第七章

『1、そんな気はしていました』


 まさか、野村女史が犯人だったとは──っ!!


 まだ確定かくていしたわけではないが、松林准教授の口から出た名前は、野村のむら江里子えりこ


 つまり、俺が、バイト先の吉川歯科クリニックで散々さんざん理不尽りふじんな扱いをされ、仕事に行きたくないとまで思い詰める原因になったその人だ。


 やっぱり同じ場所をぐるぐる回っている気がする。


 容疑者が増えたかと思いきや、そうではなく、最初から捜査線上に浮かんでいた野村女史の名前が、別の線から再び浮かび上がるとは……


 これって、限りなく黒に近いのではなかろうか?


 出水氏の車には残っていた指紋はさほど有力な情報ではないが、出水氏が毒を隠し持っていると知っていた件は犯行を疑うに根拠こんきょになり得る。


 出水氏が通う吉川歯科クリニックの歯科助手である野村女史なら、カルテを見れば出水氏の自宅住所も分かるし(分かるんデスヨ)、自宅近辺に張り込んでストーキングをすればヨットの停泊地も分かるだろうし、ヨットに忍び込んでGPS発信機を仕掛けて置くことも出来るし、そうであれば、理論的には、太平洋上であっても追跡は可能だ。


 出水氏と一緒に居ただけの白石妃菜に、あからさまな嫉妬と対抗たいこう意識いしきを向け、敵視てきししていた野村女史が、出水氏が凪砂さんと婚約していた事実を知ったならば……


 逆恨さかうらみ殺人も有り得ない事ではない。可愛さあまって憎さ百倍というヤツだ。


 確かに野村女史は、関わりの薄い俺から見ても、出水氏に一方的に好意を持って熱を上げていたと丸分かりだった。


 彼の車に乗せてもらう為に、まだ最後の片付けが残っていたというのに仕事を勝手に切り上げて、着替えもそこそこに追い掛けるほどだったのだ。よほど執着しゅうちゃくしていたのだろう。恋は盲目もうもくとはよく言ったものだ。


 でも出水氏の側は、野村女史は眼中に無かったと思う。


 美波ちゃんのお姉さんである、若くて優しい清楚系美人の凪砂さんと婚約していたのだから。(凪砂さんは、容姿も性格も、野村女史と真逆のタイプだ)


 それに、白石妃菜の話によると(凪砂さんには気の毒だが)他の複数の女性にも「結婚しよう」とか「ヨットに乗せる」などと気軽に言っていたらしいし……


 そう言えば、吉川先生にも「今度のデートは僕のヨットに招待したいな」とセクハラ発言をしていた。


 凪砂さんも、吉川先生も、人格に難がある白石妃菜でさえも、顔立ちの整った美人だ。


 野村女史は精一杯せいいっぱい譲歩じょうほしてつとめて良く言えば、愛嬌あいきょうのある顔立ちだが、断じて美人ではない。出水氏の好みではないだろう。


 都内に十数軒のレストランを経営する大金持ちで爽やかイケメンの出水氏と、あの野村女史では釣り合っていない……と言うか、無理めと言うか……松林准教授も、出水氏が野村女史をヨットに乗せると約束したのは、その場を取り繕うための方便ほうべん──つまり、嘘だったと言っている。


 野村女史は叶わぬ恋に身をがし、ついには出水氏を逆恨みし、彼がK大学の研究室から盗み出し、時に女性たちに「毒を持っている」と子供じみた自慢をしていたテトロドトキシンを、なんらかの方法で奪取だっしゅし、自分のものにならないおもびとを殺害したという事だろうか。


 正直、俺は納得してしまっていた。


 あのどこにキレるスイッチがあるのか分からない、万年ヒステリーで気性きしょうの激しい野村女史ならやりかねない気がする。


 いや、きっとやったに違いない!!


 しかし──


 剣崎刑事から、俺たちは厳しくくぎを刺されていた。


「出水さんに一方的に恋愛感情を持ち逆恨みしていた人物として名前ががったからといって、まだ野村江里子が犯人と決まったわけではないのよ。警察が裏を取るまで慎重しんちょうに行動してちょうだい。容疑が固まりしだい捜査そうさ令状れいじょうを取るから、しばらくだまって様子を見るように」


   ◆◆◆


 この状況で何も言わずに野村女史と仕事をするのは物凄い精神力がる……


 安定の仕事に行きたくない気分が襲って来た。


 憂鬱ゆううつだ。憂鬱過ぎる──っ!!


 とはいえ、急に歯科助手のバイトを休んだりしたら吉川先生に迷惑がかかる……


「うわぁっ、やだぁっ、仕事行きたくなぁいっ。野村女史に会いたくなぁいっ。でも、吉川先生には会いたぁいっ!」


 深夜の自室でPCに向かいながら、うっかり本音を叫んでしまい、芽衣が隣の部屋からすっ飛んで来た。


「お兄ちゃん、大丈夫?」


 もう寝るところだったようで、腰まである黒いサラサラのロングヘアはいつものツインテールではなく、青いストライプのパジャマ姿だった。


 このパジャマは実は俺のおさがりだ。サイズが大き過ぎるようで手が隠れてしまい指先しかでていないし、ズボンは裾を二重に折っている。以前に「ちょうどいいサイズのを買ったら?」と言ったら「やだ」と言われた。だぼだぼのほうが寝やすいのだそうだ。


 て言うか、兄のおさがりパジャマを着て寝る妹ってどうなんだろう? 芽衣が俺のおさがりパジャマしか着なくなって、早数年が経過している。もはや「おさがりを早く寄越よこせ」とワンシーズンごと催促さいそくされるようになっているし、あまつさえ「お兄ちゃんに抱き締められてるみたいで安心する」とか言われている。それってあまり良くない気もするんだが……考えるのが恐い……


「可哀想に、お兄ちゃん、ノイローゼ気味なの?」


 芽衣は俺の頭を撫でる事に味を占めたらしい。勝手に部屋に入って来て、今夜も無遠慮ぶえんりょに撫で撫でしてきた。


 椅子に座った俺の頭は、芽衣からするとちょうどいい高さだったようで、ふわっと抱え込まれているので、柔らかな胸のふくらみが側頭部そくとうぶに当たって、ちょっと、どう言っていいのか分からない。芽衣に注意をしたいが、叱るようになってしまうと可哀想なので何も言えない。


 俺は無心むしんえる事にした。「心頭しんとう滅却めっきゃくすれば火もまた涼し」だ。


「おまえね、兄の頭を気軽に撫でるなよ(無心)」


「まあまあ、スキンシップはメンタルケアに必要だって本に書いてあったよ」


「何の本だよっ?」


児童じどう心理学しんりがく


「おいっ!? 俺は子供かっ??」


 あはは、と芽衣は軽やかに笑った。


「お兄ちゃんは子供じゃないけど、子供みたいなところがあるから、芽衣が付いててあげないとダメなんだよね。可愛い~っ」


「うぐっ、それが兄に向って言う事か……」


「大丈夫。ちゃんとお兄ちゃんのことは尊敬してるし大好きだよ」


 ううむ……なんだか言葉が軽いような重いような……???


 そんなこんなで、ひとしきり俺の頭を撫でて気が済んだのか、芽衣は勝手に俺のベッドに腰かけた。俺はくるりと椅子を回して芽衣と向き合う。


「お兄ちゃん、疲れた顔してるね」


「まあ、疲れてはいるよ」


 ちなみに、俺はただアホのように独り言を叫んでいただけではなく、ネットで調べものをしている最中でもあった。


「慣れないバイトを始めたばかりで毎晩一生懸命勉強してるのに、ごめんね」


 いや、毎晩調べものをせざるをない状況にさせられているのは、野村女史がマトモに仕事を教えてくれないからであって、そんな事で芽衣が気を遣う必要なんて無いぞ、と思ったが、上手く言葉に出来なかった。


「べ、別に、おまえのせいじゃないし……」


 芽衣は申し訳なさそうにうつむいた。


「美波のお姉さんの無実を証明して──なんて頼んじゃって、無理させてるよね?」


 うっ、それに関しては無理していないと言えば嘘になるが……


「まあ、でも、真犯人逮捕まであと一歩って感じじゃないか。剣崎刑事が裏付うらづけ捜査をしてくれているし、凪砂さんも今夜は自宅に帰してもらえているんだろ?」


 うん、とうなずきつつも芽衣は困ったような悲し気な表情を浮かべた。


「でも、また明日も事情聴取に応じなきゃいけないって、美波が……」


「そうか……早く真実が明らかになるといいな……」


「うん」


 俺は、根拠こんきょも無く印象いんしょうだけで凪砂さんの無実むじつを信じていた。裏を返せば、根拠も無く印象だけで野村女史の犯行だと疑っていたともいえる。


 論理ろんりとは、そういうものではない。


 おれは、まだ何も分かっていなかった。


 菱山教授は言った。


 ──


 それこそが論理的ろんりてき思考しこうの第一歩であった。


 愚かな俺は実はその時、惜しい場所に立っていたのだが、まだ論理に踏み込む事は出来ていなかった。


 PCの画面には普段通り、マトモに仕事を教えてくれない野村女史のお陰で歯科助手の仕事の為に調べていたある薬剤の性質を説明する記事が映し出されている。


 それと並行して、出水氏を殺害した方法を推理する為に調べていたテトロドトキシンの性質を説明する記事、横浜ベイサイドマリーナの地図、モーターボートのレンタルに関する記事など、いくつかのウィンドウが乱雑に並んでいた。


 仕事も覚えなきゃいけないし、なんとかして野村女史の犯行も解明しなければ……


 俺は難しい表情をしてしまったのだと思う。芽衣は気を遣うようにそっと俺のベッドから立ち上がった。


「邪魔になっちゃいそうだから、もう自分の部屋に戻るね」


「お、おう」


 あのね、と一瞬、芽衣は口ごもった。


「私、お兄ちゃんにすっごく感謝してるんだよっ!」


「はあ?」


 なんて答えていいのか分からず硬直こうちょくしていると、芽衣は輝く向日葵ひまわりのような笑顔を浮かべた後、小走りで俺の部屋から出てドアの陰に隠れた。


「お兄ちゃん、辛かったらお仕事めてもいいと思うよ。ひきこもりでも、歯科助手でも、探偵でも、なんでもいいよ。私はどんなお兄ちゃんでも大好きだからねっ!」


 おやすみ、と恥ずかしそうな声と共にドアは閉じられた。


「うっ、芽衣……おまえ、良い妹だなぁ……」


 若干、何かが間違っている気もしなくもないが……


   ◆◆◆

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