第2話 葛藤
***
「お疲れ様でしたー」
美術室の扉を閉め、玄関を通って帰路につく。辺りはすっかり夕暮れで、校舎を背にして長い影が伸びている。そんな中、俺はのそのそと一人通学路を歩く。
「はぁ」
柄にもなくため息なんてついてしまう。結局今日は学校中が叶戸先生の話題で浮ついていて、その話を耳にするたびに色々考えてしまった。おかげで授業は集中できないし、所属してる美術部のコンクール作品制作もままならない。思わずため息もつきたくなる。
今朝のことを思い出す。
クラスでの自己紹介の時。
『……何か聞きたいことありますか? ……何でも、答えます』
何でも、と言う言葉に反応してしまったが、本当はあの時、ちゃんと聞いてみたかった。
先生は、なーちゃんなんですか?
もしそうなら、……なんで。
……なんで俺との約束、守ってくれなかったんですか。
「……」
胸がチクリと痛んで、俺は思考をあきらめる。第一あの全クラスメイトを前にして、急にそんなこと聞けるわけがない。聞けるわけがないのに、後悔しているなんて女々しいにもほどがある。
俺は両手で自分の頬をピシャリと叩く。
……ダメだ。このままじゃ本当にダメになる。
まだ本人かどうかもわからないのに勝手に期待して、昔のことばっか思い出して、生産性が一切ないまま時間ばかり浪費して。
来ない返事を待って毎日ポストを確認してたあの頃と、これじゃ何も変わらない。
俺は変わったはずだ。踏み出したはずだ。
だから、仮に叶戸先生がそうだったとしても、俺は何も変わらない。聞いたところで困られるのがオチだし、幼稚な幻想を相手に押し付けずに、ちゃんと相手の立場に立ってものを考える。あの頃と同じ間違いは犯さない。
だから、俺は叶戸先生とは関わらない。
それが、一番いい。
よし。
これでもう悩まなくていい。
気持ちを強引に換気して、少し大股に歩き出す。
しばらく歩いて、いつも通り過ぎる大きな公園に差し掛かった。
「あ」
スーツ姿が目に入り、思わず声が出た。相手もそのことに気がついたようだが、振り返るより先に物陰に隠れる。
……か、叶戸先生……ッ!
不思議そうに首を傾げる叶戸先生。どうやら俺の姿は向こうには気付かれなかったようだ。俺はほっと安堵のため息をつく。
いやはや、しかし。
何つータイミングだよ……。
まさか今会いたくないランキング断トツ一位の人と、こうして鉢合わせるなんて思わなかった。さっきまでの清々しい気持ちが一気に吹っ飛ぶ。
叶戸先生は昼間と同じスーツを少し気崩していた。シャツの襟元が少し開いていて、どことない色気を纏っている。腰くらいの高さのスーツケースを片手で引き、スマホを眺めているだけなのに、なんでだろう。美少女がやるとそれだけで絵になる。
……なに見惚れてるんだ、さっきまでの意気はどこにいった。しっかりしろ。
正気になれ、と俺は自分に言い聞かせる。こんなところで呆けていてはさっきまでの葛藤が全部無駄になる。関わらない関わらない。俺は叶戸先生とは関わらない。よし。
俺は頭を左右にブンブン振って、気を持ち直す。そのままそっと立ち去ろうと踵をかえし……、
「……………………はぁ」
後ろ斜めから、小さなため息が漏れ、その声に耳が反応した。抗えずに振り返ると、なにやら叶戸先生の様子がおかしい。昼間のような元気はそこにはなく、浮かない表情をして宙を見つめている。
……もしかして、困っている?
何か、手伝えること……、
そこまで考えた俺は、自分の顔を思い切りぶん殴る。
――いやいやホント何言ってる! 関わらないんだってば、立ち去るんだってば! 確かに困ってる感あるけど、ここは長い目でみてお互いのため心を鬼にし……、
「……どう、しよう……」
心を、鬼に……、
「……うう…………」
……。
『叶戸先生!』と叫びたくなる気持ちを、俺は歯を食いしばって堪えた。堪えきれた。めちゃめちゃ困ってるように聞こえるが、俺には力になれない。そういう関係なのだ。俺たちは。だからいいんだ。俺は、俺は、……帰る。帰ります。帰りましょうっ!
先生に背を向けて一歩踏み出す。すると今までのグズグズが嘘のように次々と足が進み、ほっと息をつく。
大丈夫。俺も昔とは違う。叶戸先生も俺なんかよりずっと大人だから、自分でなんとかできるはず。気付いたのは俺だけなんて、思い上がりもいいところだ。
気が付くと早足になっていた。まるで逃げているみたいに。
……気のせい。思い込み。自己責任。
いろんな言葉が頭に浮かんでは消える。
……でも。
どんなに打ち消しても、消えない。
さっきの叶戸先生の声色が、少し震えていたこと。
横顔から覗く目元が、昼間より濡れていたこと。
そして何よりも、
――あんな顔してる人を一人、残してきたことへの罪悪感。
その時。
ポタ、と何かが落ちてきて、頬を濡らす。雨だ。
一滴、二滴、と、その感触はあっという間に広がり、俺の制服を濡らしていく。否応なくさっき見たスーツが浮かんだ。
「……ああもうっ!」
俺は耐え切れなくなった。
ひたすら強まる雨の中、元来た道をダッシュで戻る。
水たまりがしぶきを上げ、スニーカーが濡れる。しかしそんなのお構いなしにさっきの公園に戻り、
「……叶戸先生っ!」
呼びかけると、弾かれたように彼女が顔を上げる。頭上に掲げたファイルで雨をしのいでいた彼女の目が驚きに見開く。
「……あのッ、もしかして、困ってますッ?」
そう言った瞬間。
叶戸先生の目がみるみるうちに潤んだ。大きな瞳に涙がいっぱい溜まる。堪えるような小さな口。その顔が驚くほど急に俺に近づいて。
伸ばした両腕が俺の首元にまわされ、その手には力がこもる。
ぎゅー、と音でもしそうなくらいに。
俺は彼女に、思いきり抱きつかれていた。
「へっ、ちょ……えっ!?」
突然のことでパニックになる。
未だ降り続けている雨が俺の、叶戸先生の肌を濡らし、しずくがぽたぽた垂れる。先生の綺麗な髪も雨に濡れ、微かに香水みたいな香りがした。すぐ隣にある頭の質量と、肌の温もりと感触がじわじわと知覚されてきて、自分の顔が真っ赤に上気するのがわかる。
そんな俺の様子なんて一切見ずに、俺の耳元、息が感じられるほど近くで、先生――叶戸花凪は確かに言った。
「……ひな……くん……ッ」
それは、十年という長い月日の中で、決して忘れられなかった懐かしい響き。
四つ上の幼馴染、なーちゃんの声だった。
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