終章

『1、ひきこもりには戻れない』


 その日のうちに──当然ではあるが──凪砂さんは自宅に戻り、少しの混乱の後に、俺たちには平和が戻って来た。


 翌日には、美波ちゃんは芽衣と元気よく学校へ向かったし、凪砂さんも無事に仕事に復帰したらしい。婚約者を亡くした心の傷が癒えるには長い時間がかかるだろうが、美波ちゃんが側に居るのだから立ち直ってくれると信じたい。


 ところで俺のバイト代なのだが、拘置所こうちしょにいる吉川先生に代わって、三日後には弁護士が我が家に直接持って来てくれた。


 その額はだいぶ多めだったのだが「彼女の気持ちだから」と言われて、どうしていいのか分からず受け取ってしまった。


 その弁護士の話によると、野村女史と佐々木さん(結局、一度も顔を合わせた事が無い)にも相応の退職金たいしょくきんが支払われたらしい。彼女たちも職を失って難儀なんぎしているだろうなとは思ったが、なんだかんだで野村女史と佐々木さんは二十年ほども歯科助手を続けてきたベテランだから、次の職には困らないだろう。うん。たぶん。そう思うけど……


 俺は元のひきこもり生活に戻れてホッとしたような、手持無沙汰でモヤモヤしているような妙な気分だった。


 毎日こんなに暇だったっけ……


   ◆◆◆


 そんなこんなで……


 俺は職を失い、結局、元の安穏あんのんとしたひきこもり生活へと戻る事になった──と言いたいところだが、そうは問屋とんやおろさなかった。


 吉川歯科クリニックが診療を休止して十日が立った頃──


 なぜか吉川先生の弁護士さんからいきなり電話がかかってきたのだ。


 しかも、俺の新しい職場として別の歯科クリニックを紹介してくれると言うから驚いた。


還暦かんれき過ぎのお婆ちゃん先生がやっている、古くて昔馴染みの患者ばかりを相手に営業している歯科医院なので、のんびりした雰囲気ですよ。しかも、真之くんに向いている午後からのシフトです。良い話でしょう? 来週からなんですが、いかがですか?」


「え、え、えっ!? 俺なんかが行って役に立つでしょうか?」


「佐々木さんも……っと、真之くんは佐々木さんとは顔を合わせた事は無かったんでしたっけ?」


「は、はい……」


 いったい、どういう風の吹き回しだろう?


「佐々木さんもそのクリニックに転職する事が決まってるんですよ。佐々木さんにはすでに『真之くんをよろしく』という吉川先生からの伝言はお伝えしてあります」


 あっ!! と俺はようやく事態じたいを察した。今は拘置所にいる吉川先生が、弁護士さんを通じて俺が次のバイト先に困らないよう便宜べんぎを計ってくれたのだ。しかも、指導しどう要員よういんに佐々木さん(ただし会った事は無い)をててくれるという手厚てあつさで。


 うわあぁぁぁ、どうしようぅぅぅ……


 正直、もう働く必要は無いし、むしろひきこもりに戻りたいんだが、吉川先生のせっかくのお気遣きづかいは無下むげにはしにくい。


 ここで、そんな「お気遣い」が来るか──っ!?


 なんという運命の皮肉──っ!!


「ここは早く決めてしまったほうが良いですよ」


 弁護士さんに返事をかされ、パニクッていた俺はうっかり焦って「働きます」と安請やすうけ合いしてしまった。


「あの、ところで野村さんは?」


 ちょっと気になって訊いてみた。


「あ、ああ……野村さんは……」


 弁護士さんは言い難そうに口籠くちごもり、ううむ、とうなってから話を続けた。


「実は吉川先生は野村さんがクリニックで長年パワハラを行っていた事をご存じなんです。佐々木さんが陳情ちんじょうしまして……」


「えっ? 佐々木さんがパワハラを受けてるって言ったたんですか?」


「退職金をお渡ししに行った際に私が話を聞きまして、吉川先生にそのままお伝えしました。それで、吉川先生は野村さんを知り合いの歯科クリニックに紹介する事はやめておく、と……」


「そうだったんですね……」


 なんだか不思議な気分だ。ざまあみろ、という気持ちも少しある。


「ところで、真之くんも野村さんからパワハラを受けていたんじゃないですか? もし、そうなら、雇い主に『誰々さんからこういうパワハラを受けた』ときちんと報告しなきゃダメじゃないですか。雇い主には就労しゅうろう環境かんきょうを改善する義務があるんですから」


「あっ、す、すいませんっ」


 なぜか俺は謝ってしまった。


 ていうか、パワハラを受けたら我慢しないで報告すべきだったんだな。よく分からず耐えてしまった俺は世間知らずだった。


 弁護士さんに注意されて勉強になった。


「今度の職場の雇い主も、一緒に転職してあなたに仕事を教えてくれる予定の佐々木さんも、穏やかで優しい女性なので安心してくださいね」


「は、はい。ありがとうございます」


 なんだか有耶無耶のうちに次の職場が決まってしまった。


 俺は若干、流れの速さについていけずにぼうっとしていた。


 とはいえ、他に仕事を探すのも面倒だったし「せっかく覚え始めた仕事をたった一週間ちょっとで辞めてしまうのは惜しい」と思っていたのでありがたかった。


 野村女史に仕事をマトモに教えてもらえないという虐めを受けながら、深夜まで本を読んだりネット検索をしたり、物凄い苦労をして得た知識を無駄にするのは切実に悔しい。


 それに俺は、実は歯科助手の仕事が好きなのだと気付いてしまっていた。


 せっかく興味が持てる仕事に巡り会えたので、もっと学びたいし、出来れば歯科助手を続けたいと思っていた。


 なにしろ、歯科の診療は見ていてワクワクするのだ。義歯を作ったり仮歯を作ったり、レジンで歯の欠けた部分を埋めていく作業などは、ちょっとした芸術なのだ。ただの素材がみるみる歯の形に変貌していき、創造の魔術を見ている気分になる。


 歯科医師の凄技治療術を見る為だけでも、歯科助手の仕事を続ける意義があると俺には感じられる。


 とにかく、とても甲斐がいのある仕事だと思う。


 母親のゴリ押しで無理やりやらされたとはいえ、歯科助手になって良かったと思う。


 本当は吉川先生のもとでずっと働き続けたかったのだけれど……


 吉川先生は裁判を待つ身だ……


 初恋は苦い思い出になってしまった。


 それでも、日々は続いて行く。


   ◆◆◆


 そんなこんなで、あれこれ挨拶をしてから弁護士さんとの通話を終えた翌日、なんと野村女史から電話がかかってきた。


 どういう経緯けいいでか、佐々木さんと俺だけ新しい職場が決まった事が野村女史の耳に入っていたようで、猛烈もうれつな勢いの罵倒ばとうが始まった。


「なんで佐々木さんとあんただけ仕事を紹介して貰えるのよっ!? 冗談じゃないわっ!! 私が何年、吉川歯科クリニックで働いたと思ってるのよっ!! あんた、私に仕事譲りなさいよっ!! ふざけんじゃないわよっ!!」


 俺が名乗る間もなく、一方的に怒鳴りまくって理不尽な文句をまくし立てるので、鼓膜こまくが破れるかと思った。


 いわれの無い罵倒なんて聞くのもバカバカしいので、スマホを耳から離し、何も言わずにソッと通話を切り、そのまま着信ちゃくしん拒否きょひした。


 もう、あんな人とは関わるまい。


 ちなみにその後の野村女史はというと……


 吉川先生が犯人だと判明する直前まで自分が出水氏を殺害したと疑われていた事を知り、先生が逮捕された直後は、殊勝しょしょうにも「吉川先生が自首して、私の無実を証明してくれて感謝している」などと似合わない事を言っていたので胡散うさんくさく感じていたのだが──これは次の職場で勤め始めてから佐々木さんから噂を聞いて判明する事なのだが──案の定、翌日からは吉川先生の悪口をあることないこと言いまくっていたらしい。


 確かに吉川先生は罪を犯したが、それまでの先生の品位ある振る舞いはみんなの記憶に残っていて、あまり悪口を言いたがる人はいないと母伝手づてに近所の噂を聞いた。


 それで、一人で吉川先生の悪口を言いまくっている野村女史は、みんなの顰蹙ひんしゅくを買っていて、誰にも相手をされなった上、新しい就職先もなかなか決まらないらしい。


 パワハラをしていた件も、当然、みんなの知るところとなっている。


 歯科医の世界は案外と狭い業界なので、パワハラをする意地の悪い人間だと知れ渡ると、誰も雇いたがらないのだとか……


   ◆◆◆

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