第11話

 オフィスはいつも通り静かだ。パソコンのキーボードを叩く音、紙の資料をめくる音、小声でなにか話しているのが混ざって、さわさわしている。ざわざわというほどざらついていないし、大きい音でもない。床はカーペットが敷き詰められているから吸音効果があるし。

 夕方になると眠気が襲ってくる。夕方の眠けがわたしには強敵で、コーヒーを飲んでも、ガムを噛んでも、体を動かしても、去っていかない。とにかく目を閉じないように、意識を失わないように。仕事を進めることよりも、眠気に負けないことに集中しなければならない。

 終業のチャイムが鳴る。オフィスのドアが開いて社員がもどってくる。あの人たちは、これからまた仕事に取りかかるのだ。外にでていた分できなかった自分の仕事がたまっている。キャビネットの上に設置されたオフィスグリコを物色している女性が三人。定時で帰る人は、まだいない。

「芽以ちゃん」

 須藤さんだ。この人に馴れ馴れしく下の名前で呼ばれるたびに、嫌悪感で鳥肌が立つ。十以上歳がはなれていて係長なのだけれど、女性を下の名前にちゃんづけで呼ぶという理解不能の神経の持ち主だ。そして、わたしをプライベートな食事やお酒に誘ってくる。一度も誘いに乗ったことがないのだから、もう諦めてくれればいいのに。

 須藤さんは椅子の背もたれに手を置いて斜め後ろに立っている。お尻を浮かして体をずらし、見上げなければならない。顔を遠ざけるため、デスクに肘をつっぱって体勢を保つ。

「はい、なんでしょう」

「最近お疲れみたいだから、今日はもうあがったら?いそぐ仕事じゃないし、それ」

「はあ」

 一生懸命仕事しようなんて気持ちは一切もちあわせていないし、他人が残業していようと平気で定時で帰れる人間なのだけれど、ケアレスミスの常習犯として見直しに人三倍くらい時間と手間をかける必要があるから、定時で退社することはほとんどない。でも、帰っていいと言われればいつでも帰る心の準備はできている。

「ご心配ありがとうございます。今日はこれであがることにします」

「うん、それがいいよ。じゃ」

 ため息がでる。わたしは疲れているように見えるのだろうか。若さが失われている?人生に張り合いがないからだろうか。とにかく、帰り支度にとりかかる。

 エレベータを待っていたら、また須藤さんだ。

「お疲れさま」

「お疲れさまです。須藤さんも今日は早いですね」

「これから暇?」

「はあ?」

 自分でわたしのこと疲れて若さが失われてるって言っておきながら、早く帰ったほうがいいっていっておきながら、誘ってくるか?予定より早く退社させておいて暇かもないものだ。むしろこのために早く帰れといったにちがいない。

 ほかにも退社する人と、間食を仕入れに行くらしき人がやってきて、それ以上会話せずに済んだ。エレベータに一番に乗りこんだために、降りるのは最後になる。わたしのとなりを須藤さんが歩きはじめる。

「疲れてるときは、おいしいもの食べたら元気でるんじゃない?」

「あまり食欲が」

「じゃあ、軽いものでも」

 なんだろう。ただ言葉のやりとりをしているだけなのに、体がちぢこまってゆく。ジャケットの前をかきあわせて両手で押さえ込むようにしていた。寒風に耐えてトレンチコートの襟を立てて歩くハードボイルドの私立探偵になった気分だ。

「芽以!」

 二階まで吹き抜けの玄関ホールに、よく響く硬質の声。床に向けていた目線をあげる。一緒にエレベータに乗っていた、先を行く人たちが振り返っている。声は前方からではなかった。向かって右側の壁際、ソファが設置されているところに、安藤くんが長身で立っていた。

「その男は?」

 スニーカーのかかとを石の床に叩きつけるようにして大股でこちらに歩いてきた。すぐそばで威嚇するようだ。

 今日も黒ずくめ。黒いティーシャツには、全裸の白人女が四つん這いで誘うようにこちらを見ている。西部劇でガンマンが肩にかけているような、銃弾が連なったベルトみたいなものを首から下げて、ちょうど乳首を隠している。なかなか奇抜なデザインだ。ボタンを留めずに黒いブラウスを上にはおっている。

 安藤くんに睨まれ、須藤さんはビジネスバッグを抱きしめて、わたしから距離をとった。

「安藤くん。どうして」

「早くついたから、そこで待ってたんだ」

 あごで元いたソファを示した。

「もしかして、誘われてた?」

 もう一度須藤さんを見下ろすように睨む。こんなに背が高くてたくましかったかな。姿勢をよくしているせいか。

 こういうとき、どうしたらいいんだろう。いい女になった自分を想像する。わたしはいい女、わたしはいい女。大人で、セクシーで、男を手玉にとる、悪くていい女。

 安藤くんのとなりにまわって、腕を組む。

「須藤さん、それじゃ、お疲れさまでした。さっ、行くよ」

 腕を引いて、安藤くんを歩かせる。ちゃんとあわせてついてきてくれた。

「あの人ぽかんとして、なにがあったかわからないって顔してますよ」

「振り向かない」

 からめた腕をぎゅっと締めつける。

 わたしはいい女。わたしはいい女。

 ビルの自動ドアを抜けると、強風が吹きつけてきた。目を閉じる。速足になって、歩道橋を渡り、すぐ目の前のコーヒーチェーン店に無言のままはいった。ふう、やっと気が抜ける。店内はすいていて、すぐに注文できた。二階にあがって、二人掛けのテーブルにつく。

「はあー、ビックリした」

「大成功」

 コーヒーのマグカップを前においてニコニコしている。

「なんなの、そのエロいティーシャツ」

「お目が高いですな。これはカナダのバンドでスリーインチズ・オブ・ブラッドっていいまして。解散しちゃったんですけどね。フェスで日本にきて人気を獲得したのに残念だったな」

 黒のブラウスを脇に払って、ティーシャツをよく見せようと胸を張っている。女の裸のティーシャツなんて見たいわけじゃないのに。

「えっと、メタルね?」

 ヘビメタといっちゃいけないんだった。わたしは非難したつもりなのに、まったくこたえていない。

「さっきのは、あれでよかったんですよね」

「どこが!やりすぎ。明日から気まずくなるじゃない」

「強気にでれば大丈夫ですよ。なんか文句あんの?ヒドイ目にあいたいの?って感じで」

「わたしが?」

「はい。さっきだって、あばずれ感がでててよかったと思いますけど」

「あば、ずれ」

 大失敗ということだ。わたしにはやっぱりいい女は役が勝ちすぎていたのだ。

「ま、いっか。しつこかったし」

 仕事関係の人と仲良くする必要もない。仲良くなんかなかったけれど。

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