第12話
「それで、急にどうしたの?」
「ラーメンです」
「ラーメン?あ、そうか。ラーメン食べに行こうっていってたんだっけ」
「忘れてましたね。ひどい」
「いや、昨日の今日ですぐだったから。もう少し先かと思ってた」
「昨日じゃなくて一昨日ですけど、サプライズですね」
「けっこう待ったんじゃない?」
「そうですね。仕事の終わりの時間聞いてなかったから、適当にきてソファで本読んでました」
「いつもはもっと帰り遅いんだけどね」
「おれ、本があれば待つの平気なんです」
「そう。本て?」
安藤くんは床に置いたバッグをあさって分厚い本をとりだした。
「なにこれ。量子論?」
「はい。量子力学の話で、検証のためにいろんなアイデアを駆使して実験してきた、その実験方法を詳しく解説してるんです。量子力学って、いままでのほかの理論とちがいすぎて、意味わからない現象がいっぱいある。それを理解しようとして」
「ごめん、わたし文系。くわしい話はいいから」
「そうですか?文系の人にとっては、お茶を飲みながら気軽に話す内容ではないかもしれないけど、おれたちはいつも」
「はい、本はしまって」
うらめしそうにしぶしぶ本をバッグにしまった。コーヒーを飲む。コーヒーチェーンにしてはマシなほうだけれど、安藤くんのコーヒーの方が段違いにおいしかった。安藤くんのコーヒー飲みたいななんていったら、誘っていることになるよね、やめておこう。
「ラーメンはどこまで行って食べるの?」
「地元です」
「なんだ。じゃあ、わざわざ会社にこなくてもよかったじゃない」
「いろいろ考えた末に、地元になったんです。改札から出てくる大勢の人から芽以さん探すの大変だし。いつ帰ってくるのかわからないし」
「そうでした。わざわざありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます」
「なにが?」
「腕を組んだときに胸が」
コーヒーをあやうく吹き出しそうになった。どうにか一歩手前で踏みとどまり、むせるだけで済んだ。
「大丈夫ですか?」
「ヘンなこというからでしょう?」
「人生最良の日になりました。それに、スーツ姿もちょいエロで最高です」
いや、サムアップとかいらないから。
「スーツってエロいの?」
「当然です。想像してください。社長秘書。スーツですよ。白いてろんてろんのブラウスですかね。ボタンはふたつくらい外して、胸元に細いネックレス。短いタイトスカートから伸びる足は黒いストッキングですね。スカートのサイドはスリットが。パンプスをはいて歩く後姿は、エロいですね」
その秘書、わたしとまったく関係ないんだけれど。きっと月に行けば会えるんだろう。
「そんな白い目で見ないでください。男なら誰しももっている願望なんですから」
「ふーん」
「そのインナーも、襟ぐりが広くあいてて谷間が」
首をのばす安藤くんの足を蹴ってやった。ジャケットをかきあわせる。男性は目線が高いから、襟の開いた服は予期しない効果をもたらすのかもしれない。小顔効果があるなんて言葉にのせられて、できるだけデコルテを見せるようにって思っていたけれど、女性ばかりの職場ではないのだから別のことも考えなくてはいけないのだ。
「それに、ニット素材のおかげでアンダーバストが締まっていて、胸が強調」
もう一度足を蹴った。今度はスネに直撃した手ごたえ。痛っといって、スネをさすっている。そうか。スーツなら何も考えずに着るものが決まっていいと思っていたけれど、男性の目を意識すると、クルーネックのインナーにした方がいいとか、パンツスーツにしようとか、考えるべきことがあるのだ。
「とにかく、芽以さんに会えて幸せです」
うれしくない。
「安藤くんは、その髪そろそろ切ったら?」
「定期的に切ってますよ。もちろん」
「定期的ってどれくらい?」
「えーと半年に一度か、すくなくとも年に一度は」
それを定期的というかどうか。
「理系の男の人って、みんなそんな感じ?」
「もちろんいろんな人がいますよ。でも、何年も切らずにうしろで縛ってる人は、文系にはいないかもしれませんね。伸びる速さと抜けるタイミングで、あるところまでしか伸びないって話ですよ。平衡状態ですね」
いるわけない、そんな人。みんなこざっぱりしている。
いつもの帰りの手順に従って最寄り駅まで帰ってきた。ラーメン屋は、わたしの帰り道の商店街の中にあった。平日は毎日前を通る。
「毎日前を通ってるんだけど」
「覚えやすくていいですね」
「安藤くんが思ってるより、もうすこし記憶力いいけどね」
「まあまあ。おれはここのラーメン好きなんです。味噌ラーメンがおすすめですよ。札幌風」
手動のドアを開けてはいってゆく。店は、長いカウンター。客のスペースは、すわった客の後ろをどうにか通り抜けられるかなというくらいしかない。店自体が奥に長い。一番奥のカウンターがきれたところにひとつだけテーブル席がある。食券を買って、カウンターの席に着く。ふたりとも味噌ラーメンにした。
調理場は、カウンターのすぐ向こう、やっぱりせまく店の奥に向かって細長い。店員どうしですれ違うのも大変な感じだ。ラーメンをつくっているところが丸見え。よくいえばオープンキッチンともいえる。麺の湯切りをはじめて目の前で見た。テレビでやるように本当に湯を切るんだなと感心した。ショルダーバッグからゴムを出して髪をうしろでくくる。準備万端だ。
カウンター越しに目の前にやってきたドンブリは、モヤシが山盛りだった。その下から麺をつまみ出して、ふーふーと冷まして食べる。生ビールは一口目が最高にうまいのと同じだ。茹でたての麺が透きとおっていて、食感がすごくいい。時間がたつと、これが白っぽく濁ってきて、すこしぼそっとした食感になってしまうのだ。とにかく時間との戦いだ。
ふたりとも無言でラーメンに集中している。やわらかいチャーシューをかじり、れんげの役割をこなす木の匙みたいのでドンブリの底をさらう。女のわたしには量が多かったけれど、どうにか食べ切ってしまった。お腹が苦しい。
安藤くんは先に食べ終わっていた。ティッシュで顔をふいている。わたしにもティッシュの箱を差し出してくる。軽く汗を押さえた。
「女性には量多かったですよね」
「でも、おいしいから食べちゃった」
「気持ちいい食べっぷりでした」
「おしとやかじゃなかった?」
「そんなものはドブに捨てちまえです」
おしとやかは大切だと思うけれど。
「ラーメンを前にしてスープばっかり飲んでるのとか、麺をかきまわしてるだけでちっとも食わないのとか、張っ倒したくなりますよね」
「おいしいうちに食べないとね」
「まったくです。あの、連絡先教えてもらえますか」
唐突だな。もしかして、いいだせなくてタイミングを見計らっていたのかな。そんな不器用な人とは思えないけれど。スマホを出してプロフィール画面にする。安藤くんがアドレスを入力してメールをくれた。電話番号とメールアドレスをわたしも登録した。
「芽以さん」
「はい?」
「ソファ、必要じゃないですか?」
また唐突だな。ソファ。ほしいとは思っている。けれど。ソファにすわってマグカップを床に置くというのはいただけない。ということは、テーブルも一緒にほしい。ソファと、それにあったテーブル。むづかしい。この難問を解くことができずに何年も先送りしてきたのだ。ソファが決まれば、すわったときの目線や耳の高さが決まり、スピーカとテレビだって台を買ってのせることができる。ソファという難問が、閑散としたリビングダイニングの元凶なのだ。
「ソファね」
わたしの答えは気の抜けたものにならざるをえない。
「なにか問題が?」
「ソファにはテーブルもセットでしょう?気に入ったソファを探すのも大変なのに、それにあったテーブルも探すとなると、すっごい大仕事なんだよ」
「食事は?どうしてるんです?」
「リビングダイニングのとなりが寝室兼書斎のつもりで、机に椅子で、ディスプレイに向かって食べてる」
「芽以さんに似合わないですよ」
わたしに似合うのってどんなだろう。自分ではわからない。わびしい感じが似合っているとも思うのだけれど。
「卒業研究の実験が、今週でひと段落するんです」
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