黒猫が連れてくるモノ
第6話
「プルートです」
わたしは黒猫のプルートを求めるあまり、耳までおかしくなってしまったらしい。
「えっと、フルトさんですか?」
インターホンのディスプレイに映る若い男の人は日本人だ。プルートなんて言う名前の日本人はいないだろう。
「黒猫のプルートです」
わたしがインターホンの前で固まっていると、ディスプレイの中の男の人がもう一度、黒猫のプルートですと言った。クロネコなんていう町があるのかな。クロネコからきたフルトさん?制服ではないから宅配の人ではない。インターホンのマイクとスピーカだから聞き間違いなのかもしれない。ラチがあかない。わたしは玄関のドアを開けることにした。
夕陽が北側の廊下に差し込んでいる。コンクリートに囲まれているような場所だけれど、それほど暗いということもない。まだ照明は点灯していない。
全身黒っぽい服を着た若い男の人が白い顔をして立っている。奇妙なことに、わたしのことを見て驚いているようだった。人を驚かすような美貌もしてないし、醜い顔でもないはずなのだけれど。
細いしなやかな印象の体形、顔も精悍な感じ。大人になる手前の黒猫プルートに受けた印象に近い。年齢は二十歳くらいだろう。
「あの」
「あっと。はい、もう忘れちゃいました?黒猫のプルートです」
ファーストインパクトの驚きを乗り越えて平静を取り戻したらしい。間違いない。黒猫のプルートだといった。フルトの聞きまちがいなどでは決してない。どうみても日本人の男だし、日本語を話している。どういうつもりだろう。
「それって?」
「おいしいコーヒーを飲んでもらおうと思って、準備してきました。いまお邪魔しても?」
思っていたことをのぞき見されたのだろうか。でも、イスから立ってコーヒーをいれるのがメンドウだなって思っていただけで、もう立ち上がってしまったのだからコーヒーくらい自分でいれられる。
「あ、おれがいれたコーヒーのほうがきっとずっとうまいですよ」
手に提げた紙袋をちょいとあげて示す。
わたしの思考を読んだ?何も言っていないのに、会話が成立してしまった。うなづいて見せて、自称プルートがドアを引く。わたしは抵抗してドアノブをかたく握りしめることをしないで、手を離してしまった。了承を得たと理解したのだろう、かるく引いたドアをさらに力強く開けて、玄関に侵入してきた。
「お邪魔します」
わたしの脇を抜け、玄関とリビングダイニングとを隔てるドアをさっさと開けて行ってしまう。するっ、するっと移動してゆくさまは猫っぽさを感じさせる。わたしは下駄箱の扉を開けてスリッパを手にとる。
「あの、スリッパ」
あとを追って、床にスリッパを置いてやる。人間プルートは部屋をひと渡り眺めたあと、ありがとうございますといって足にスリッパを引っかけた。窓へよってカーテンを勢いよく開ける。鍵をはずして窓を開けるとベランダへ出た。はじめからそのつもりで靴を手にもってあがっていたのだ。
ベランダ用のツッカケを出して、わたしもベランダに出る。黒猫のプルートがやってきたのは夏の始まりのころだったけれど、いまは盛夏を過ぎて夕方はすごしやすい季節になっていた。ベランダに涼しい風がそよと吹いている。エアコンをとめて窓をあけたほうが快適みたいだ。
人間プルートは手すりに乗り出して東の方を見つめている。わたしは手すりに体重をかけないように気をつけながら、背中越しに東を見る。いつもと変わらない。住宅の屋根の海の向こうにポツンと四角い病院の建物が見えているだけだ。
ひとしきり耽った哲学的思索を振り払うように、体を手すりから離してこちらに向き直る。
「よし、コーヒーいれましょう」
もう部屋の中にはいっていってしまった。彼の思索の断片でも探すようにしてもう一度病院に目を向けたけれど、どの窓もカーテンが引いてあって白っぽい四角がお行儀よく並んでいるのが見えるだけだ。反対側に目を転じてとなりの部屋の方を見たけれど、かわったことはなにもなかった。
どんどん次の行動に移ってしまって、わたしはあとを追いかける。プルートがやってきたときみたいだ。
部屋にもどると、人間のプルートがキッチンでヤカンを火にかけるところだった。台にはサーバとドリッパがセットされている。キッチンの床に紙袋が置かれている。靴はもう玄関に置いてきたのだろう。
「いましばらくお待ちください。当店では注文を受けてから一杯づつ丁寧にコーヒーを抽出しております」
あまり気を許してはいけない。窓は閉めずに網戸にした。少し距離を置いて様子を眺める。フィルタをドリッパにセットするところだ。ドリッパにフィルタを押し付けながら几帳面にさらに折り目をつけている。
「フィルタとドリッパのあいだに隙間ができないようにするんです」
ふーん、なんでだろ。
「横の面からお湯がでてしまうとコーヒーを抽出しないでうすいままサーバに落ちてしまいますからね」
なるほど、わたしのいれるコーヒーはうすい気がする。
キッチンの上の戸棚を開けて、マグカップとメジャースプーンをだす。冷凍庫からコーヒーの粉の袋を取り出して、メジャースプーンで二杯サーバにいれる。うちのキッチンを知り尽くしている?
すこし前からお湯が沸いていたヤカンの火をとめ、コーヒーの粉にお湯をたらす。粉がしめってふくらむ。ヤカンは、うちにあったものではない。喫茶店で使うような注ぎ口が細くて長いヤカンだ。紙袋に入れて持参していたのだろう。
「そのヤカン」
人間プルートに手で制される。つぎに指を口にあてて、黙っていろということらしい。
またヤカンからお湯をたらす。
「三十秒かぞえてたんです。話そうとするとどこまでかぞえたかわからなくなっちゃうんで」
そうであったか。たしかにそういうことはある。
「ヤカンはうちで使ってるやつです。邪魔でなかったら置いていくので使ってください」
「でも、」
「ああ、引っ越しするんです。いらなくなるので捨てるつもりだったんです。お古で悪いんですけど」
これでおいしいコーヒーがいれられるなら、ヤカンなんて古くても関係ない。遠慮なくいただくことにしよう。
「ありがとうございます。遠慮なく」
うれしそうな笑顔になった。ヤカンを捨てるのがもったいないと思っていたのかな。
ちびちびとすこしお湯をたらしてはサーバに抽出液がたれるのを待つということを繰り返して二杯分のコーヒーがはいった。紙袋から自分のカップを出してきて、わたしのマグカップと両方にわけてコーヒーをいれてくれた。
「さっ、飲みましょうか」
さっきは一杯づつコーヒーを抽出するっていってなかった?二杯はいっているんだけれど。
人間プルートは二つのカップをリビングダイニングの床に置いて、オーディオに向かった。慣れた手つきで電源を入れてプレーヤで再生する。バンッ、バンッと二度一斉に音が鳴って演奏が始まる。さっさとカップのところにもどり、床にすわって落ち着く。わたしはただ人間プルートを見守っていた。いつも床にすわって音楽を聴いていることをなんで知っているのだろう。この部屋を見れば明らかということかな。こちらを見上げてくるから、となりにすわる。
「ベートーベン好きなんですか?」
「好きってほどでもないけど、たまにクラシック聴きたくなるんです」
「三番が好きってわけじゃないんですか?」
「え?これ、交響曲三番?」
「もしかして、シーディーいれっぱなしなんじゃないですか?」
なんでわかるんだろう。わたしってメンドクサガリっぽい顔してるのかな。
「そう。一枚聴きおわって、もっと聴きたいときだけいれかえるんです」
「本当に好きってわけじゃないんですね、三番だってわからないなんて」
「普通わかります?」
「奇数番はたいていわかりますよ。有名な曲ばかりじゃないですか。一番はマイナーだけど」
「そうなの?」
「はい。三番は有名な英雄です。英雄っていうのは、もとはナポレオンのことなんですけどね。同時代の人なんです、ベートーベンとナポレオン。あ、コーヒー飲んでください」
そうだった。おいしいコーヒーをいれてもらったんだった。わたしを満足させられるかな?床のカップを取り上げて口に運ぶ。
本当だ。おいしい。苦みがしっかりしていて、でもとげとげしくない苦みだ。酸味は感じない。後味は、濃いコーヒーの味が余韻としてのこっている感じ。すぐにもう一口飲みたくなる。
「おいしい」
もう一口。やっぱりおいしい。これがブラジルの味なのだ。わたしがいれたときはブラジルの味が出せていなかった。となりを見ると、満足げな顔でこちらを見つめていた。目が合って恥ずかしい思いをしてしまった。
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