第18話
金曜日、一時間の残業ののち、帰る準備をはじめた。
経営者というのは、人を増やしたがらない。福利厚生費がかかるし、仕事の量によって弾力的に労働力を増減できないから、できるだけすくない人数だけ雇って、残業させたほうがいいのだ。ただ、そんなことをつづけていると、優秀な人材はそっといなくなってしまう。のこりもので仕事をまわすことになるから、よけいに残業が増える。労働環境は悪くなる一方で、どこまでやれるか我慢くらべみたいなものだ。
江戸時代の小作人になった気分だ。労働者に一揆は認められていないけれど。現代版の一揆ともいうべきストライキは、この国では行われない。労働組合が経営者の手先に成り下がっているからだ。労働組合は存在する価値を失っている。労働者がほかの職場の労働者に対して冷たいということもある。ストライキだのデモだのに否定的な労働者までいる。労働基本権を放棄しているようなものだ。もう、労働者というより、奴隷といったほうがいいと思う。
経営者には、人件費を抑えるなんてケチなことばかりに気を取られないで、カネを儲けることに頭を使ってもらいたいものだ。そんな能力のある経営者が日本にいたらいいのだけれど。しばらくまえからいわれているとおり、働いたら負けという社会になっている。
帰りのエレベータが一階について、玄関ホールに安藤くんを見つけた。待ち合わせをしてはいなかった。
「どうしたの?突然押しかけてきて。もしかして強引なのが喜ぶとか思ってる?それ勘違いだからね?女はこちらの事情を考えてくれる男のやさしさを求めてるんだよ?」
「なるほど、勉強になります。でも、強引にしようとかは別に狙ってませんよ?」
「ならいいんだけど。でも、待ったでしょう。会社にくるなら事前にメールくれないと。今日だって、知らないから一時間残業しちゃたよ」
「待つのは平気です。本読んでましたし」
「あの、量子なんとかね」
「それはとっくに読み終わりました。いまはゲージ理論とトポロジーです」
もう一言も何いってるかわからない。ほおっておく。
「それに、メールはしたんですよ?」
「本当?」
ショルダーバッグからケータイを取り出す。メールしたって、午後三時のことじゃないか。いまの学生ってみんなこんななの?それで事前にメールしたことになるの?わたしは前日寝る前までにメールすることが事前にメールするってことだと思っていたのだけれど。ジェネレーションギャップを騒ぎ立てても仕方ない。
「で、今日は?」
「服って買いますよね」
「うん、自分で縫ったことはない」
「そろそろ買いたいなとか思ってたりしませんでした?」
「もう少ししたら冬物かなって思ってるけど?」
「秋物なんかは」
「春に買ったから、いいかなって。それにそろそろ秋物って店から消えると思うけど。ファッションは季節先取りだからね」
「そうですか。じゃあ、おれがプレゼントするんで、とりあえず見るだけでも行きませんか?」
「なにか宗教の勧誘でもはじめたの?」
なんの魂胆があるんだろう。うす暗い照明の中でも血色悪いのがわかる。歩きまわるのは体によくないんじゃないか。お姉さんは心配だぞ。でも、そのために会社まで電車に揺られてやってきて、玄関ロビーで待っていたのだから、付き合ってあげないわけにいかない。
いつもの通勤路とはちがう路線の電車に乗って移動した。すでに下調べができているのだろう、商業ビルを指定してはいってゆく。わたしはあとについてエスカレータにのる。わたしのほうがお姉さんなんだぞ、もっと尊重していいんだぞと背中に呪いをかけているうちに目的の階について、安藤くんは歩き出す。わたしは嫌な予感がした。ソファ戦争の再現になるのではなかろうか。
「いや、わかってます。言いたいことはわかってるんですけど、芽以さんにこんな服を着て見せてほしいんです」
その服というのは、わたしの歳でこんな服着てたら頭がどうかしていると思われかねないタイプのファッションなのだ。コスプレか、なにか一般人とは異なる職種の人間が着るか、そんなところだ。
わたしは踵を返した。うん、今日は帰ろう。
「ちょーっと待ってください。見るだけでも。見るだけでいいから、見てください。それで、着てもいいかなっていうのがあれば、それを着てくれればいいし、どれひとつとっても絶対着たくないと思えば、おれもあきらめます」
「あきらめるつもりがあるなら今あきらめてよ」
「それではあきらめきれません。成仏できません」
わたしを拝んでいる。
だって、ディスプレイされているマネキンのファッションと言ったら、ブラウスは前身頃にも袖口にもフリルがついていて、襟もとにリボンがついて、胸を強調するようにプリーツと絞りがあって、スカートはスカートでハイウエストのうえにコルセット風にウエストも絞られて、スカート部分はミニのプリーツスカートとかなんだもん。どう見ても、頭に花咲いてるでしょ、一年中お花見できるでしょって感じの服しかありそうにない。
仕方ない。店内スペースに足を踏み入れる。ニットか。秋っぽく。ニットくらいならそれほど奇抜なのは。ダメだった。袖が広がっていたり、タートルネックが目立ちすぎたり。ニットでハイウエストなんて、胸がかなり大きくないと寂しい結果になるに決まっていた。わたしの胸は、形はいいしボリュームもそこそこだと思うのだけれど、大きいかというと普通なのだ。自分では着やせするタイプということにしている。
やっぱりブラウスになる。ブラウスの上にカーデガンという手もあった。じゃあ、まずカーデガンを。ピンク。パープル。ホワイト。もっと無難なカラーはないのかと。パステルは困る。どうにかライトブラウンのカーデガンを探し当てた。それでも、ハードルの高さは七十センチをゆうに超えていると思う。
「ねえ、わたしのもってるブラウスじゃダメなの?」
「ダメですよ。自分で好きなのを選んだら似たようなのばかりになってつまらないじゃないですか。ここはひとつ、この中から選んでください。絶対似合いますよ」
なんともいえない複雑な気分が湧いてくる。また拝んでるし。カーデガンを上に着ることを考えれば、それほど神経質になる必要もないか。こうなればドンとこいだ。毒を食らわば皿までともいう。
もう全部のせって感じのブラウスにしてしまった。たぶんさっき店頭でディスプレイされているのを見た、あのブラウスだ。フリル、リボン、プリーツ。ああ、殺してほしい。ハードルは九十センチだ。
「えーと、つぎはスカートお願いします」
アクマー!
柄物はなし、プリーツもなし、裾にレースなんてもってのほか。どれも短くない?全部膝上丈でしょ。エレガントな女のフレアスカートをなんだと思っているんだ。
「なにそれ」
安藤くんがなにか手にもってやってきた。もちろんわかっている。ソックスだ。ニーソというやつだ。わたしは目にしたこともない。現実に存在しているのか。
「スカート選びの参考になるかと思いまして」
「もう、わたしの負け。いいよ、こうなったらこれで」
このブランドの代表的なスカートらしきスカートを手にとった。例のハイウエスト、コルセット、膝上丈のフレアスカート。色は黒だ。ライトブラウンのカーデガンとの組み合わせはうまくいかない気がする。もうハードルは一メートル十センチというところだ。背面飛びでもしろってことか。そこまでではない。
「じゃあ、試着しましょう」
「試着?」
「服買うときしますよね」
「まあね。するかもね」
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