恋人をのよっ!」


 芽衣が腕を掴んでいなければ、美波ちゃんは吉川先生を殴っていたかもしれない。


 吉川先生は、美波ちゃんが初めて気づいたようだった。


「あなたは……」


 と言って、しばらく黙り込んだ。


 思い返してみれば……初めて美波ちゃんがクリニックに来た時は、野村女史が剣崎刑事と往来でわめき散らしながら派手に揉めていて、色々有耶無耶うやむやのうちに、俺と芽衣と一緒にスタッフルームに入ってしまったから「うちの妹と友達です」としか紹介していなかったし、今日も剣崎刑事と一緒に来たから、特に名乗ってはいない。


 そして、慌ただしく今に至っているので、自己紹介をする機会が無かったのだ。


 未成年の「子供」は、個人として軽んじられるものなのだと、俺は奇妙な場面で奇妙な事に気付いた。吉川先生は、美波ちゃんの存在を今の今まで意識してさえいなかったのだ。


 サッと先生は恥の感情で秀麗な顔を歪め、片手で口元を覆った。この子の前で言うべきではない事を言った──とその表情と仕草は語っていた。


「ごめんなさいと言える立場ではないわね……でも、ごめんなさい……」


「謝らないでっ! 私はあなたを絶対に許さないんだからっ!」


 美波ちゃんに怒鳴られ、吉川先生はいたたまれないというように俯いた。


「どうして出水さんを殺したの?」


 美波ちゃんの詰問きつもんには逆らえないと観念かんねんしたのか、吉川先生は一度深い溜息をつき、視線を美波ちゃんに合わせないまま話し始めた。


「出水くんと私は高校生の頃は恋人同士だったのよ」


「うっ!」


 推理の途中から薄々そんな気はしていたが、ハッキリ言われるとショックだ。


「どうしたの、お兄ちゃん?」


 思わずうめいた俺に、心配そうな顔をした芽衣が小声でいてきた。


「いや、なんでもない。気にするな」


「でも顔色が悪いよ?」


「本当に大丈夫だから、今は放っておいてくれ」


 俺の気持ちはなんかどうでもいいのだが、なにしろ吉川先生は俺が初めて淡い恋心を抱いた女性なので、あの出水氏と付き合っていた過去などは、やんわりとぼかしておいて欲しかった感は否めない。いや、ホント、俺の気持ちなんてどうでもいいんですけど……


 そこからの吉川先生の告白は淡々たんたんとしていたけれど、苦しそうで、長い時間がかかった。


 俺たちは黙って彼女の懺悔ざんげとも告解こっかいともつかぬ語りに耳を傾けた。


   ◆◆◆


 あの頃の彼は内気で優柔ゆうじゅう不断ふだんで何も決められない人だった。なんでも私が決めたわ。デートのプランも、彼が着る服も、彼の進路まで……


 それが段々辛くなってきて、彼の二十歳の誕生日に、私が振ったの。自信の無い人は嫌いだから別れましょう──って。


 でも、本気じゃなくて、ただ彼に変わって欲しかっただけ。もっと自信を持って、私の言いなりじゃなく、自分で決断できる人になって欲しかった。


 私は上手く気持ちを伝えることが出来なかったの。


 出水くんは変わったわ。でも、私の望む変化じゃなかった。


 私と別れた後、彼は何にでも積極的に挑戦するようになった。はたからは危なっかしく見えるほどに。


 でも、出水くんには生来、経営の才能があったんでしょうね。大学卒業と同時にお父様から任されたレストランの経営をまるでギャンブルのようなやり方でどんどん拡張かくちょうさせて行き、あっという間に、都内に十数軒の店を構えるまでになった。


 私が歯科医師免許を取得する頃には、彼は自信に満ち溢れ社交的で魅力的な青年実業家になっていた。そして、軽薄な態度で女性を口説くようにもなっていたの。


 私には、すべてが私への当て付けに感じられたわ。


 彼は、あんな風に振る舞う事で、ずっと私を責めていたのだと思う。


 でも、そんな態度をされて、どうこたえれば良かったというの?


 どうすることもできなかった……


 そんな風に私たちはすれ違ったまま何年も経ち、いつの間にか彼だけが失恋の傷をいやしてしまっていたの……


 相沢凪砂さんの話をされた時、私は手が震えたわ。


 私はまだ出水くんを愛していたのに、出水くんは無邪気に報告してきたのよ。『とうとう君を吹っ切って別の女性を本気で愛する事が出来た。彼女と結婚するつもりだ』って──


   ◆◆◆


 吉川先生は、寒さに震えるように両腕で自分の体を抱え込んだ。


「出水くんは私がこのクリニックを開いてからずっと、三ヶ月ごとに歯の検診とクリーニングに通ってくれていたわ。時々は友人として手土産を持って訪ねてくれたりもした」


「それで出水氏はこのクリニックの患者だったんですね」


 そうよ、と吉川先生が首肯すると、野村女史はへなへなと床に座り込んだ。「そんな、出水さん、あんなに優しかったのに、吉川先生が目当てだったの?」としょうもない事をブツブツ呟いている。俺は野村女史の姿は見ないフリをした。


「先生は出水氏を迷惑がっているのだと思っていました」


「そうね……目の前で大勢の女性を口説かれるのは迷惑だったわ」


「それでも、出水氏に会える事は嬉しかったって事ですか?」


 寂しそうに吉川先生は微笑んだ。


「違うとは言えないわ。他の女性と婚約したのだから、もう私のクリニックには来ないと思った。なのに、彼は今後も変わらず通うと言ってくれた。驚いたけど、嬉しかった」


 だからこそ限界だったのよ、と吉川先生は言葉を継いだ。


「もう彼を見ている事に耐えられなくなったから、殺したの」


 美波ちゃんは我慢して黙って聞いていたようだったが、そこで再び激高げっこうした。


「そんな、そんな勝手な言い分、お姉ちゃんに納得しろって言うのっ?」


「いいえ……そんなつもりは……ただ、出水くんの婚約者だった凪砂さんと、彼女の妹さんであるあなたにだけは正直に伝えなければいけないと……許して欲しいなんて図々しい事は思っていません……凪砂さんにも……もちろん、あなたにも……」


 美波ちゃんはそっぽを向いて「許さない」と吐き捨てるように言った。


 美波ちゃんの気持ちは分かる。もう少しで大切なお姉さんが無実の罪を着せられるところだったのだから。誰にも許せなどと言う資格は無いだろう……


 ただ、俺は出水氏の気持ちが気になった。どういうつもりで十年以上も分かれた恋人である吉川先生の近くに居続けたのか? 捨てられた恨みや、見返してやると言う悪意だけで、十年もの年月、誰かと関わり続けられるとは思えない。


 出水氏は吉川先生に対して素直な愛情を──恋着れんちゃくや未練のようなものではなく、友愛ゆうあいを抱いていたのではなかろうか。


「出水氏の行動は本当に当て付けだったのでしょうか?」


 俺は思わず呟いていた。


「え?」


 不思議そうに吉川先生は俺の顔を見詰めた。


「吉川先生はどうやって出水氏の隠し持っていたテトロドトキシンを入手したんですか?」


「それは……」


 一瞬、吉川先生は虚を突かれたように目をしばたいた。


「彼が……私を友人として部屋に招いてくれた時に見せてくれて、その時に……」


 やっぱりそうか、と俺は諦めた。


「では、出水氏は吉川先生を信頼していたんですね……」


「どういう意味……?」


自宅に招いていたのですから、そこに信頼が無かったわけがない。出水氏は、想いの形は変わっても、ずっと吉川先生を好きだったんですよ。俺は、そう思います」


 しばしの沈黙の後、わっ、と吉川先生は泣き崩れた。


   ◆◆◆


 しばらく泣いて、吉川先生はようやく落ち着きを取り戻した。メイクが少し崩れているが、相変わらず女優のように綺麗だった。


 みんなが呆然としている中、剣崎刑事だけが幾分か冷静さを保っていた。吉川先生にメイクを落として顔を洗ってくるよう伝えた後、あくまでも事務的な声で、


「自首してくださいますか?」


 と言ったのだ。続けて、二階のご自宅に付き添いますから着替えも用意した方が良いですよ、と細やかな気配りまで見せる。


「あなた、良い人なのね」


 吉川先生にそう言われて、剣崎刑事は無表情のまま微妙に頬を紅潮こうちょうさせた。


「これは仕事です」


「ええ、そうね……そうよね……仕事よね……」


 吉川先生はものが落ちたようなスッキリした顔をしていた。


「刑事さん、私が出水くんを殺しました」


 手錠てじょうをかけてください、と両手を差し出した吉川先生に、剣崎刑事は黙ったまま静かに首を横に振った。


「その必要はありません。あなたに逃亡の意思は無いのですから」


   ◆◆◆


 小一時間が経ち、剣崎刑事に付き添われて吉川先生が身支度と簡単に荷造りを終えた頃、サイレンを鳴らさずに神奈川県警の警察車両が到着した。二階に上がる前に剣崎刑事が捜査本部に連絡し手配しておいたのだ。


 白と黒に塗り分けられたセダンに乗り込んだ二人を見送った後、俺たちはパニックにおちいり泣いたりわめいたりする野村女史をなだめなければならなかった。


 そう、美しい人が去った後、剣崎刑事もいない場に残されたのは、俺と、芽衣と、美波ちゃんと、混沌に飲まれた野村女史の四人だったのだ──


 ちょ、せめて、ひたる時間くらいくれ……


   ◆◆◆

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