第三章

『1、刑事の尾行は甘くない』


 そうは言っても、だ。


 無実の罪を晴らすという事は実は物凄く厄介やっかいだ。『ゆう』と『』では、『無』を証明する事のほうがはるかに難しい。ほとんど不可能に近い。


 その為、何かをやっていない事を証明する事の難しさを示す──『悪魔あくま証明しょうめい』という言葉もあるくらいだ。


 まあ、要するに、誰かの無実を証明するためには、その誰かとは別の罪を負うべき人物──正義せいぎぜんに従うならば『真犯人』を見つけ出さねばならない。


 今の状況は、希望が見えたように思えて、その実、神奈川県警の捜査一課(刑事になるのもせまき門なら、その花形はながたである一課にまねかれるのはさらに狭き門なのだ)に所属するほどのエリート捜査官そうさかんである剣崎刑事が捜査しても、見付けられていない『真犯人』を探し出さねばならないという難局なんきょくに直面したという事だ。


 あ、これ、無理だ。家に帰って寝よう……


 俺は暗澹あんたんたる気分になり、早々そうそうに投げ出したくなったのだが、芽衣と美波ちゃんは俺のような豆腐とうふメンタルではなかった。


「お兄ちゃん、何やってるの? 刑事さん行っちゃう。追いかけなきゃ!」


「ボーっとしないでください、お兄さん!」


 うわっ、クソ眠いのに走れってのか?


 なんでこんな目にわなきゃいかんのじゃっ?


 やけくそで剣崎刑事を追いかけ、俺たちは自宅や吉川歯科クリニックの最寄もより駅に着いた。


 ちなみに、蛇足だそくだが、芽衣と美波ちゃんの通っているお嬢様学校は隣駅からスクールバスで二十分の場所にある。二人にとっては毎朝通学で使う馴染なじみの駅だという事だ。俺もかつてはこの駅を利用して中高一貫の某私立校に通っていた。そんな事はどうでもいいが……


 次の参考人さんこうにんなる人物に話を聞くなりなんなりして手掛かりを得るには、その人物のもとへ向かう剣崎刑事に付いて行くしかない。


 ここで電車に乗られると困る。


 どうやって見付からずに尾行びこうすればいいのか分からない。


 小説などでは電車での尾行にはとなりの車両に乗り込む手法しゅほうがよく使われているが、普通ふつうに考えて隣の車両に乗っている人がどの駅で降りるか見張っていられる自信は無いぞ。っていうか、んでいる駅でえをされたら、その時点じてんでアウトだ。


「どうしよう?」


 さすがに芽衣にもそれは理解できたようでオロオロし始めた。


 俺はいさぎよく覚悟を決めた。


「捜査のプロ相手にこれ以上の尾行は無理だ。あきらめよう」


「バカッ!」と芽衣と美波ちゃん、二人から怒鳴どなられなぐられた。


 やだ、もう、怒られるのキツイ。


 俺は怒られたくない一心で適当なアイデアを出した。


GPSジーピーエス発信機はっしんきをあの刑事さんのカバンに入れられないかな?」


 都合つごうくそんなモノあるわけないだろ──と俺自身もあきれて「また怒られるつもりかよ」と心の中で自分にみを入れていたのだが、予想にはんして芽衣は力強くうなずいた。


「そうだね。お兄ちゃんのトートバッグに入ってるGPS発信機を、なんとかしてあの刑事さんのカバンに忍び込ませよう。誰かが話し掛けて注意を引いているすきに、他の誰かが背後からソッと入れれば気付かれないんじゃないかな」


「え? 今、なんて言った?」


「だから、刑事さんに話しかけて背後から……」


「いや、その前」


「お兄ちゃんのトートバッグに入ってるGPS発信機を使おうって……」


 いやいやいやいや、おかしいでしょ、その流れ。なんで俺のトートバッグにそんなモノが入ってるとか言い出すわけ? ご都合主義にもほどがあるだろっ!!


 内心ではめちゃくちゃ突っ込んでいたが、さすがに可愛い妹に厳しい事は言えず、俺は優しくたずねた。


「芽衣……なんで俺のトートバッグにGPS発信機が入ってるなんて思ったんだ?」


「ママが入れてるから」


「はあ?」


 なにソレ? つうか、そもそも、それ何の話──?


「なんで母さんが俺のトートバッグにGPS発信機を入れてんの?」


「お兄ちゃんの居場所は常に把握しておく必要があるから──って、ママが」


 ペロッ、と芽衣は舌を出した。


 あ、これ、嘘をついてる時の仕草だ……


 つうか、なんでだよーっ!


 これ、十中八九じっちゅうはっく、芽衣が俺のトートバッグにGPS発信機を入れてる。それは百歩譲って仕方ないと諦めよう。いや、本来なら仕方なくないのだが──常日頃つねひごろから、ちょっとヤバイくらいに俺に執着している妹だ。それくらいの事はしてもおかしくない。だから、そこは良い。良くは無いんだが、良い。しかし、それを母さんがしていると嘘をつくのはいかがなものか……母さんが俺のトートバッグにGPS発信機を入れていたとしたら、実の息子である俺がまったく信用されていないという事になるではないか。それはちょっと……あまりと言えばあまりじゃないか……


 うっ……いや、しかし……


 母さんが俺を信用していないという可能性も、実は否定できないっ!!


 芽衣なのか、母さんなのか、分からん──っ!!


 もしも母さんだったとしたら……息子の居場所って常に把握はあくしてなきゃいけないものか?


 ひきこもりだから犯罪が心配だとか思われてるって事かーっ?


 実の母親からまったく信用されていない可能性も否定できず、自分の情けなさを思わず深刻しんこくなげきかけたが、今はそんな細かい事を気に掛けている場合ではない。もしも母さんだったとして……


 きっと、母さんは俺が迷子にならないか心配なだけだ。


 そうだ。そうに決まってる──っ!!


 俺は色々と人間的に大事なモノを供物くもつに捧げ、素早く立ち直った。


「よし、分かった。それを使おう。俺が刑事さんの気を引くから、おまえたちがそのGPS発信機をあの人のカバンにしのばせろ」


 GPS発信機を他人のカバンに忍ばせて行先ゆきさきを把握しようというのは犯罪行為だ。


 しかも相手は神奈川県警捜査一課の刑事だ。


 バレたらヤバイなんてもんじゃない。


 だが、迷っている時間は無い。


 剣崎刑事は、もう改札のすぐ近くにいる。


「芽衣、美波ちゃん、どっちでもいい、ハンカチを持っていたら貸してくれ」


 はい、と二人そろってハンカチを差し出さる。芽衣のは白いレースの付いた花柄ピンクの乙女チックなもので、美波ちゃんのはシンプルな茶系のタータンチェックだった。


 一瞬迷ったが、あの女性刑事に似合いそうな茶系のタータンチェックのハンカチを引っ掴む。


「こっちを借りる。俺があの人の気を引くから、分かるよな?」


 言って俺はけ出した。


「待ってくださぁい、刑事さぁんっ! ハンカチ忘れましたよーっ!」


 幸い俺の必死の叫びは届いたようで剣崎刑事は振り返り、その場に立ち止まった。全力疾走しっそうでやっと追い着き、美波ちゃんから借りたハンカチを差し出すと剣崎刑事は怪訝けげんな顔をする。


「私のじゃないわよ」


「お、おかしいな……よ、吉川先生が、け、刑事さんが忘れたんじゃないかって……」


 ゴフゴフッとそこでせきんでしまった。普段走り慣れていないとキツイ。


「大丈夫?」


「だ、大丈夫です。俺の事は気にしないでください」


 ちらりと背後に目を向けると、少し離れた街路樹がいろじゅの陰に芽衣と美波ちゃんがいる。この立ち位置はマズイ。あの二人がこっそり剣崎刑事の背後に近付けるように、この人に別の方向を向いてもらわないと……っていうか、そもそも立ち位置を入れ替えないとダメなのか。


 うわっ、地味に難易度なんいど高いな、おいっ!


「あっ!」


 やけくそになった俺は改札の向こうを指差して素っ頓狂な声を上げた。


 もう、なりふり構っていられるか。


 剣崎刑事は「どうしたの?」と言いながら、俺の指差す方を見てくれた。


 俺は周囲の人たちの痛い視線に耐えながら「あっ! あっ! あっ!」と奇声きせいを上げながら剣崎刑事の反対側に回った。


 よし、立ち位置を入れ替える事に成功したぞ。


 剣崎刑事の視線も上手い具合に芽衣と美波ちゃんの居る側と反対に向いた。


 頼むぞ、二人ともっ!


「す、すみません……猫がはとおそわれているように見えたんですが、気のせいでした」


「なんなのよ、もう……」


 芽衣と美波ちゃんはチャンスを逃さず、素早く剣崎刑事の背後に近付いて来ていた。剣崎刑事は二人の気配に気づいていない。


 よし、あと少しだ──


「それはともかく、今日は天気が良いですね」


「なに言ってるの? 雲が多いし、午後から小雨こさめ予報よほうよ?」


「あ……い、言われてみればくもってますね……」


 あはは、と俺は笑った。わざとらしい会話をしている隙に、芽衣と美波ちゃんは剣崎刑事の背後に立ち、スルリと芽衣がカバンにGPS発信機を滑り込ませた。


 俺は安堵あんどひざからくずれ落ちそうになった。


 あーっ、死ぬかと思ったーっ!


「変な子ね……とにかく、そのハンカチは私のものじゃないわ。用が無いなら、もう行くわ」


「え、ええ、どうぞ。お引止めしてすみませんでした」


 剣崎刑事は不審ふしんげに眉をひそめながら立ち去って行った。改札の向こうに消えていく凛とした後姿うしろすがたを眺めながら、俺は盛大せいだいに安堵の溜息をついていた。


 ああっ、一生分の気をつかったーっ!!


   ◆◆◆

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