『4、妹には逆らえない』


 相沢あいざわ凪砂なぎさ──それが、美波ちゃんのお姉さんであり、出水氏の不審死ふしんしについて警察に任意同行され事情聴取を受けている女性の名前だった。


 野村女史が、出水氏が亡くなった時にヨットに同乗していた女性の事を「名前も報道しろ」と推定無罪の原則も人権も無視して憎々にくにくしげにわめいていた姿が思い出された。


 まさか、あの野村女史があれほど知りたがっていた女性の名前を、こんな経緯けいいで知ることになるとは思いもよらなかった……


 凪砂さんは某短大を卒業し某銀行に勤めている二十五歳の、優しいが、どちらかというと融通ゆうずうの利かない生真面目な性格の女性だという事だった。


 美波ちゃんがスマホで撮影したお姉さんのバースデーパーティーの動画を見せてくれたが、ナチュラルメイクで地味な服装の堅実けんじつそうな黒髪の女性が、金髪で派手な服装の美波ちゃんと頬を寄せ合って屈託くったくなく笑っている姿は、幸せそうで、温かく、穏やかで、とても殺人をおかすような女性には見えなかった。


 とりあえず、弁護士を雇う費用が捻出ねんしゅつできず私選しせん弁護人べんごにん選任せんにんすることができない場合、国が弁護士費用を負担ふたんして被告ひこくの弁護される権利を守ってくれる国選こんせん弁護人制度というものがあると説明はしたが、二人は納得しなかった。


「お兄ちゃん、ちゃんと話聞いてた? 私たちは、美波のお姉ちゃんが逮捕されないように、真犯人を探して欲しいのっ!」


「で、でも……無実むじつなら裁判さいばんを受ければ……」


 言葉をにごそうとしたら、美波ちゃんが俺の両肩をガシッと掴んできた。


「ちゃんと聞いてください、お兄さんっ! お姉ちゃんは無実なので被告じゃありません。今現在、殺人事件の容疑者として警察に拘束こうそくされている事自体ことじたいが間違っているんです。何日も警察に拘束されていたら、何も悪い事なんかしてないのに、お姉ちゃんは銀行をクビになってしまいます。そんなのあんまりです。取り調べを受けるのも、起訴きそされるのも、被告として裁判を受けるのも真犯人であるべきです!」


 美波ちゃんにキッパリと断言だんげんされて、俺は目が覚めた。


 言われてみればその通りだ──っ!!


 無実の罪で拘束されて平和な日常生活や仕事を奪われたらたまったもんじゃない。


 凪砂さんが無実ならば、真犯人は自分の犯した罪からのがれてどこかでほくそ笑んでいるに違いない。もしかしたら再び罪を犯すかも……凪砂さんに嫌疑けんぎかっている間、真犯人は疑われもせず野放のばなしになっている事になる。それは恐ろしい事だ……


「お兄さん、信じて下さい。私のお姉ちゃんは無実です。出水さんはお姉ちゃんの初めての恋人です。結婚を前提ぜんていにお付き合いをしていて、いつも私に『優しくて、格好良くて、いくつも会社を経営している努力家で、自分とはり合わないくらい素敵な人』って惚気のろけてました」


 美波ちゃんは涙を浮かべ、必死にお姉さんの無実をうったえていた。


「それに、出水さんのヨットで海を見に行くのはいつものデートコースだったんです。姉は『贅沢ぜいたく過ぎて夢のようだ』って言ってました。結婚したら、そんな贅沢な生活が出来るはずだったんですよ。嫌な言い方かも知れませんが、結婚する前に婚約者こんやくしゃを殺してしまったら、姉は財産を相続そうぞくできません。何のメリットも無いんです。姉には出水さんを殺す動機どうきがありません」


 こんな少女に嫌な事を言わせてしまった。そこまで言いたくはなかっただろうに……


 俺は、なんとも言えない気持ちで頷いた。


「分かった。信じるよ……」


 真実は一切不明いっさいふめいだが、少なくとも、目の前にいる美波ちゃんの気持ちは信じられる。


 凪砂さんの無実を証明する為に何が出来るか分からないが、まずは、事件の大筋おおすじを確認しようと、昼間クリニックで見たニュースの動画をもう一度見てみることにした。ウェブページにアクセスし、再生アイコンをタップする。


「昨夜遅く、太平洋上のヨットで男性が死亡していたとのニュースが先ほど入りました。同船していた女性からの通報を受けて海上保安庁の職員が現場に到着すると、すでに男性は息をしていなかったとの事です。その後ドクターヘリで病院に搬送され、男性の死亡が確認されました。男性は都内に住む出水頼次さん三十一歳です。神奈川県警は同船していた女性を任意同行し事情を聴いているとの事です」


 ニュースの文言を精査せいさし、情報を整理してみる。


「殺害現場は陸地から遠く離れたヨットの中か……」


 出水氏は太平洋上のヨットで死亡した。これは確定だろう。管轄かんかつ湾外わんがい海洋かいようである海上保安庁が出動したという事は、それなりに陸地から離れた場所だったと推定すいていできる。


 ニュースでよく使われる「病院に搬送された後に死亡が確認された」という言い回しは、。医師のみが死亡確認が出来るので、どう見ても死んでいても「息をしていない」としか法的ほうてきには言えないのである。つまり、発見された時点で息をしていなかったという事は、九割きゅうわり九分きゅうぶ九厘きゅうりん、死亡していたという事だ。


 容疑者は一人だ。


 なぜならば、ニュースにおける「同船していた女性を任意同行し事情を聴いている」という言い回しは、出石氏が死亡した際、現場になったヨットには出水氏と事情聴取をされている女性──つまり、凪砂さん──の他には誰もいなかった事を示す。


 他にも同船していた人物がいるならば「事件の起きた際、現場に居て、事情を知っていると見られるに任意同行を求めて話を聴いている」というような言い回しになるからだ。


「あれ……」と俺は首をひねった。これは、おかしい。


「どうしたの、お兄ちゃん?」


「これって、いわゆるミステリーで言うところのクローズドサークル、しかもあらし孤島ことう殺人じゃないか。しかも、容疑者は一人。作品として成立しないぞ」


「お兄ちゃんっ、なに言ってんのっ?」


「あっ、確かに。別の誰かが何らかの方法で太平洋上に浮かんだヨットまで辿たどり着き、凪砂さんと、あるいは出水氏にも気付かれずに船上に乗り込み、ひそかに出水氏を殺害した後、凪砂さんに姿も見られず立ちったという可能性も無くはない」


「いや、そういう話じゃなくてっ!」


「そうだな、すまん。これは厳密にはクローズドサークルじゃなかった」


 ゴンッ。不謹慎な考えしか湧かなかった俺は芽衣に殴られた。


「いってぇ……」


「お兄ちゃんっ、いいかげんにしてっ!」


 ううむ、どんどん兄の威厳いげんが失われて行く。こうなったら仕方ない……


 世の中には守秘義務しゅひぎむというものがある。そして、虫歯の治療の為に歯科クリニック通っているという事も、外部に漏らしてはいけない個人情報に該当がいとうする。本当は言ってはいけない事なのだが、窮地きゅうちに立たされていた俺はえて無視する事にした。(※良い子は真似しないでね)


「実は……被害男性の出水氏は、俺が働いている吉川歯科クリニックの患者だったんだ」


「え、そうなのっ?」


「出水氏は吉川先生の知り合いで、それなりに付き合いはあったみたいだよ」


 二人の関係は実の所よく分からないが、俺は適当な事を言った。吉川先生が出水氏の事を嫌っている様子だったと言う事は、この場ではせておいた方が良いかと思い、そこには触れなかったのだが、それが悪かった。


「じゃあ、その吉川先生ってひとに訊けば、出水さんの交友関係が分かるし、その中に出水さんを恨んでいた人がいれば、その人には出水さんを殺害する動機があるって事になりますし、真犯人の目星めぼしが付くかもしれないですね」


「え……?」


 なぜか軽率けいそつに美波ちゃんが期待してしまったのだ。


「いや、まだそうとは言えないから、期待するのは良くないかと……」


 俺は慌てて訂正しようとしたが、女子高生二人は物凄く前のめりだった。


「やったね、美波。さっそく手掛かりゲットだよ」


「やっぱり芽衣を頼って良かった。お兄さん、ありがとうございます」


 ちょっと待て……君たち慎重って言葉知らないの? 早急そうきゅう過ぎるでしょっ!


 芽衣と美波ちゃんは期待に満ちた顔で俺の顔を見詰めている。


「だ、だから、その……まだ手掛かりは……」


 純真無垢じゅんしんむくとはこれの事だと言わんばかりのうるうるした眼差しで見詰められて、俺はガックリと肩を落とした。ダメだ、無下むげにできねえ……


「分かった。明日、吉川先生に何か心当たりが無いか訊いてみよう」


 きゃあ、と女子高生二人は歓声かんせいを上げた。


   ◆◆◆

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