黒猫の解答
第26話
もう十二月、商店街はクリスマスの電飾で埋まっている。駅前を通り抜け、平文くんの家へ向かう。
わたしの精神状態もそろそろ安定してきたと思う。何ごともないのに突然目から涙が流れるということはほとんどなくなった。食欲がもどり、内臓も健康を取り戻しただろう。頭の中にいろんなイメージの嵐が吹き荒れて眠れない夜もなくなった。物事を冷静に考えられるようになったと思う。
平文くんの連絡先はわからないから、アポなし突撃訪問だ。空振りに終わるかなと覚悟してインターホンのボタンを押す。部屋の中でもの音がして、ドアが開く。出てきた顔が驚いている。驚きを隠してポーカーフェースをするには人生経験が足りない。まだ二十歳そこそこなのだから。
「芽以さん。どうしてたんですか、いままで。もっと早くきてくれると思ってましたよ」
やっぱり平文くんは実在した。いや、まだわからないか。
「うん、準備が必要だった」
「はいってください」
あたり前のことのように自分でスリッパをだして、ソファに腰かける。平文くんはキッチンに立った。コーヒーでいいかというから、ありがとうと答えた。
「そういうファッション、嫌いではなかったんですか?」
コーヒーをテーブルに置いて、床にすわる。
「うん。でも、安藤くんと買いに行った服だからね。たまには着ないと。平文くんの家にお邪魔するのにちょうどいいかと思って」
ソファにのせたコートをポンポンと叩いた。この季節になってしまえば、外ではコートで服装を隠すことができるからよい。
「おれは歓迎です」
「ハーデースは?」
平文くんは困ったなという顔になる。
「それが、家出してしまって」
「ケンカした?」
「そんなことないと思いますけど。あいつ変わってるんです。エサをくれる飼い主より安藤になついてたりして。前の飼い主のところにいたときには飼い主になついてたんですけど。一日中膝の上で丸くなってました」
「そう。安藤くんは?」
「安藤は、亡くなりました」
「そう」
わたしは知っていた。安藤くんはもう死んじゃったんだって。でも、平文くんの口から聞かされるとやっぱりショックで、全身に鳥肌が立った。心臓がぎゅっとつかまれて、鼓動をとめられてしまったような感覚があった。
「すみません。急にこんなこといわれても信じられないと思います」
「ううん。なんとなくそうじゃないかと思ってた」
もちろん嘘だ。わたしは知っていたのだ。
「そうですか。ショックでしょう」
笑顔で首をかしげたつもり。
「偶然にもハーデースが出ていった日です。見舞いに出かけようとしてたら、外にでたがったから、一緒に部屋を出ました」
ハーデースのためのにゃんこタワーが寂しげに部屋に放置されている。
「安藤はガンでした。こんなに若いのにガンで死ぬなんて」
「うん」
「はじめに大きい手術をしました。その手術で危険な状態になったみたいです。しばらく心臓がとまったそうです」
「うん」
電子的な警告音が鳴り響く。まもなく一定の音程になる。緊迫感はむしろ薄れた。
無影灯に照らされた手術台。医師は馬乗りになって心臓マッサージをはじめ、ナースたちに指示を飛ばす。あわただしい動き。足音、声。
電気ショックの準備ができた。医師が手術台から飛び降り、周囲に注意を呼びかける。電気ショックの器具を胸に押し当てる。ビクッと体が反り返る。心拍は、停止。医師が電気ショックの強さを指示。もう一度電気ショックを与える。今度は心拍が振れ、一定のリズムに落ち着く。手術が再開される。
「それでも、なんとかもちこたえて手術は成功だったそうです。意識がもどって、見舞いに行ったとき、臨死体験の話をされました」
テーブルの上のコーヒーカップを無言で見下ろしていた。表面に油が浮いている。
「ハーデースになって、どうやら芽以さんの家みたいでしたけど、マンションのベランダにいたそうです。音楽を聞いたり、話を聞いたり。つらい思いをしながら一人で頑張ってる人なんだといってました。コーヒー飲んでください」
平文くんの言葉に従って手が伸びる。内臓の調子を壊してからコーヒーを飲むのをやめていた。一口飲み込むと、胃の中で広がって、体中にしみわたるような感覚があった。脳がカフェインを吸いとろうとしているような、そんな感触も。
「これ」
安藤くんがいれてくれたコーヒーみたい。
「手術して退院したあと、コーヒーのいれ方教えろっていいまして。おれが安藤にコーヒーのいれ方を伝授しました。おれがいれたコーヒーうまいだろなんて、威張ってたでしょう。おれのおかげです」
それは知らなかった。苦笑した。
「おれも、ハーデースのもとの飼い主に習ったんですけど。喫茶店のマスターでした」
ハーデースの前の飼い主。喫茶店のマスターだったのか。猫巡りで喫茶店をまわっていたのはそれほど的外れではなかった。
「病室から見えるあのマンションだっていうんです。ハーデースになったときにいた場所。ベランダから病院が見えたと。病室に移ってからいいだしたので、あとづけで言ったんだろうと思いました。ハーデースにのりうつったなんて話は、夢でも見てたんだろうと思ってたんです」
わたしも信じがたかった。サトミちゃんのセンパイも臨死体験で動物にのりうつったという話は聞いたことがないと言っていたらしい。でも、ということは、安藤くん自身にとっては現実で、わたしをからかっていたのではなかったのだ。
「理系のくせになんていって、おれに否定されてムキになってたんでしょう。退院してすぐ芽以さんのマンションにいってみたそうです。それで、何階の部屋だったかわかったといってました。安藤が芽以さんの部屋に訪問しようというので、おれは止めました。変質者だと思われるぞと」
「それでうちにきたんだ。自分でも半信半疑だったんじゃないかな。玄関のドア開けたらビックリしたって顔してた。ハーデースになって会ったわたしと同じ顔だったからなんだね。部屋に入れてあげたら、ベランダに出て病院の方みてたよ」
平文くんはうなづいている。
「わたしがハーデースのことプルートって名付けたのを知ってたから、不思議だったんだ。ただの変質者というより、なにか犯罪に巻き込まれるんじゃないかって心配だった。盗聴器とかないか調べたもん」
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