『3、運命のひらめき』


 さて、その日、俺が診療介助を任された二人目の患者はC3のうしょく(虫歯)で、RCT=根管こんかん治療ちりょう通称つうしょう根治こんち」と呼ばれる処置しょちを行った。


 ここから しばらく 読み飛ばしてくれて構わない。


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 RCT=根管治療と、それに続くCRF=根管こんかん充填じゅうてん、そしてインレーあるいはFMC=フルメタルクラウン、前装冠ぜんそうかんなどを装着そうちゃくする一連の治療が、俗に言う虫歯の治療だ。

 病原菌びょうげんきん感染かんせんした歯髄しずいをリーマーやファイル、あるいはクレンザーなどと呼ばれる器具によって除去じょきょし、洗浄せんじょう殺菌さっきんした後に、薬剤や天然樹脂じゅしで作られた各種かくしゅポイントと、根管こんかんようセメントを用いて根管をふさぎ、場合によっては金属やレジンでコアを作り、さらに金属やレジン、あるいはセラミックなどの被せ物をして、以後の感染を予防し、失われた歯の形状と機能を回復させる事を目的としている。

 ちなみに、歯科医師は根治を始める前に、患者に分かりやすく伝える為に「神経を抜きましょう」と言ったりもする。

 説明が複雑で面倒臭く感じられるだろうけど、実は「根治」の段階なら、仕事を始めて一週間と少しの新人歯科助手の俺でも(かなり努力すれば)診療介助に付ける。歯科医師や歯科衛生士えいせいしと違って診療に直接たずさわる資格を有していないので、医療行為を行う事は一切無く、歯科医師の指示に従って治療器具や薬剤などを渡したり、患者の口の中に溜まった水と唾液を吸い取る為の診療用バキュームを持っているだけなのだ。


 そういうわけで、例え歯科助手がバイトだったとしても不安は感じないで欲しい。


 歯科医師のみが、安全に、責任をもって、親切丁寧に、治療をするので、歯医者って実は怖くないんですよ──と、誰にとはなく伝えておきたい。

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 まあ、ごちゃごちゃした話はともかく……


 根管こんかん内の汚れを除去じょきょし、歯に仮の封をする前に吉川先生は機敏きびんな声で指示を出した。


「カルシペックス取って」


「はい」


 応じてキャビネットの引き出しを開けた瞬間、俺は奇妙な違和感に包まれた。


 カルシペックスが一本しか入っていなかったのだ。


 カルシペックスは、根管こんかん治療の処置中にしばしば使用される白い薬剤だ。主な成分は水酸化カルシウム。で殺菌作用がある。これも、野村女史がマトモに仕事を教えてくれないから自力で色々検索して学んでいるうちに無駄に身に着けてしまった知識なのだが……


 俺は、野村女史のあまりにも酷過ぎる指導によって、不本意ながら課せられた、短いが濃い経験で「ある事」を暗黙のうちに理解していた。


 仕事にはリズムがある。だからイレギュラーな要素は嫌われる。


 のだ。


 妙な胸騒ぎが起こり、診療の合間、少し手が空いた時に俺は野村女史に確認してみた。


「あの、キャビネットの引き出しにカルシペックスが一本しか入っていないんですけど、補充ほじゅうしたほうが良いですか?」


「は? なに言ってんの? あれは一本入っていれば充分なの。二本も置いておく必要無いんだから余計な事しないでっ!」


 またキレられた。


 ──っていうか……ちょっと待て……


 カルシペックスはという事か。


 じゃあ、──?


 その瞬間。


 俺が初めて出水氏を見た日──歯科助手のバイト初日──出水氏が奥歯の治療に訪れたあの日の記憶が、フラッシュバックのように脳内に蘇った。


 あの日、。俺に患者のデータ管理の仕方と保険証の種類を説明するという指導をしていたからだ。


 吉川先生は、レントゲン撮影から、麻酔、診療用バキュームの必要なRCT(根管こんかん治療ちりょう)まで、出水氏の治療を一人で行った。そんな事は、俺が吉川歯科クリニックで働き始めてまだ短い期間しか経ってはいないが……


 ──


 吉川先生は慎重な人で、必ず診療介助を付けた。それが患者の安全を確保し、治療の質を保障ほしょうするからだと思う。


 ならば、なぜ、出水氏の治療に限って、吉川先生は一人で行ったのか?


 なんだか妙に気になって、診療と診療の隙を見て、俺は出水氏のカルテが収められたクリアファイルをこっそり確認してみた。


 思わず、息を飲んだ。


 ──


 撮影したはずのレントゲンフィルム=パントマが無い。


 あの日、吉川先生はレントゲン室で何かを片付けていた。


 嫌な予感がする。俺は胃液いえきが逆流するような不快感に襲われながら、レントゲン室を隅々すみずみまで探ってみた。それこそ、積み上げられた段ボール箱の裏までだ。


 そして、そこには、──


   ◆◆◆


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