第30話
平文くんは四月から会社勤めをはじめた。勉強が好きだから大学で研究をつづけるのかと思っていたけれど、ちがった。大学で研究をつづけるのはむづかしいそうだ。それでエンジニアになったのだけれど、二三年経験を積んだら海外の企業に転職したいという。日本の企業ではエンジニアの待遇が悪いからだ。
いまの平文くんの会社はわたしが勤める会社に近い。仕事帰りにコンサートに一緒に行くことができる。一緒に食事して帰ることもできる。わたしたちは確実に親しくなった。
「芽以さん」
「なあに?」
約束のロックコンサートのあと、食事もできるバーのようなところにはいった。都会はこういうお店があるからいい。照明が控えめで、テーブルにキャンドルがおいてある。ワインを一口含む。
ロックコンサートは、夢で見たよりうるさくて、迫力があって、興奮した。会場にいるみんなが、このバンドのことが好きなんだという一体感があった。観客も含めたメインコーラスの大合唱が胸にひびいて涙がでた。
「安藤のこと、まだ好きですか?」
「そうだね。思い出すと胸があたたかくなる」
平文くんはわたしに好意をもってくれている。あたりまえだ。そうでもなければ、コンサートや食事に誘ったりしない。わたしだって、平文くんのことを好きだからそうしている。だから、安藤くんのこともごまかすわけにはいかない。
「おれも、安藤のことが好きです。芽以さんが安藤のこと好きだっていっても、嫌な気もちはしないんです」
「心が広いんだね」
「芽以さんのことが好きです。芽以さんは迷惑だと思いますか?」
「なにそれ。迷惑か聞く告白なんて存在しちゃいけないんだよ」
「すみません」
「平文くんは真面目すぎるね。そこがいいところでもあるんだけど」
わたし以上に異性に不慣れな平文くんを相手していると、なんだかとっても冷静になれてしまって、お姉さんぶることができる。しかも、安藤くんから聞いて、一目惚れされていたことを知っている。お姉さんは主導権をがっちり握っているのだ。
「わたしも平文くんのことが好き」
安藤くんには言えなかった。サトミちゃんに感謝しないといけないかな。
「キスしてもいいですか」
「ダメ」
落胆している。
「わたし、こんなところでキスするような大胆な女じゃないの」
「じゃあ、キスしてもいい場所ならキスしていいんですか」
「キスしてもいい場所か。どこがいいと思う?ロマンチックなのがいいな」
「夕日が見える観覧車が一番上にきたところ」
「高校生みたいだね」
「大人というと、高級ホテルの部屋ですか」
「エッチな感じ」
「砂漠で、降ってきそうなくらいの満天の星空を見上げながら」
「砂漠ってお風呂入れないでしょ、実際に行くのは嫌だな」
「プラネタリウム」
「まわりに人いるでしょ。子供いたりしたら教育上どうなのって感じ」
「ライフライン」
「なにそれ?」
「芽以さんのお友達の小説書く人にアイデアを出してもらうんです」
「ボツ。自分で考えないとダメ」
「厳しい。じゃあ、結婚式」
「結婚式までキスしないの?しかもプロポーズなの?ファイナルアンサー?」
「え、ちょっと待ってください。答えは一度だけなんですか?失敗したらもうチャンスはなしですか?」
「ヒント、こんなプロポーズの言葉で満足する女がいると思う?」
「やめます」
「ファイナルアンサー?」
「もう、その顔やめてください。また、あらためて挑みます」
「はい、じゃあ今までの得点」
イスから腰をあげ、テーブルに手をつく。ほっぺをくっつけるようにして挨拶みたいなキスをした。うひゃー、やってしまった。はずかしい。あんなので価値あったかな。自分のキスを貴重なものと思い込みすぎたかもしれない。でも、平文くんには効果あったみたい。頬がゆるんでいる。
ロマンチックなキスの場所について話し合いながら、電車に乗って帰った。
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