第10話

「じつはですね」

 深刻そうな表情で声のトーンを落とした。精悍な顔つきの安藤くんが深刻そうにすると、人類の命運について重要な秘密を知ってしまった、そのことについて相談があるというような雰囲気がただよいだす。

「黒猫になっていたのです」

 わたしの気分は一気にしらけてしまった。のりだした体を元に戻す。

「いや、もちろん現実ではありません。夢の中です」

「はあ」

 お茶をずずっとすする。

 コンサートが終わって充実した気分で、では夕食でもといってやってきたとんかつ屋だ。テーブルをはさんで向かい合ってすわり、テーブルにはお茶とおしぼりがのっている。タネ明かししてくれる約束だよねと、水を向けて返ってきた答えがこれだったのだ。

「あれ?興味ありません?でも、ほかに説明のしようがないんです。自分でも不思議で、そんなバカなって思ってるんですけど、本当のことなんだからしかたない」

 わたしは聞こえていないふりをして、もう一口お茶をすすり、おしぼりで手を拭く。

「不安定な平均台みたいなところを歩いてるんです。気づくとマンションのベランダの手すりの上でした。ビックリしたんですけど、もっとビックリしたことに体が人間とはほど遠いんです。手が短くてびっしり毛が生えていて。四本足で立ってるんですね?

 夕方でした。歩いてゆく先を見たら、女の人が手すりに肘をついてベランダに立ってます。見惚れるほどきれいな横顔でした」

 嘘だ。わたしは部屋着でビールのグラスを片手にほうけていたのだ。本当にあの場にいたとしても、だらしない女にしか見えなかったはずだ。

 どうやってベランダにいるわたしを見ることができたのだろう。四階くらいの高さといったら、東のかなり遠くにある病院に行くしかない。ベランダから病室の窓が並んだ面が見えるということは、病院では病室からこちらを見ることになる。ベランダの東側は壁で目隠しされているから、ほとんどの病室からは望遠鏡を使ったって肘も見えないはずだ。建物の端のほうの病室からでも角度がないから、窓から身を乗りださないとベランダを見ることはできなさそうだ。患者か見舞客がそんなことしてたら看護師か医師に見咎められるだろう。住宅から見上げるとどうだろうか。猫が手すりの上を歩いているのがわかるだろうか。わたしの姿が見えるだろうか。

「女の人がいる部屋は角部屋で、その先はありません。ベランダにおりると窓が開いていました。迷わずあがりこみました。そこはキッチンとひとつづきになったリビングで、あまり物がなくてガランとしてました。オーディオセットからベートーベンの三番が流れています」

 部屋の中の様子までわかるのはおかしい。病院との位置関係だけではない。窓は開いていたけれど、カーテンは閉めていた。もう一つの可能性、上の階や下の階の東の角部屋からであっても、なんらかの方法でベランダをのぞくことはできそうだけれど、部屋の中をのぞくことはできないはずだ。リモコン操縦できる装置を使ったとしても、そんなものが部屋に侵入していたらさすがに気づく。いや、待てよ。安藤くんはすでに先週わたしの部屋にあがっていて、リビングダイニングやキッチンを見ているのだった。オーディオを再生してベートーベンの三番がプレイヤにはいりっぱなしだったことも知っている。いや、あのときにすでになにか言っていたか。とにかく、この証言のほとんどはあとからでもでっち上げられるのだから、無視していいのだろう。

「女の人は部屋にもどってきて、コーヒーをいれました。こんないれ方じゃうまいはずはないって感じでしたね」

 あれ?足を拭いてあげたこととか、ラーメンを食べたこととかの話は?わたしがコーヒーをいれたことしか知らない?いや、それもなんで知ってるのかわからないけれど。やっぱりプルートになっていたというのはマユツバだ。夢を見たというのは嘘ではないかもしれないけれど、実際にプルートになっていたわけではない。当然といえば当然のことだけれど。人間が猫になってたまるか。

 ひれかつ御膳が届いて、食べはじめる。

「夢の中の出来事ですからね。もう一度あの女の人に会いたいと思ってどんなに恋い焦がれてもダメだとわかっていました。でも、実験でケガをして病院に行ったとき気づいたんです。あ、この病院あの夢のとき、遠くに見えていた建物だって。夢の中は夕方でしたからね、自分がいた方角はすぐにわかりました。おあつらえ向きに、マンションはほかに近くにありません。マンションの非常階段をあがって、あのとき自分が何階にいたのかを検証して、あとは東の角部屋を訪ねるだけでした」

 衣で歯茎を傷つけないように慎重にかつに噛みついていた。現実の世界で病院の存在に気づいてしまえば、その日のうちでもわたしの部屋にたどり着けそうだ。ということは二ヶ月くらいは、夢で見たことだから現実とは関係ないと思っていたのか。わたしはその間、猫巡りをしていたわけだ。待てよ。その夢はいつの話だ?そこを聞いていなかった。

「その夢って、いつごろ見たの?」

「えっと」

 考えている。なにか計算しているのだろうか。

「二ヶ月くらい前ですかね」

 時期的にはプルートがあらわれたのと一致するか。

「どうです?不思議でしょう。でも本当のことです」

「それで、玄関開けたときわたしの顔見て固まってたんだ」

「やだな、固まってませんよ」

「ううん、信じられないって顔してた」

「いや、芽以さんに見惚れてただけです」

 お世辞やごまかしでも、面と向かって言われると照れてしまう。照れているとバレると、こんどは本気にしてるってちゃかされるにちがいない。深呼吸だ。

 とんかつ屋のご飯はしっとりツルツルふっくらでおいしい。かつは衣サクサク、お肉ジューシーで、やっぱりとんかつはお店で食べるものだよねと確認した。

「そうだ、こんどラーメン食べに行きましょう」

「え?」

 プルートがきたとき袋麺のラーメンを食べたという話はしていない。この一致はたまたまなのか?

「ラーメンです。嫌いですか?」

「ううん。そうだね、ひとりでお店で食べるのはちょっとあれだから、一緒に行こうか」

「はい。会社に迎えに行きますね」

「え?平日なの?」

「ラーメンを休日に食べに行くなんて、休日がもったいないじゃないですか。休日はもっとお楽しみなところへ行くんですよ」

「へ、へー」

 それって、わたしと一緒にってことかな?それとも、休日をわたしのためにつぶすのはもったいないってことかな?

 最寄り駅と会社のはいった建物の名前を教えた。安藤くんはスマホですぐに場所を確認していた。

「ほう。いいところに会社ありますね。なんでこんなところに会社を置くんですかね。家賃高いでしょうに。社員は通勤大変だし。東京一極集中は無駄ばっかりでバカらしいと思うんですけど、経営者はそう思わないってことでしょうね。アタマ悪いのかな」

「安藤くんのガッコウは?」

「芽以さんの家と駅の反対側です」

 理系の学部しかない大学だ。すごく優秀じゃないとはいれないと聞いたことがある。

 安藤くんの正体が明らかになったくらいで、タネ明かしといっても夢で見たことが現実と一緒でしたというウソみたいな話しか聞けずに、電車で帰ってきてしまった。安藤くんとは駅でお別れした。マンションに帰ってきたら部屋が荒らされているなんてこともすこし心配していたけれど、それは杞憂に終わった。安藤くんは犯罪グループの一員としてわたしに接触してきたというわけではなさそうだ。この先のことはわからない。いまのところだけれど。

 翌日曜日は一日家事をして終わってしまった。掃除、洗濯、布団干し、アイロンがけ。二十一世紀になっても家事には時間も手間もかかるものだ。科学が進歩したなんて言うけれど、わたしからしたら生意気なこといっているとしか思えない。人間様が家事に手を出さなくてすむようになるまでは科学の進歩なんて寝言でしかない。電話やコンピュータが持ち運べるようになったからって便利でもなんでもない。家からでなければ同じことだ。

 夜布団に横になって考える。安藤くんのことを考えずにはいられない。名前はわかった。学部四年で、まぶしいくらい若々しい。理系の優秀な大学に通っていて、話した印象もそんな感じだ。服装がオシャレ。そこは理系のイメージとすこしちがうかもしれない。二ヶ月くらい前に夢を見た。それがプルートになった夢だったらしい。ベランダの手すりの上を歩き、わたしらしき人物に会い、部屋へはいった。わたしがコーヒーをいれたのを知っている。ベートーベンの交響曲をかけていたことも、たぶん知っている。もしかしたらラーメンを食べたことも知っているのではないかという疑いがある。こんどラーメンを食べに行こうと誘ってきたからだ。

 あれ、待てよ?部屋に訪ねてきたとき、安藤くんは黒猫のプルートですと言ったのだった。でも、昨日の会話でプルートという名前はでてこなかった。すべてを話してはいないのだ。やっぱりラーメンを食べたことを知っているのだ。ということは、プルートがコーヒーをちろっと舐めたことも、アイスを食べたことも、映画を観たことも知っているのかもしれない。プルートと名前をつけたことも、プルートを膝にのせて涙をこぼしたことも。そうか。そこに触れないように話が一気にコーヒーの話に飛んだのだと考えればつじつまが合うのではないか。芽以さん泣きましたね、プルートに愚痴ってましたねなんていわれたらバツが悪い。それを避けてくれたのかもしれない。となると、夢の中でまるっきりプルートになっていたということになるだろうか。黒猫プルートの記憶が安藤くんに移るような、そんな夢があるだろうか。ありえない。でも、なんとなくスッキリしたような気もする。

 布団の中でビクンと体をふるわせるほど、ショッキングな考えが浮かんだ。チケットだ。安藤くんは、わたしの部屋にくるずっと前にコンサートのチケットをとっていたのだ。うちにきてオーディオを再生してはじめてわたしがベートーベンを聴くことを知ったのではないということだ。つまり、黒猫プルートと安藤くんは同一人物。いや、同一猫。うん?わけわからないや。安藤くんなんて人間はいなくて、ずっと黒猫プルートとすごしていたような、そんな気分になってきた。安藤くんは黒猫。プルートは安藤くん。安藤くんはプルート。わたしは黒猫。く、ろ

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