第8話

 夕食を済ませてお風呂にはいる。体を洗い、髪を洗い、湯船につかる。

 はあ、今日はいろいろあって疲れた。結婚式に呼ばれそうなくらい親しくしている人は学生時代の仲間、会社の同期、あわせると十人以上になる。みんながこの数年に結婚するとなると、半年に一度はどちらかのメンバーと結婚式で顔を合わせることになるだろう。楽しいような、メンドクサイような。

 サトミちゃんの話は聞きたい。小説の完成品を読んだことはなくて、友達甲斐がないと非難されそうだけれど、アイデア段階の話を聞くのが楽しい。つぎに会ったときには魔女の話は完成しているだろう。書きはじめると、ひと月くらいで書き終わってしまうらしい。そのあと推敲で同じくらい、ひと月くらいかけるのだとか。サトミちゃんは推敲が嫌いで、コンピュータが勝手にやってくれればいいのになんて言う。そのうち、アイデアだけ入力したら小説にしてほしいと言い出しそうだ。

 謎の男があらわれた。わたしの人生にこんなことが起きるなんて想像もしていなかった。年下で細身の長身。髪の毛が長めでちょっとぼさぼさしてて、カットしたらどうかというくらい。何を考えているかわからなくて、柔和な物腰。でも、自分の好きなことになると熱弁をふるう。傍若無人に部屋を眺めまわすかと思うと、コーヒーどうぞなんていって気をまわしてくれる。最後は質問に答えてくれずに、強引に来週の予定を決められてしまった。とらえどころのない人格だ。本当に猫みたい。思い返しても、コーヒーをいれにきただけ?って感じで、何をしにきたのかわからないし。猫であり、謎だ。

 突然見も知らない男がやってきて、部屋にはいってきたのに、わたしったらあまり警戒していなかったな。年下だと思って甘く見ていたから?プルートと名乗って、ちょっとプルートっぽかったからかな。人間プルートだけじゃない、自分のことだって謎だ。

 年下の男の子か。もし付き合ったら完全に振りまわされる。わたしだって、男性と付き合ったことくらいある。告白されたし、デートをした。そのわりには、あまり打ち解けられなかった。女の子の友達と話すようには自然に振る舞えない。話したいことが湧いてこない。考えて話題をひねりださないといけない。会話がつづかない。いまでは、無理に男の人と付き合う必要もないと、自分を許している。

 おとぎ話に出てくるお姫様は王子様とどんな会話をしているのかな。領地の農家がタネを播いたのよ?今年の麦の成長が楽しみだわ。おほほほほ。なんて会話はしていないはずだ。もっと高尚な。そう。いま家族の肖像画を描かせているの。ずっと椅子にすわっていないといけなくてお尻が痛いわ。ちょっとなでてくださる?ちがう、ちがう。無理にお姫さまを想像する必要はないんだった。わたしはただの庶民だ。

 庶民は恋人とどんな話をするのだろう。おいしいコーヒーをいれてあげるよ。ありがとう。どう?うん、おいしい。喫茶店で飲むよりうまいだろ。本当。いつでもコーヒーいれてやるよ。じゃあ、わたしはご飯つくる。いいね。なにがいい?そうだな、とんかつ。お店で食べて。終わった。わたしには得意料理なんてないんだった。

 って、わたしはなにを考えているんだ。正体不明の男がやってきたというだけで、付き合うとかなんだとか。男に飢えているみたいではないか。

 考え事をはじめるといつまででも考えてしまう。いつのまにか眠ってしまう。風呂で眠ってしまったら命が危ない。このへんで上がることにする。

 バスタオルで体を拭く。わたしの体はなかなか美しい曲線をしていると思う。胸だって、たれていないし、そこそこのボリュームはあると思う。顔だって整っているほうだと思うし、髪はわりと自慢だ。問題は中身なのだ。料理は、おいおい料理教室に通うとかしてスキルを手に入れるとして、わたしになにができるだろう。これは男を惹きつけるためだけではない。人生の問題なのだ。おっと、考え事がはじまっていた。

 寝る準備をして布団にはいった。そうだ、ブラームスの交響曲一番を聴かなければならないんだった。明日は日曜日だ。買いにゆこう。


 ブラームス交響曲一番。ドンドンドンドンという太鼓の音に細くも強靭そうなバイオリンの音。深刻そうな重々しいはじまりだ。これが序奏。第一楽章本編にはいって細い感じはなくなって少し勢いが出てきた。同じメロディがパッとあらわれては沈んでゆく。思い出したように元気を取り戻してメロディ、疲れて沈み、ゴニョゴニョという感じ。やっと新しいメロディがあらわれて勢いを引き継いだかと思ったら、やっぱりまた沈んでしまう。終わり方も、尻切れトンボという印象。なんというか、飽きる。つまらない部分が多い。

 クラシックに詳しい人はなんとか形式とか言って楽しめるのかもしれないけれど、素人にはもっとわかりやすいものの方がよいと思う。スリーブの解説を見ると、構想二十年執筆二年みたいなことが書いてあるけれど、そんな苦労話は関係ない。完成品の良し悪しだけが問題なのだ。

 第二楽章で重々しさはなくなり、でも深刻な感じは第一楽章と共通する。ゆったり静かなイメージではある。印象的なメロディはない。ゆったりのんびりたゆたっている感じで、これはこれでいいのだろう。第二楽章は短かったと思ったけれど、録音時間は八分以上あった。日本のポップスなら二曲分くらいの長さだろう。聴かないからわからないけれど。

 第三楽章になって、すこし軽快になった。リズム感がある。管楽器のほわんとした音がなごむ。第二楽章より短くて、うんいいかもしれないと思っていたら終わってしまった。

 またずーんと重い。地の底から湧き上がるような演奏。第四楽章がはじまった。第一楽章みたい。メロディがはじまったと思ったら途切れ。また始まって途切れる感じ。これは第一楽章につづいて序奏というやつ。いるの?これ。本編にはいってやっとメロディがずっとつづくようになった。ふたつのパートを交互にいったりきたりといった感じだけれど、どうもパートのつなぎ方が不器用なのか、しっくりこない。音をちいさくしておけばごまかせるだろっていうような、安易なやり方のように思える。後半は盛り上がってきて、新しいパートもあらわれて華やかにフィニッシュした。

 ブラームスくん。第一楽章はメロディのつながりをもっと練ってやりなおしてきたまえ。できれば第四楽章の前半もね。わたしが先生ならそう指導するんじゃないか。いや、音楽わからないけれど。

 さっそくシーディーショップへ出かけてブラームスの一番を買ってきたわけだけれど、よさがわからなかった。巷の評判はいいらしい。わたしはやっぱりクラシックがわからないのだろう。ビージーエムとしてかけて満足している程度だから、耳が肥えていないのだ。

 人間プルートに課せられた課題はクリアした。だからどうなんだろう。人間プルートはなにがいいたかったのだろうか。ベートーベンの次はブラームス聴かないとねってことだったのかな。この一番はベートーベンの第九につづく第十とでもいうべき作品だと評価されているらしい。

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