第46話 カウント
***
『……私、好きな人がいるの――』
もしも。
あの日の前にその言葉を聞いていたら、どう答えていたんだろう。
きっと何も気付かず、考えないままに『え、マジ!? 誰、誰?』とか聞いていたかもしれない。
……でも。
そんな無神経な反応、今の俺にはできるわけがない。
頭によぎるのは、あの時の接触。
稲妻のように一瞬の出来事。
あのキスの前と後とでは、その言葉の意味するところが全然違うからだ。
「……」
何も答えられない。
なんて答えればいいか、それ以前に俺が、なんて答えたいと思っているのか。
全然、まとまらない。
だから、俺は何も、すぐに答えることができなくて。
そんな俺の様子を窺った平沢は、
「……ありがとう」
「……へ?」
急なお礼の意味がわからず、戸惑う俺に平沢は、
「今さら『誰?』なんて聞かれたら、もう一度、あの時と同じことしようと思ってたから」
「はぁっ!?」
「……さすがに人前だし、恥ずかしいし、花倉が覚えてくれてて良かったわ……」
少しいたずらっぽく平沢が言う。
頬を赤らめながら言う彼女に、つられた俺は思わず視線を外し。
「……そんなの……忘れるとか、できるわけ」
「……」
一瞬の静寂。
次の瞬間、息継ぎをするように息をした平沢が、
「……あのさ」
珍しく緊張でもしているかのように、声の輪郭を震わせて。
「花倉には、いる? ……好きな人」
それは、質問というよりは、確認のように思えた。
あの日、彼女からのキスの後、その理由を問うことも、気にかけることもせず。考えるよりも前に俺がした行動こそが、もうその質問の答えそのもの、みたいだったから。
だから、今さら隠したり、取り繕ったりする必要はなく、
「……いる」
「……どのくらい、好き?」
「え?」
思わず聞き返すと、目が合う。
平沢の茶色い瞳が、小刻みに揺れて、
「……花倉は、どのくらい……その人のことが、好き?」
思いもよらなかった質問に、脳の処理がついていかない。
叶戸先生とは、なんだかんだ長い付き合いだけど、改めて自覚したのが最近だということも加味すると……、
「え、えと……、考えたこと、なかったけど、たぶんわりと……」
「花倉」
言い淀む俺の言葉を、平沢が遮る。
その感覚には、強烈な既視感があって。
圧倒的なくらい、それだけでは、言葉足らずだった。
……言い淀む俺の言葉を、平沢の唇が遮っていた、物理的に。
息をのむ間も与えないまま、静かに俺を離れた平沢が、
「……私、花倉のことが好き」
長いまつ毛を下向きにして、瞳を隠す。
その先に見える袖口では、華奢な白い指がぎゅっと握られて、震えていた。
「……好き。あのスケッチブックを見つけた時から、ずっと。毎分、毎秒、少しでも側にいてあげたくて、ずっと離れがたくて、たまらなかった。私、これからも側にいたい。……花倉の、側にいたい……っ」
俯いていた平沢が、少しずつ確認するように視線を上げる。
「……ねぇ、花倉」
「……花倉のその『好き』、……私の『好き』より、強いかな?」
「え……?」
「どっちの『好き』が強いか、試してみない?」
平沢の手が、俺に向けて伸ばされる。
俺は二度にわたってお見舞いされた、不意打ちキスの記憶から、思わず身体を硬直させるが、
「……っ」
彼女の指先が微かに触れただけで、しかし、ずっと握ったままだった、新幹線のチケットが奪われたことに気付き、
「……これから、十、数えるわ」
平沢の口から出る言葉に、
「十数え終わってもまだ、チケットがこのままなら……」
どくん、と音を立てて、
「……私が、ここで、破るから」
心臓が鼓動する。
「破って、そして…、花倉は花凪先生を追いかけない。そのまま全部忘れて、無かったことにして、私と一緒に学校に戻るの。……きっと学校祭のことは、色んな人に迷惑かけるし、怒られるかもしれない。……でもその時は、私も一緒に謝ってあげるから。……だから」
瞳が揺れる。
その中の大きな光の粒も、つられて揺れて。
「……追いかけないで。私でよかったら、ずっと花倉の側にいるから。うるさいくらいずっと、花凪先生のことなんか、一ミリも思い出せないくらいに。私が、私が花倉の毎日を一杯にするから。……だか、ら」
駅前の雑踏が、聞こえないほど。
平沢の懸命な声が、俺の耳奥に大きく響く。
「……私を、好きになって」
「……っ」
胸の奥が否応なく、きゅっと締まるのを感じる。
普段明瞭で快活な平沢が、美術部のエースで自信に満ちた彼女が、今はいたいけな少女のような声で。
彼女の発した言葉が、俺の心を揺れ動かす。
……そんなに、想っていてくれたんだ。
純粋な感想を述べれば、嬉しい、いや、嬉しいなんてものじゃなく、正直軽く感動してもいた。平沢が、彼女が俺にもたらしてくれたものが、次々に思い浮かんで、自分が知ってる彼女の尊敬できるところが、山ほど思い浮かんでくる。
……本当に、恐れ多いくらい魅力的な提案だと思う。
けど、俺は……。
「じゃあ、始めるわ」
「え、……いや、ちょっと待っ」
「十」
抗議の甲斐なく、躊躇なく開始されるカウント。
全身から汗が噴き出すように、強引に入れられる頭のトップギア。
「九」
本当は答えなんて、決まっていたはずだった。……でも、わからなくなった。
「八」
『大丈夫だよ』って言わせて、実習を放棄させてしまった張本人の俺が、どの面下げて、叶戸先生を連れ戻せばいいのか。また迷惑かけて、困らせて。お互いに苦しいだけだ。ただ、傷を増やすだけだ。
「七」
それなら、このまま平沢を選んで、彼女を好きになる努力をした方がいいのかもしれない。その方が誰も傷つけないし、みんなが幸せになれるのかもしれない。
「六」
……平沢を、選べ。
このまま、じっとしてチケットが破れる様を、ただ、見つめて。
明確で明瞭で、理に適う選択だと、他の人の立場に立てる理想の俺が、言う。
「五」
……でも。
脳裏に浮かんでは、止まらないのだ。
「四」
緊張して取り繕った顔。
気が抜けた時の、何気ないしぐさ。
焦って真っ赤になった時は、大人げない表情をして。
そのくせ母親みたいに優しい瞳で、声で、俺の側にいてくれた存在。
この数週間の叶戸先生が溢れ出して、止まらない……堪らない。
「三」
……なんでこんなに苦しいのか、張り裂けそうなのか。
……叶戸先生の意思を尊重して、平沢の想いを受け入れて。相手の立場に立って、ちゃんと気持ちを考えているのに。
その時、フラッシュバックのように、ある言葉が脳裏に蘇る。
「二」
『……極論は楽だぞ、花倉。でも、楽な分、誰かを傷つける。それに目を瞑るから楽なんだ。その痛みは気付かないだけで蓄積して、結局は自分を傷つける』
「一」
『足掻くほど遠ざかり、手探りで探すほど輪郭を失う。……誰にとっても正しくなんかないが、それでも結局自分を傷つけるよりそれで……』
「ゼ……」
「――――ッ」
気が付くと、手を伸ばしていた。
捻るように立てた平沢の指をギュッと握りしめ、その先の行動を制止する。
平沢は「……そう」とだけ呟いて、指先を脱力させ、
「……それが、花倉の答え?」
少しだけ悲しそうな顔で、でも、笑う。
それはまるで、こうなることをわかっていたみたいな表情で。
カウント終了寸前で気が付いた、ある一つの可能性が、再び俺の心に浮かぶ。
……そしてそれを、どうしても俺は、許容できない。
「……違う」
「え?」
絞り出すような俺の声に、平沢が意表を突かれたような表情をする。
そんな平沢へ、俺は顔を上げて、
「俺のじゃない。……間違ってる。だって……これは」
「……平沢の答え、でしょ?」
「……!」
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