黒猫問題は未解決
九乃カナ
黒猫のプルート
第1話
マンション四階からの眺めは、まあまあだった。
昨夜のはげしい雨は朝にやんで、出勤の時間には西の空に虹がかかった。いいことがありそうな予感がして、ワクワクした。今朝のことなのに、遠い以前のことのように感じる。
ビールの缶をエアコンの室外機にのせて、グラスを片手にベランダの手すりに肘をかける。片足に体重をかけて足を組む。ひとつため息をついて、グラスのビールをあおる。
真下をのぞきこむと、マンション裏の細い道路。駐車場は東側だ。向かい側のブロックには住宅しかない。その奥のブロックの西の角にスーパーの屋上駐車場が見える。いつも食料品の買い物をしているスーパーだ。視界のずっと先に山が黒くかすんでいる。南向きの部屋の日当たりは申し分ない。
ベランダには洗濯物を干すときにしか出ないから、眺望は気にしていなかった。眺めを楽しむという趣味もないし、眺めて楽しい景色があるわけでもない。
いまはもう夜になろうとしていて、空の端の残照しかない。赤く染まった空をよく見ようと思ったら、横を向かないといけない。ビールを飲む。この部屋は東の角に位置していて、この階のほかの部屋はすべて右の西側にある。すこしはいいかと思って、身を乗り出しぎみにし、右に首を傾ける。西の空を背景に、黒い影がベランダの手すりの上に見えた。
ん?猫?ここは四階だぞ?
黒猫がふたつとなりの部屋のあたりでベランダの手すりの上を歩いてやってくる。各部屋の手すりは境界の近くで切れて、同じ高さの外壁になっている。外壁部分は平らで歩きやすそうだけれど、いまわたしが肘をのせている手すりは緩いカーブをもっている。材質はステンレスだし、上を歩くのはむづかしいんじゃないか。足をすべらせて地面に落ちたら、いくら猫が高いところから落ちても上手に着地すると言っても助からないだろう。
ヒヤヒヤしながら目がはなせずにいると、わたしのすぐ目の前までやってきてしまった。
どけよ。
猫の目が苦情を申し立てている気がした。
「あ、ごめんごめん」
肘をどけてベランダから体をはなす。組んだ足をもどすとき足がからまってバランスをくずしそうになった。
体をどけても、猫は歩みを止めたままだ。進むべき方を見たら、この部屋の先はもう部屋がないのだった。さてどうしようとでも思案をめぐらせているのかな。
猫は滑るように前足からベランダの床におりた。それで、わたしは手すりに背をもたせかけた。自分でやっておいて、手すりの頼りなさに一瞬ひやりとした。猫の心配どころではない。わたしが手すりごと地面に落ちたら、きっとグロテスクなことになるだろう。そっと手すりから体重をひきとる。
猫は窓の開いた隙間から部屋の中にはいってしまった。
「あ、こらこら。足を拭きなさい」
もちろん、わたしは猫語が堪能ではない、日本語だ。あの猫、日本語に堪能だったらよいのだけれど。カーテンを手でのけて部屋にもどる。リビングのはいってすぐのところに行儀よくすわっていた。あまり歩きまわらないでいてくれたみたいだ。
わが家のリビングはガランとしている。テレビとオーディオ、その向かいの壁際に棚を置いてソフトを並べてあるだけだ。床はフローリングのまま。テレビもスピーカも床にベタ置きだし、ソファのひとつもない。引っ越してきて間もないとか、これから引っ越すつもりだとかいうわけではない。ただ、事情があるのだ。
いまはオーディオがベートーベンの交響曲を鳴らしている。しばらくプレーヤにいれっぱなしだから、交響曲の何番なのか知らない。五番、七番、九番くらいならさすがにわかるけれど、ほかは曲を聴いただけで何番かなんてわからない。一枚のディスクにふたつの交響曲が録音されていたりするから、余計にわからない。クラシックが趣味というわけではない。ベートーベンくらいは教養のうちかと思って、一番から九番までそろえたに過ぎない。でも、たまにクラシックの気分になることはあって、なかなか重宝している。
猫のとなりにグラスを置く。洗濯機の注水用ホースにかけた雑巾を洗面所で濡らしてもどっても、じっとすわっている。となりに腰をおろすと、こちらを見上げてくる。まだ若い猫だ。大人になりきっていない。人間で言ったら二十歳前後という印象だ。顔も体もまだ引き締まってほっそりしている。
「はい、足拭くからこっちに出して」
理解してもらえないのは承知のうえだ。前足を片方づつ手にとって雑巾で拭く。ごろんと横にして後足も拭く。おとなしい子だ。首輪がついているから、飼い猫で足を拭かれることに慣れているのだろう。
カーテンを半開にし、ベランダに足を投げ出してフローリングにすわる。ベランダの手すりの下はスモーク処理のしてあるアクリル板だから、すわってしまうと視界半分以上がさえぎられるうえに、群青の空しか見えない。
室外機から回収したビールの缶からグラスにビールを補充する。ため息とともにビールをあおる。まったく、嫌になってしまう。
猫が部屋の探検を終えたらしく、わたしのとなりにやってきた。帰りたいのかもしれない。窓をさらに開けて猫のとおる隙間をつくってやる。
「どうした、帰らないの?」
猫は、わたしの顔を一瞥して太ももにのってきた。股の間に落ちないように足を閉じてやらないといけない。そのまま丸まって、顔を腹にうずめて寝てしまった。猫の背に手をのせる。やわらかさとあたたかさが伝わってくる。なでたときのなめらかな感触がよい。心がなごむ。
猫の横っ腹にしずくがたれる。ふたつ、みっつ。猫が頭をあげる。耳がピンと立って凛々しい。けれど輪郭がぼやけている。目に涙がたまっているせいだ。まばたきして、まつ毛にも涙がつく。涙の原因は自分でわかっている。仕事でのミス。そして、男。
「ごめんね。わたしダメなやつでさ、もうイヤんなっちゃう」
仕事のミスを上司に指摘された。わたしは入社四年目、ひとりでなんでもできるようになったつもりでいる。でも、子供のころからケアレスミスが多くて、いまだにそれが治らない。わかっている、見直しが大切なのだ。ドジな人間として二十六年も生きてきたのだ。何度も見直したはずなのに、お客さんの名前を誤変換していた。見直しってなんだろう。わたしはなにを見直していたのだろう。なぜ、提出するととたんにミスに気づくのだろう。神様がいじわるしているとしか思えない。もちろんそんなはずはないのだけれど。
今日は上司に脳の出来を心配されてしまった。ケアレスミスをするような脳の障害なんてあるのだろうか。
思い出したら心臓のドキドキが甦ってきた。苦しい。
さらに追い打ちをかけたのが、男の先輩だ。いやらしい。わたしのミスにつけこんで、なぐさめるフリをして誘ってきたのだ。自意識過剰なのかもしれないけれど、あの先輩はわたしに気がある。あるいはわたしとのセックスに興味があるだけかもしれない。そんなタイプの人間だ。会話するだけでも気分が悪くなる。今日の帰り際には、酒を飲んでミスのことを忘れようみたいなことを言って誘ってきた。ミスのことを忘れるどころか前後不覚にしてホテルにでも連れ込もうとしているんじゃないかと邪推してしまう。しつこく絡んできたけれど、会社のビルをでたところで、早く帰りたいと言って断った。なんだか体に嫌なものがまとわりついているような気がして、帰宅早々風呂にはいった。今朝の予感は大いに裏切られた。
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