『1、ひきこもりですが働きます』


 正直、俺は二十一歳になっても自分がひきこもりだという事を苦にしていなかった。


 自分の部屋は快適だ。実家はぶっちゃけ裕福ゆうふくで、父親は早くに亡くなってしまったが残された俺たちが一生暮らしていける程度の財産はのこしてくれたので日々の暮らしには困っていない。


 物心ついた頃には俺に与えられていた二階の子供部屋は俺の好きなモノであふれている。漫画、小説、ゲームとアニメのソフト、映像機器、ゲーム機器、パソコン、興味を持ったモノはたいてい揃っている。


 しかも南向きで日当たりと風通しが良い上、適度てきどに広く、大きな窓から見えるガーデニング好きの母親が手入れした庭はいつも花があふれていて心を穏やかにしてくれる。


 最高の棲み処すみかだ。


 ちなみに我が家は、母=夏ノ瀬なつのせ綾子あやこ、妹=夏ノ瀬芽衣めい、俺=夏ノ瀬真之まさゆきの三人家族である。母親と妹はそろってのほほんとした性格で、うるさい事は何も言わない。父の生前せいぜんから、記憶にある限り、ずっと家族仲かぞくなかは良く、もちろん今も仲良しだ。


 リビングにりて行けば、いつでも母親が……帰宅していれば妹も、大抵たいていにこやかに迎えてくれる。


 俺は夜型よるがたなので朝食ちょうしょく昼食ちゅうしょくは食べないが、夕食ゆうしょくだけはほとんど毎日、家族三人そろって食べているし、食事時に限らずそれなりにおたがいの事を話し合っているので、コミュニケーション健全家族だと思う。母親が淹れた上質の紅茶と、妹が気に入っているパティスリーの焼き菓子マドレーヌを味わいながら過ごす休日午後のティータイムは俺の最高のいやしだ。


 そんな理想的な家庭で、好きな時に寝て、好きな時に起きて、食事も入浴シャワーも外出も好きな時にできて、好きなだけ本が読めて、ゲームもし放題、ネットも常駐じょうちゅう──こんな気ままで楽しい生活が他にあるだろうか。もちろん、あるはずがない。


 規則きそく正しい生活を送る事がちょっと面倒めんどうになってしまい、高校卒業こうこうそつぎょう同時どうじにひきこもり、今日までバイトひとつするでもなく好きな事だけをして毎日を暮らしてきたが、ひきこもりのきっかけとしてありがちな、いじめられたとか、受験じゅけんに失敗したとか、そんな深刻しんこく事情じじょうは無い。


 世の人々がいだくひきこもりのイメージは鬱々うつうつとして陰々いんいんとして、おさき真っ暗まっくら、年を取ったら親のとぼしい年金で細々ほそぼそらし、いずれは親と共倒ともだおれ……的なモノしかないようだが、俺はそんな心配とは無縁だったし、世間でイメージされているような、家族と顔を合わせるコトを避けて一日中自分の部屋にこもっている状態でもなかったので、何も問題は無い、と自分では思っていた。


 本当に、何ひとつ悩んでいなかった。


 ただなんとなくひきこもりになり、なんとなくひきこもり続けていた。


 自宅で過ごす事が快適かいてきで楽しく、かつ純粋じゅんすいに好きだったからだ。


 ところがだ。その極楽ごくらく生活をるがす事件が起こった。


 青天の霹靂へきれき──


 ある四月の昼下がり、満面の笑みを浮かべ、お目々キラキラ状態の、実年齢より二十歳は若く見える、美魔女びまじょを通り越してある意味バケモノの母親が、突然俺の部屋に乱入して来て、とんでもない無茶振むちゃぶりをかましてくれたのだ。


「ねえねえ、まーくん。ママの知り合いのクリニックで歯科助手しかじょしゅさんを募集ぼしゅうしてるから、あなた行ってみなさい。たまにはお仕事するのも楽しいと思うわよん」


 俺は、たっぷり三十秒は固まった。


「は? 歯科助手って……なに?」


「歯科助手は歯科助手よ。知らない? まーくん歯科クリニックで半年に一度は検診けんしんと歯のクリーニングしてもらってるでしょ?」


 はあ、まあ、歯医者には定期的ていきてきに検診に行っているが、それがどうしたというのだ。


「で、診療しんりょうの時に歯医者さんの助手をしている人がいるでしょ。それが歯科助手さんよ」


「ちょっと待ってくれ……」


「あ、歯科助手は、歯科衛生士しかえいせいしと違って国家資格こっかしかくらないから、何の資格も持っていないまーくんでも安心よ」


「そうじゃない。そこを気にしてるんじゃないっ!」


 今の話には突っ込みどころが多過ぎる。


 まず第一に、俺は高校卒業以来三年ちょいひきこもり生活を満喫まんきつしてきたのに、今までただの一度も、就職しゅうしょくしろともバイトをしろとも、ついでに言えば大学に進学しんがくしろとも、言われた事など無かった。なのに、なぜ『今』いきなり働く事をすすめられたのか──意味が分からない。


 第二に、なぜ初めて進められた職が『歯科助手』なのか、そこも意味が分からない。


 第三に、何の資格を持っていないとわざわざ実の息子をおとしめる意味も分からない。


「ちなみに、母さん……俺、歯科助手って女性しか見たこと無いんだけど……?」


「あら、それはたまたまよ。男性看護師かんごしさんだって男性介護士かいごしさんだって男性保育士ほいくしさんだっているでしょ。男性歯科衛生士さんだっているし、男性歯科助手さんだっているわよ。まあ、まだ、ちょっと、かなり、珍しいかもしれないけど」


 うっ、そう言われてしまうと反論はんろん余地よちが無い。


 また、なんとしてでも働きたくないかと言われれば──なにしろ、なんとなくひきこもって、なんとなくひきこもり続けていた俺だ。何も深刻しんこく事情じじょうは無い。前述ぜんじゅつしたが、虐めを受けたわけでもなく、受験に失敗したわけでもない。実は某国立大の経済学部けいざいがくぶを受験し合格はしたのだが、通うのが面倒臭めんどうくさくなって入学しなかっただけだ。


 つまり、俺は、今までの人生で特に挫折ざせつらしい挫折は味わっておらず、人間関係でぬぐがたい失敗をしたというわけでもないのだ。もちろん、強烈きょうれつなトラウマがあるわけでもなく、したがって対人恐怖症たいじんきょうふしょうというわけでもない。なんの動機どうきも無い、軽いリゾート気分のひきこもり生活だったわけで……


 なんとしてでも働きたくないという程の強い意志は無かった。


「まーくん、バイトしてみよ? ね?」


 ならんで歩けば姉に間違まちがわれるほど若々わかわかしく、ご近所の人達からは美人のほまれも高い、いっそ幼稚ようちと言ってもいいほどに無邪気むじゃきな性格の母親に、満面まんめんの笑みで「ね?」と言われて邪険じゃけんにできるとしたら、そいつははがね心臓しんぞうを持っている。


 残念ながら、意思薄めの俺に鋼の心臓は無かった……


   ◆◆◆


 結局、俺は母親の熱心なすすめをことわることが出来ず、三日後の午後、『知り合いのクリニック』なる場所へ面接に行かされることが決定した。


 そうなると、歯科助手について少しは調べておこうという気が起こった。


 てきを知りおのれを知れば百戦ひゃくせんあやうからず──とは孫子そんしの言葉だ。ようは敵をよく調べておけば、そうそう悪い事にはならないだろう、と、その程度の気持ちだった。


 ここから先の ひとかたまり は読み飛ばしてくれていいのだが……


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 まず歯科医は分かる。歯学部しがくぶ卒業そつぎょうし、歯科医師しかいし国家試験こっかしけんに合格し、歯科医師免許めんきょを持って歯と歯周組織ししゅうそしき口腔内粘膜こうくうないねんまくなどの治療ちりょうを行う歯科専門しかせんもんの医師だ。診察しんさつ治療ちりょうは医師にしか許されていない。

 歯科衛生士しかえいせいし歯科助手しかじょしゅについては、未熟みじゅくな俺は区別がついていなかった。検索けんさくしてみると、両者りょうしゃの違いが説明されているウェブページがいくつも見付かった。そのうちのひとつを読んで、歯科衛生士は歯科医師の指示に従っての虫歯むしば歯周病ししゅうびょう予防処置よぼうそち、つまり歯磨きみがきの指導しどう虫歯予防むしばよぼうのフッ素剤そざい塗布とふなど、患者かんじゃ口腔内こうくうないれる診療補助行為しんりょうほじょこういが許される国家資格であることが分かった。高等学校こうとうがっこうを卒業した後に歯科衛生士の養成学校ようせいがっこう大学だいがく歯学部しがくぶ口腔こうくう保健ほけん学科がっか短期たんき大学歯科しか衛生えいせい学科、専門せんもん学校など)で三年以上の必須ひっすカリキュラムをおさめ、国家試験に合格し、厚生労働省こうせいろうどうしょう認可にんかもののことらしい。1948年に制定せいていされた歯科衛生士関連法かんれんほうでは女性の職業と位置いちけられていたが、2002年には男性歯科衛生士も厚生労働省と日本にほん歯科医師会しかいしかいから認可された──とある。

 そして、俺が母親から勧められた歯科助手だが──こちらは、医療行為いりょうこういは一切行えず、雑務ざつむのみをにな助手じょしゅの事らしい。歯科医師の診療時しんりょうじ器具きぐ薬剤やくざいわたしをおこなったり、バキュームと呼ばれる(歯の診療中に口の中にまった水や唾液だえきい出すくだ)をささえ持ったり、受付業務うけつけぎょうむや患者の案内や介助かんじょ診療器具しんりょうきぐ片付かたづけと消毒しょうどく滅菌めっきん、病院内の掃除そうじなどが主な仕事だ。国家資格などは必要無く、特に男性が就労しゅうろうする事をきんずるルールも無い。

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「なるほど……」


 俺は理由わけも無く深い溜息ためいきをついた。


 別に歯科助手が嫌だというのではない。国家資格が無くても就労できるという条件はありがたい。ただ、仕事の内容が面倒臭そうだと思ったのだ。


 当たり前だが、他のどんな仕事も未経験なので、働くという事がどんな感じなのかそもそも想像がつかない。


 ましてや歯科助手なんぞ完全に未知の領域りょういきだ。歯科医院歯医者に行く大半の人は、自分自身がどういう治療をされているのかイマイチ分かっていないのではなかろうか。


 俺も分からない。


 さいわい俺は虫歯になったことが無く、唯一経験がある歯石しせき除去じょきょ処置しょちですらも口を開けているうちになんとなくおわってしまい、どんな道具で何をしているのか、ろくに見た事が無い。


 治療の過程かていをしっかり見て理解している人は少ないはずだ。


 それなのに、だ。


 俺が「やれ」と言われたバイトは、よりにもよって、そのれっきとした歯科医師が行う医療行為の介助である。自分の部屋の掃除ですらろくにしたことの無い俺に、そんな仕事がつとまるものだろうか……


 しかも、歯科助手はいまだほとんどが女性で、男性は珍しいらしい。そんな女性の花園はなぞのに俺なんかがみ込んで許されるものだろうか……なにやら恐ろしいような気もする……


 考えれば考えるほど暗澹あんたんたる気分になっていった。


 しかし──


 面接に受かるとは限らないではないか!


 そうとも!


 そこに救いの道がある!


 バイトれきすら無いひきこもりの俺なんか落ちるに決まってるじゃん!


 やとわれなければ働かなくて済む!


 強硬きょうこうに働きたくないとは言えないが、いて働きたいとも思わない。あの呑気のんきな母親が行けと言うなら、バイトの面接くらい行ってもいいだろう。なにしろ、俺の経歴けいれきでは落ちるに決まっているのだから問題ない──と、俺は甘く考えていた。


 その、優柔不断ゆうじゅうふだんさと、どっちつかずの気分と、こだわりのうすい性格が、のちにとんでもない厄介事やっかいごとに自分をむとは、その時は思いもよらなかった。


   ◆◆◆

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