黒猫の挨拶

第24話

 いや、プルートはすでにハーデースが正体だとわかっている。これはハーデースだ。

「ハーデース、どうやってきたの。なんで駅のこっちまで遠征してきたの?」

 安藤くんみたいにハーデースと話せればよいのだけれど。あれって嘘だったんだっけ。

 ハーデースはガラス窓に手をついて立ちあがっている。部屋にはいりたいのだ。窓を開けてやると自分だけ先にはいってしまう。わたしも追いかける。ハーデースは、また部屋の真ん中ですわっていた。足を拭かなければならないのをわかっているのだ。はいはい、いま拭きますよ。洗濯機の上の雑巾を洗面所で濡らしてハーデースの足を拭いてやる。ああ、ハーデースがきてくれた。急に気分が軽くなった。ゲンキンなものだ。

 ハーデースに音楽を聞かせてあげよう。オーディオの電源を入れて、トレーを出す。なかのディスクはベートーベン交響曲三番だった。前回ハーデースがやってきて以降、いろいろディスクを入れ替えて音楽を聴いていたというのに、偶然にもまた三番がはいっていた。安藤くんは英雄っていってたっけ。そのままトレーを戻して再生する。

 ハーデースは音楽に耳を傾けている。ハーデースがきてくれたおかげなのだろう、すこし食欲がでてきた。あのときみたいに、またラーメンを食べよう。残りのビールを飲み切ってしまう。

 ラーメンは、スープが濃くできあがってしまった。ガマンして食べた。食器を片付けてそのままコーヒーをいれる。ハーデースがやってきてキッチンにあがった。今回はいれたコーヒーを小皿にうつしてやるまえに床におりていってしまった。味をみるまでもないということか。冷たい。

 寝室から布団をもってきて敷く。ハーデースが布団にのる。わたしも横に寝て、ハーデースの背中にもかかるように毛布をかぶる。

「ハーデース。よくきてくれたね」

 背中をなではじめる。

「あの道路渡ってきたんでしょう?怖くなかった?」

 頭をなでると耳がぴょこぴょこ動く。

「安藤くんさ、どうしてハーデースがうちにきたこと知ってたの?ハーデースが話したの?話せるわけないよね。不思議なんだよね、わたし。サトミちゃんにも話したけど、わからないっていってた。安藤くんは、夢で見たっていったり、ハーデースに聞いたっていったり、ハーデースにのりうつってたっていったり。それも、嘘だっていったり、冗談だったって言ったりさ。もう、ぜんぜんわけわかんない。

 この間、安藤くんとまたモメちゃったんだ。だってさ、夜なのに虹が見えるとかいったりさ、わたしには見えない猫をなでてたりしたんだよ?手術受けて死にかかってた時にハーデースにのりうつってたとかさ。そんな風にしてからかわれたら、誰だって頭くると思う。そうでしょう?ハーデース」

 ハーデースがわたしのほうに頭だけ振り返って、目を閉じた。なにがいいたかったんだろう。

「ハーデース。あなたハーデースだよね。また安藤くんがのりうつってるなんてことないよね?あれ嘘だよね?安藤くんいま死にそうなんてことないよね?安藤くんも平文くんも連絡つかないんだよ。どうして?」

 ハーデースがまたふりかえって、今度は首をかしげる。ハーデースの顔はちょっと安藤くんに似ている。ほっそりして精悍だし、まだ子供っぽさをすこしだけのこしている。はじめて安藤くんがこの部屋にやってきたときのことが甦る。

 はじめは驚いていた。つぎはちょっといたずらっぽい顔になった。キッチンとひとつづきになったリビングダイニングをぐるっとみて、ベランダに出た。あのとき、病院を見ていたようだった。

 布団から起き出して、ベランダに出る。左、東側を見る。四角い病院の建物、たぶん病室の窓がならぶ。消灯の時間がすぎて照明がついていないらしい。まさか。本当に手術をしていた?いや、病室で手術するわけない。安藤くんが病院を見ていたからと言って、死にそうになった安藤くんの魂がハーデースにのりうつったなんてことの証明にはならない。

 わからない。なんでこんなこと思うんだろう。ハーデースが安藤くんだという気がしてならない。心臓がノドまで出かかっている。息苦しい。

 ハーデース。

 部屋に取って返す。ハーデースは、布団で丸まっていた。よかった。まだいてくれた。布団の上にすわって、ハーデースの脇に手を入れ、抱きかかえる。

「あなた安藤くんじゃないよね?安藤くん死なないよね?死んじゃイヤだよ?あんな風に腹を立てて、わたしロクに話も聞かないで、ごめんなさい。もう一度会いたい。会ってごめんねって謝りたい。ううん、会えなくてもいい。どこかで生きていてくれるだけでいい。安藤くん」

 ハーデースを抱きしめると、やわらかくてあたたかかった。

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