第四章

『1、探偵は刑事に嫌われる』


 ここでコホンと咳払せきばらいをし、菱山教授は本当に言いにくい事を口にする顔をした。


「実はね、問題になっているのは犯行に使用されたテトロドトキシンの出どころだ。合成テトロドトキシンは一部の研究者けんきゅうしゃのみにしか販売されていないんだよ。テトロドトキシンの研究は三十年以上前からうちのおいえげいみたいなものでね……それで、うちから持ち出されたものじゃないかと警察は疑っている」


「そうなんですか?」


 われながらなんともつまらない返事をしてしまったが、菱山教授は気にせず深く頷いた。


「僕に、経口あるいは肛門からの摂取でも注射でもない方法で毒物を血中に投与する方法が無いか訊ねに来たというのは建前たてまえで、テトロドトキシンの出どころの追及ついきゅうが剣崎刑事の本命ほんめいだったと思うよ。ギブ&テイクで野次馬やじうまてき好奇心こうきしんは満たせたし、こうして君たちにも事件の情報提供が出来るというわけなんだけど、これは非常に良くない状況だ。良くないというか、むしろ悪い」


 サラリと「ギブ&テイク」「野次馬的好奇心」などというとんでもない言葉を口にした菱山教授は、そのくせ至極しごく真っ当に、深刻な表情を浮かべて溜息をついた。


「ま、まさか、菱山教授も事件への関与かんよが疑われているんですか?」


「いやいや、そうじゃない。僕が疑われているならマシだよ。疑われているのは、うちの准教授の松林まつばやしくんだ」


 慌てた様子で菱山教授は片手で間違いをはらう仕草をした。


「どういう事ですか?」


 疑われているのは菱山教授ではない、別の准教授なのか……


「困ったことにね。出水いずみくんは、彼の経営するレストランで取り扱う魚介類ぎょかいるいによる食中毒を防止するための出張しゅっちょう講義こうぎを依頼してきて、うちの研究室けんきゅうしつに出入りしていたんだ。提示ていじされた謝礼金しゃれいきんがなかなかの額だったから、僕はその仕事を准教授の松林くんに譲ったんだよ。彼はなにかと物入りのようだったから……」


 菱山教授は語尾をにごらせると、何事なにごと思案しあんするように表情をくもらせた。


「とにかく、出水くんと松林くんにはそういう接点があり、なおかつ松林くんは研究室でテトロドトキシンの管理かんりを任されていた」


 松林准教授──その人なら犯行に使われた毒物を自由に持ち出せたのか。


「じゃあ、松林准教授が出水氏を殺害した可能性もありますよね。モーターボートか何かで出水さんのヨットまで行けば……」


 それは無理だ、と菱山教授は申し訳なさそうに俺の言を遮った。


「君たちには気の毒だが、松林くんにはアリバイがある。出水くんが亡くなった日は、全国各地の水産すいさん学部がくぶ海洋かいよう学部がくぶの学者がつど懇親会こんしんかいでね。松林くんは幹事かんじを任されていた。重鎮じゅうちんを出迎える為に駅に出向いた午後三時頃から、一部の酒好き連中れんちゅうが飲み明かして明け方五時に解散かいさんするまで、何度か手洗いに立った以外、長くは席をはずしてはいないらしい。酒やさかなの注文も会計もすべて彼がになっていたからね、幹事が席を外したらそれこそおおごとだ」


 確かに、その状況では太平洋上のヨットまで行って殺人を行って帰ってくるまで誰にも不在ふざいを気付かれないなんて不可能だ……松林准教授には信用に足るアリバイがある。


「そんなわけで、彼が疑われているのは、毒物の供与きょうよのみだ」


「でも……いや、だったら、犯人を知っているんじゃ?」


 そうだ。毒物を供与したというなら、つまり、毒を渡した相手は犯人に違いない。


 すぐに真犯人が分かるじゃないか!


 小躍りしそうになった俺たちに菱山教授は残念そうにかぶりを振った。


「松林くんは、テトロドキシンを盗んだのは出水くんだと言っている。出水くんがヨットで亡くなったというニュースを見た後、慌てて警察に盗難とうなんとどけを出していたよ」


 え──っ!!?


「盗んだ? 出水氏が? 松林准教授は犯人に渡したんじゃなくて、出水氏に盗まれたって言うんですか? でも、それじゃ、なんで出水氏は毒なんか盗んだんです?」


「さあ? とにかく、松林くんは出水くんが盗んだと言っている」


 意味が分からない──!!


 松林准教授が主張している通り、出水氏が研究室から毒を盗んだとしたら、出水氏は自分が用意した毒で殺された事になる。


 なんだか頭がこんがらかって来た。


 俺の混乱こんらんを見透かしたのか、菱山教授は困ったように片眉を上げた。


──この謎がけない限り、犯人を特定する事は出来ないと僕は思う」


 なるほど……と、本筋ほんすじが理解出来たような出来ていないような曖昧あいまいな気分になった時、菱山教授は恐ろしい情報を俺たちに告げた。


   ◆◆◆


「でも警察は状況証拠のみで相沢凪砂なぎささんを送検そうけんするつもりらしい」


「ええっ!?」


「どうしてっ!?」


「そんな……嘘でしょう……」


 美波ちゃんはフラッと地面が揺れたかのようによろめいた。


 菱山教授は剣崎刑事から聞いたという捜査そうさ本部ほんぶの事を教えてくれた。捜査を取り仕切っている警察のえらい人──ドラマでよく見る、警察庁けいしちょうから出向しゅっこうしている管理官かんりかん──は凪砂さんが出水氏を殺害したと決めつけて、聞き取りをしている刑事も任意同行で事情聴取をすると言いながらなかば容疑者を逮捕したような雰囲気で、「あなたが出水さんを殺したんですか?」と何度も……それこそ何十回何百回もしつこく繰り返し、凪砂さんが「私が殺しました」と言い出すのを待っている状況だという。


「警察は凪砂さんが犯人だと決め打ちしていて、他の出水くんの関係者はろくに聴取ちょうしゅすらされていないらしい。証拠品しょうこひん遺留品いりゅうひんの捜査だけが活発かっぱつおこなわれているが、それも、凪砂さんが犯人である証拠をかためる方向ほうこうでのみ動いているだけらしい」


「酷い……お姉ちゃんはどうなるの……」


 美波ちゃんは希望がついえたと訴えるような悲痛な声を出し口元を手でおおった。


 芽衣が背中をさすって落ち着かせようとしているが、美波ちゃんは震えてその場に座り込んでしまった。


 菱山教授が「大丈夫かい?」と優しく手を差し伸べ、美波ちゃんをベンチに移動させてくれたが、貧血を起こしたように顔色が真っ白だ。


「どうしよう……お姉ちゃんが逮捕されちゃう……無実なのに……」


「お嬢さん、諦めるのはまだ早いよ。この事件、凪砂さんを犯人にして解決してしまうには、障害しょうがいとして居座いすわっている。つまり『どうやって毒を投与したのか』だ。その謎が解けなければ事件は解明されない」


……?」


 ぼんやりと美波ちゃんは鸚鵡おうむかえしで呟いた。


「さっきも言ったけど、僕は、犯人がどうやって毒を投与したのか、その方法が解明されない限り、犯人も分からないと思っている。逆にいえば、のではないかな──と思う。そして、そう思っているのは僕だけじゃない。剣崎刑事も、僕と同じ考えだ」


 すがるように見詰める美波ちゃんに、菱山教授は力付けるようにおだやかに頷いた。


「剣崎刑事は……捜査に予断よだんを持つべきではないという信念を持っている。最初からこの人が犯人だろうと決めつけて、他に犯人がいる可能性を排除はいじょしてしまう事は間違っていると思っているんだ。だから剣崎刑事は凪砂さん以外にも容疑者がいないか捜査している。上司じょうし意向いこうに逆らって独断どくだんで行動しているというあやうい立場だ」


「え……?」


「僕はね、彼女が捜査本部に味方みかたがいなく困っているんじゃないかと思うんだよ。刑事は聞き込みをする場合、原則げんそく二人一組で行動すると知っているかな。でも、彼女は一人だった」


 実は俺も気付いていた。さっき、剣崎刑事の行動でひとつだけおかしな点があると思ったのはソコなのだ。小説やドラマと違うなと引っ掛かっていた。


「それってどういう事ですか……?」


「おそらく、剣崎刑事は、相沢凪砂さんが犯人ではない可能性を申し立てたせいで捜査員の中で孤立しているって事だよ」


 あっ──と、俺は声を上げた。


 そうだった。凪砂さんが状況証拠のみで送検されると聞いて動揺どうようし、つい失念しつねんしていたが、剣崎刑事は、


冤罪えんざいの可能性がある……相沢凪砂さんが犯人だとは決めつけていません」


 ……と言っていた。これは重要な事だ。


 ショックで呆然ぼうぜんとしていた美波ちゃんと芽衣もそれを思い出したようだ。


「剣崎刑事は君たちの味方だ。でも、剣崎刑事には捜査本部に味方がいない。お嬢さん方は未成年だし、お兄さんもまだ若いが、だからこそ柔軟じゅうなん発想はっそうが出来だろう。僕のような専門家では思いもつかない方法を素人が考え付く事はよくある事なんだ。僕も毒の投与方法を考えてはみるつもりだけど、今のところお手上げだ。君たちが剣崎刑事に協力してあげてはどうかな?」


「俺たちが……?」


「でも私たち、さっき刑事さんに捜査に首を突っ込んだら逮捕するって……」


 芽衣の不安げな言葉に、菱山教授はいたずらっぽく笑って片目をつむった。


「最初のうちは、探偵は刑事にけむたがられるものだよ」


「探偵──!?」


 俺たち三人はきつねかされたような顔でお互いの顔を順繰じゅんぐりに眺め合った。


 自分たちでも冗談で「探偵みたいだ」と言ってみたり、菱山教授にも会ってすぐ「探偵さんかな」と揶揄からかわれたが、まさか、本当に俺たちが……


 不可能に思われる犯罪の謎を解き明かさねばならないのか──!!


 そんなのバカげているし、現実味げんじつみがない。


 人間、やろうと思ってやれる事なんて限られている。そして、たいていは失敗し、挫折ざせつするのだ。本職ほんしょくの刑事に出来ない事が俺たちなんかに出来るわけがないじゃないか。


 小説やドラマじゃあるまいし、探偵なんて無理に決まっている。


 いや、でも、迷っている場合じゃない……


 何もしなければ可能性は増えない。


 ほんの少し足掻あがくだけでも何かが変わるかもしれない。


 わずか一滴いってきの水が表面ひょうめん張力ちょうりょくやぶる最後の力になる事だってある。


 やるしかないんだ。


 凪砂さんの無実を証明するためには──!!


   ◆◆◆

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