『4、俺なりの論理的思考』


 頭の中で、カチリと何かがハマった感じがした。


 出水氏が太平洋上のヨットで死亡したというニュースを知らされてから……いや、違う。それ以前からだ。人生初のバイト──吉川歯科クリニックで働き始めた初日……いや、働くと決まったあの日から、俺は出水氏と関係のある人を見ていた。


 土日は無駄に動き回った気がしていたが、そうじゃない。必要な情報は少しずつ、各人かくじんから得られていたのだ。


 殺害に使用されたのはテトロドトキシン。


 テトロドトキシンは出水氏がK大学の研究室から盗み出して隠し持っていた。だから、犯人は出水氏と相応そうおうに親しかった人物に限定される。


 だが、テトロドトキシンが何であるか、誰にでも分かるものだろうか?


 松林准教授がはからずも言っていた。


「テトロドトキシンが何か分からなかったんじゃないか?」


 大抵の人は「これは毒だ」と言われても漠然ばくぜんと「毒だ」としか理解しないだろう。


 犯人は化学的な知識、あるいは医学的な知識の持ち主なのでは……


 そして、当然、出水氏の女性関係が鍵なのだ。


 出水氏は女性と見ると誰でも口説いたらしいし、ヨットに乗せるというのは女性を口説く際の常套句じょうとうくだったそうだが、実際にヨットに乗せていた女性は、今のところ、凪砂さんしか確認できていない。


 それは──凪砂さんだけが出水氏が本気で結婚しようと思った女性だという証左しょうさなのではないのか?


 白石妃菜が実際には出水氏と付き合ってはいなかったどころか、愛情のひとかけらも無かったように、周囲の目にどう映っていようとも、人の本心は分からない。


 そうだ。誰の本心も分からないのだ。


 出水氏には「毒を持っていると自信が湧く」と放言するような奇妙な不安定さがあった。


 その原因は何だ──?


 そもそも、度を越した女性関係は、なんらかのトラウマにたんを発しているのではないか?


 出水氏を「」と呼ぶ人物は、彼と相応に付き合いが長いのではないか?


 それこそ学生時代からの付き合いでもなければおかしい。


 それが不意に不穏な事実として浮かび上がって来た。


 自分が「真之くん」と呼ばれていたから見過ごしてしまったが、普通は出水氏ほどの立場の男性と社会人になってから知り合ったならば、くん付けでは呼ばない。俺は十歳以上も年下のバイトで、ほぼ子供扱いされていたからくん付けで呼ばれていたのだ。十数軒もレストランを経営する社長に対してなら、常識のある人物は丁寧に「出水さん」と呼ぶだろう。


 口説かれる事を拒絶し、心の距離を置きたいならば尚の事だ。


 でも、その人物は「」と呼んでいた。


 凪砂さんが出水氏にプロポーズされたのは、いつなんだ?


 出水氏はどれくらい歯科検診をサボッていた?


 でも、その人物は、野村女史と違って、久しぶりだという態度はしなかった。


……」


「あの人、正直に言うと困った患者さんなのよ。女性とみると誰でも口説きにかかるから迷惑しているの。それに……言いにくいんだけど、女性のほうも彼みたいなタイプが好きな人が多いでしょう。のよ」


 なにげない言葉だったが、今、振り返ってみると、もっと深い意味があったのではないかと思えてくる。患者が女性とみると誰でも口説きにかかるシーンをそうそう目撃するだろうか?


 女性のほうも彼みたいなタイプが好きな人が多いと言えたのは何故だ?


 出水氏は歯が欠けただけと言っていたし、爽やかな笑顔を浮かべていて痛みで余裕が無いという様子ではなかった。


 C3以上の虫歯の治療に訪れた患者は、皆一様に顔色が悪かった。出水氏には彼らのように虫歯の痛みで苦しんでいる様子は無かった。


 なのに、なぜか治療内容は、麻酔まで使ってのRCT根治だった。


 そして、出水氏は死の直前、アーモンドを食べて、歯が痛いと言っていた。


 、と──


   ◆◆◆


 違う。犯人は野村女史じゃない。


 まさに菱山教授の言った通りだった。


 ──


 ハウダニットが分かれば、それが可能な人物は一人しかいなかった。


 アリバイや動機ホワイダニット、そして真犯人が誰かフーダニットさえ、殺害方法ハウダニットが判明した後に探求すべき事柄でしかなかったのだ。


 芽衣と美波ちゃんに頼まれて、真犯人を探すと約束してしまったあの瞬間に戻りたいと、俺は心から願った。


 あの時は例え見通しが立たなくともやるしかないと思った。


 まさか、自分が真犯人に辿り着けるとは思ってもいなかったからだ。だからこそ気概きがいだけは見せようとしたし、それで玉砕するのも男の生き様というモノだろうなどと軽く考えていた。


 時間を巻き戻せるなら巻き戻したい……


 男の生き様とか似合わない事を思い、探偵の真似なんかをしてしまった事を、今、死ぬほど後悔していた。


 関わらずにいれば、俺は何も知らず、この瞬間を迎える事も無かった。


   ◆◆◆


 剣崎刑事に自分の間違いを申告しんこくする連絡をするのは気が重かった。


 だけど、しないわけにはいかない。


 剣崎刑事には短い謝罪と方針ほうしん変更へんこうを依頼するメールを送り、芽衣と美波ちゃんにも「六時半までに吉川歯科クリニックへ来て欲しい」とLINEを送っておいた。


   ◆◆◆


 時刻は午後六時二十分──


 最後の患者の診療を終えて送り出し、俺たち六人──俺、芽衣、美波ちゃん、剣崎刑事、吉川先生、野村女史──は神妙な顔で、吉川歯科クリニックの待合室に集まった。


 午後五時前には剣崎刑事も芽衣も美波ちゃんもクリニックに到着していたので、その日の夕方に診療予約を入れていた数名の患者の治療は、張り詰めた糸が今にも切れそうな緊迫きんぱくした空気の中で行う事になった。俺は歯科助手として新米なりに必死に、そして出来る限り丁寧に診療介助をさせてもらった。


 野村女史だけが「わけが分からない」という顔をしている。


「今日の診療は無事に終わりましたか?」


 剣崎刑事は感情を感じさせない声と冷たい鉄面皮てつめんぴでそう言った。


「ええ、


 吉川先生は不思議なほど静かな表情をしていた。


 凛とした白い百合。そんな悲しい雰囲気だった。


   ◆◆◆

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