謎の男の正体と解決1

第9話

 オーケストラによる短いイントロにつづいて、ピアノが一気に主導権を奪う。はじめの和音で強烈なインパクトを放った。ピアノはひとりでオーケストラに挑むように音を発する。すぐにボリュームをさげて静かにメロディを奏ではじめる。すべるように滑らかに場面が展開した。リスト、ピアノ協奏曲一番。

 横浜みなとみらいホールの舞台には指揮台とピアノ、取り巻くようにオーケストラ。照明に浮かび上がる演奏者たちは、どこか別世界にいるみたいだ。

 ピアノはロマンチックなメロディを奏でる。オーケストラは、楽器が入れかわりながらピアノをサポートする。コンサートホールは大きな一つの空間だ。演奏がかわると空気もかわる。ふわりと頬に風があたる。穏やかだ。

 突然の大音量。はじめのメロディをオーケストラが演奏する。ピアノが引き継いで、またロマンチックな演奏が始まる。これを何度も繰り返すのだろう。と思っていたら第一楽章が終わってしまった。

 第二楽章もオーケストラ、弦楽器からはじまった。イントロのあとピアノのソロになる。ゆっくりしずかにメロディが流れる。小さな音でも輪郭がハッキリして感じられる。弦楽器、不穏な空気になる。ピアノも緊張感を演出するフレーズ。今度は管楽器、つぎに弦楽器が穏やかなメロディを奏でつつフェードアウト。

 第三楽章は、コミカルな雰囲気に変わった。ピアノが細かい音符で演奏する。メインメロディが浮き上がるようにしてピアノの演奏にあらわれる。繰り返しながらオーケストラを伴って音量を増す。第一楽章のはじまりと同じ演奏になる。クライマックスへなだれ込むかという勢いでタメ。そのまま第四楽章へ突入する。

 第三楽章のコミカルさをすこし含んだようなメロディを奏でるオーケストラ。唐突に大仰な管楽器に導かれてピアノがはいってくる。つづいて、ピアノは軽快な演奏をはじめる。楽章のはじまりのコミカルなメロディだ。ピアノが加速する。高音から低音へ急降下を繰り返し、オーケストラの重厚な演奏、つづくのは重々しく堂々としたエンディグだ。

 協奏曲というのは、言葉を知ってはいたけれど、こういうもののことだとは知らなかった。つまり、ソリストとオーケストラで演奏する曲なのだ。とても面白かった。わたしは協奏曲が好きみたいだ。

 待ち合せに駅を指定したのは、電車でみなとみらいへ移動するためだった。

 謎の男、人間プルートは、また黒ずくめの格好で駅にあらわれた。今回はジャケットに襟のあるブラウスを着ていた。前回マンションにあらわれたときはカットソーだった。デートのためにめかしこんできたのかしらと思ったら、あに図らんや、クラシックコンサートのためだったらしい。わたしは、いっぱい歩くのかどうか判断ができなかったけれど、男の人と外で会うのだからと、わりと気張ってオシャレしてきたつもりだ。コンサートの観客に混ざっても、みすぼらしい格好には見えないはず。ショッピングとかだったら、むしろ気合い入れ過ぎと思われそうだ。

 コンサートに向かうのだということは電車の中で聞かされた。ははん、マンションにきたときの帰りにスマホを操作していたのはコンサートのチケットをとっていたのだなと思ったら、あっさり違うと否定された。コンサートの前の週にチケットが取れるほど甘い世界ではないそうだ。わたしは自分でチケットをとってコンサートに出かけたことがなかったから知らなかった。コンサートと言えば学校の課外授業くらいなものだ。アイドルにもバンドにも、もちろんオーケストラにも興味がなかったのだからしかたない。スマホの操作は電車の移動時間を確認していただけだった。では、いつチケットをとったのだろう。先週より前から、このデートのようなものは予定されていたということだろうか。不思議だ。それを聞こうと思ったら、電車が駅について歩きだすことになってしまった。会場についてコンサートがはじまるころには席が人でうまっていて、なるほど、チケットを取るのは容易ではないと納得した。

 リストのピアノ協奏曲のあとは休憩だった。観客は立ち上がってゾロゾロとホールから出てゆく。

「ロビーでなにか飲みましょう」

 安藤くんも立ち上がっていた。老夫婦に前を通してもらって通路に出る。舞台ではセットチェンジでピアノを移動しようとしていた。

 謎の男、人間プルートは名前を安藤ということがわかった。電車の中で自己紹介されたのだ。安藤くんはまだ学生だ。学部四年生で卒業研究に取り組んでいるらしい。わたしは文系だったから、卒業研究と言われてもどんなものか想像もつかないけれど。それに、やっぱり年下だった。

 不思議なのが、安藤くんはわたしの名前を知らなかったことだ。わたしを知っていて訪ねてきたのだと思っていたのに。そういえば玄関のドアを開けたとき、わたしの顔を見て驚いていたようだった。あの部屋に用があったのであって、住人がわたしでなくてもよかったということだろうか。そういえば、はじめリビングダイニングを見回していた。なにか犯罪に巻き込まれようとしているのだろうか。急にそんな考えが浮かんできた。でも、裏のある人間のようには、安藤くんは見えない。犯罪と安藤くんを並べて考えると、なにかチグハグだ。

 ロビーには飲み物を買うための長い列ができていた。

「アルコールにします?シャンパンとか」

 炭酸のあるものは見苦しいことになりそうだから、白ワインを頼んだ。わたしはロビーの一隅に場所を占めて留守番する。

 まだ安藤くんは謎だらけだ。一番はプルートのことを知っているということだ。部屋に盗聴器でも仕掛けてあるかと思って、コンセントのカバーを外して調べたけれど、なにも見つからなかった。わたしも始終ひとりごとをいっているわけではないから、音だけから状況を把握するのは困難なはずだ。

 安藤くんがグラスをふたつもってもどってきた。タネ明かしをしてくれる約束だから、コンサートのあと食事でもしながらじっくり問い詰めればよい。わたしのとなりに立つ。ありがとうといってワイングラスを受けとり、さっそく口にする。冷たい。おいしい。ホールは乾燥しているのだろう、のどが渇いていたからおいしさ倍増だ。安藤くんはシャンパンにしていた。細身のグラスに細かい泡が立っている。

「リストはどうでした?はじめて聴いたかと思いますけど」

「おもしろかった。協奏曲っていうのが好きみたい、わたし」

「ああ、おれも好きです。バイオリン協奏曲もいいですよ」

「ひとつの楽章が短いんだね。もっと聴いていたいくらいだったよ」

 安藤くんはプログラムを広げた。

「リストのピアノ協奏曲は楽章といわないみたいですよ」

 プログラムには第一部から第四部まで書いてあった。

「本当だ。なにがちがうの?」

「そこまでは知りません。ほかの作曲家は楽章って言うと思うんですけどね」

「そういえばさ、演奏中にプログラムをガサゴソ開いたり閉じたりする人がいてすっごい耳障りじゃなかった?第二、部か。あの静かな中でさ」

 わたしなんて、すこし体を動かすのも遠慮して、体のあちこちが固まってしまったというのに。

「いるんですよ、田舎モンが。神経が鈍いんでしょうね」

「自分では気にならないんだね。嫌だ嫌だ」

「次はブラームスですけど、予習はバッチリですか」

 ブラームスの交響曲一番を聴くという宿題は、もちろんコンサートの予習のためだった。

「予習はしたけど、ブラームスあんまり好きじゃないみたい」

「そうなんですか」

 わたしは交響曲一番の感想をひとくさり語って、安藤くんをちょっとガッカリさせてしまった。

 安藤くんはお酒が弱いみたい。一杯のシャンパンで顔を赤くしている。わたしたちは飲み物を飲んでトイレの列に並んだ。女性の観客が多いこともあって女性側の列が長い。ロビーに出るのに前を通ったときとくらべれば落ち着いたというべきだけれど。クラシックのコンサートはこんなものなのだろうか。おばさんが多くて、おじさんが少ない。若者は男女ともすくない。休日なんだから、わたしみたいな会社員だってこられるはずなのに。そういえば、学生時代サトミちゃんにつきあわされて博物館に行ったときも、いまみたいにおばさんが多かった。日本の文化はおばさんに支えられているのかもしれない。うう、明日のわたしのことだ。

 オーケストラの編成は協奏曲のときより増えていた。ステージが窮屈そうだ。ブラームスの交響曲一番は、生で聴くと大迫力だった。曲自体が重々しいからオーディオで聴くのとちがいがハッキリするのだろう。お腹に低音が響くほどの大音量でオーディオを鳴らしたら、いくら鉄筋コンクリート造のマンションといっても近所迷惑になってしまう。

 リストのピアノ協奏曲一番は気に入ったから、あとで手に入れよう。

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