第51話 タワマン
***
「到着っと。……わが家へようこそ、しょうねん」
その建物は、いわゆるタワマンというやつだった。
俺は開いた口が塞がらぬまま、思わず見上げてしまう。本当にこんなところに住んでいるのかと半信半疑でいると、目の前で自動ドアのロックが開く。ギャル姿の女性の背中が遠ざかっていくのを見て、慌てて後を追い、エレベーターに乗り込む。
「……えと、おじゃま、します」
広い玄関。
壁一面に広がるクローゼットの扉。
続く廊下を進むと、より広大な空間の中にオットマン付きのソファが鎮座していて、テーブルも些細な小物入れも、どれもシンプルだけど品質の良さがにじみ出ている。
目の前の人物が、改めて非常に裕福な人間であることを認識させられ、俺はまじまじと御厨さんのことを眺め……、
「……って、ちょっと! なんで急に服脱いでるんですか!?」
「え、だってほら、帰宅後のシャワーはあーしのルーティンだし」
「だからって、俺の前で脱がないでください! さっきのお願い、もう忘れたんですか!?」
背を向けてわめくと、急に肩越しに柔らかな感触がして、
「まー、そう焦るな、しょうねん。服を着るためには、脱がなきゃいけないじゃん? せっかくテイクアウトしてきたんだから、律儀にしょうねんのリクエストに応えようと、一肌脱いでるっていうのに」
後ろから肩を組まれ、そんなことを囁かれる。
「か、からかわないでください!」
回された腕を振り払い俺が抗議の声を上げると、
「……いーや、遊んでるつもりはねーよ。……ただ、ちょっと試してみたくなっただけ」
「え?」
……どういう意味だ?
思わず振り返る俺に、
「!」
顔に何かが被さり、次の瞬間には、それが今まで御厨さんが来ていた服であることを知覚する。
「ちょっ!?」
「じゃー、あーし、シャワー行ってくるから。……覗くなよ?」
「覗きません!」
御厨さんはけらけら笑ってから、
「……だろうねー。まー、でもどうしてもムラムラしたら、そこの扉開けてみ? ベッドの下に、しょうねんの大好きなのが、隠してあるから」
「なっ、そんなの要りません!」
「まーまー、そう言うなし。どっちにしろ、今日はそのベッドで寝てもらうつもりだから、自由に出入りしてよし。……あ、言っとくけどあーしの普段使うベッドとは別のものだから、いくら匂いとか嗅いでも意味な……」
「いいからもう、はやくシャワー入ってください!」
バタン、と脱衣場の扉が閉まり、俺は見知らぬ部屋に一人残される。
はー、と大きくため息をつく。
……あの人、もう完全に俺をオモチャだと思ってるな。
遠くから、微かにボイラーの音がする。同時に脳がシャワーを浴びる御厨さんを想像して、俺は思わず頭を振って妄想を振り払う。
……なんか、こんなこと、前もあったな。
あれは、初めて叶戸先生が、家にやってきた時。
あの時も今みたいに、些細な音に、振動にドキドキして、そわそわして。
自分の部屋に急に表れた、幼なじみが立派な女性になっていた事実に、頭がいっぱいになっていた。
……まだ、たった数週間しかたっていないのに、もうずっと昔のことみたいだ。
そんなことを止めどなく考えていると、先ほど御厨さんが示した部屋の扉が、完全に閉まりきっていないことに気付いた。中の電気が点けっぱなしなのか、そのわずかな隙間から光が漏れている。
……使っていないなら、消さないと。
しみ込んだ貧乏根性が、ほぼオートマチックに身体を動かす。動かしてから、自分が勝手に部屋に立ち入ろうとしていることに躊躇するが、先ほど『自由に出入りしていい』と家主に言われたし、……何よりもったいないし。
そう自分に言い聞かせ、俺は開きかかかったドアに手をかける。
そこは、十畳ほどのフローリングの上に、ベッドやタンス、机が並んだ空間だった。空き部屋にしては、妙に生活感があり、しかも薄橙のシーツやストライプのカーテンの柄から想像するに、どう考えても女性の部屋というイメージだ。
……もしかして、ルームメイトでもいるのかな。
だとしたら、めちゃくちゃ気まずいし、究極に居心地が悪い。今すぐにでも部屋を出たい衝動にかられても、おかしくない。
……でも。
どこか、妙なのだ。
女子の部屋なんて、童貞の俺にはただただ緊張の対象でしかない。
なのにその部屋には、どことなく既視感があるというか、不思議と落ち着きすら感じる。理由は全くわからないが、先ほどのリビングよりもむしろずっと居心地がいいくらいだ。
……なんでだろう。なんとなく庶民的だから?
曖昧な結論で自分を納得させようとするが、疑問は晴れないままだ。
そのまま立っているのも何なので、とりあえず俺はベッドに腰を掛けることにする。
鈍く沈み込む布団の音と、肌触りのいいシーツの感触に思わず深く息を吐く。そのまま目線だけで周囲を見回していると、
「あ」
部屋のコンセントに、スマホの充電器が付いているのに気付き、俺はすぐさまケーブルを接続する。完全に充電が切れた時特有のブランクがあるため、すぐに電源を入れるのは待たなくてはいけない。とはいえ、これでなんとか目的地を見失わずに済みそうだ。
俺は安堵の息を漏らし、少しだけ身体を脱力させる。
そんな、ちょっとした隙間の時間。
その隙間に、まるで悪魔が囁くかのように、俺の脳裏に蘇る言葉。
『ベッドの下に、しょうねんの大好きなのが、隠してあるから』
……。
正直、ああは言ったものの俺も男子。もちろん興味がないわけではない。
というか、正直な内心を述べると、割と見たい。
だって叶戸先生と同居してからというもの、嫌われるのが怖いからと、なるべくそういうことは考えないように、孤独な闘いを続けてきた背景もある。
どう考えても童貞を弄ぶ御厨さんの思うつぼだと、自分でもわかっているのだけど。
……なんというか、一応確認だけでも。
そう思って俺は、床に伏せるようにしてベッドの下を覗く。
幸か不幸か、そこにはなにやら本のようなものが一冊置かれていて。変な緊張感と好奇心に包まれながら、俺はそれを取り出した。
本だと思っていたものは、A四サイズのファイルブックのようだった。半透明になった表紙の奥には、何やら制服姿の女子の写真がうっすらと透けて見え、
……と、生写真……? ……って、え、これ、大丈夫!?
盗撮したものとかだったら、どうしよう。
急に我に返って不安になる俺は、それでも好奇心からページをめくる手を止めることはできず……。
「――――」
そこで、言葉を失う。
その写真は、盗撮されたものでもなければ、俺が期待したような卑猥な感情を掻き立てる要素は、どこにもない。
ただ、白衣を着た御厨さんと、多くの看護師に囲まれた制服姿の少女が、ぎこちなく笑っている。その両手には大きな花束が抱えられていて、その下にはサインペンと思われる殴り書きで、
『退院、おめでとう!』
……。
どういうことだか、わからない。
その背景が、夕方訪れた病院だということも。
写真の隅にある日付が、今から四年前だということも。
そして何より、その制服姿の少女はどう見ても、……俺の年上幼なじみと瓜二つだということも。
その時、スマホが振動して、充電が回復したことが告げられる。
思わず目をやると、開きっぱなしになっていたメッセージが表示されている。おもむろにそこに書かれた住所をタッチすると、自動的に地図アプリが起動し……、
「……な、んで?」
思わず、声が出た。
地図アプリが示した、叶戸先生の住所。
その印と、今俺がいる場所を示す印が、完全に重なっていた。
「……言ったろ? しょうねんの大好きなの、って」
いつの間にか開いていた扉から、御厨さんの声がした。
目を向けると、優雅なバスローブ姿の女性が、扉の枠にもたれるようにして腕を組んでいた。
「……どういう、ことですか?」
困惑のあまり尋ねると、御厨さんが前に進み出て、
「じゃあ改めて、自己紹介させてもらおっかな。…………御厨マリア。職業は、私立病院勤務の若手医師。専門は血液内科で、家族が医者ばっかりのボンボン。同居人が一人いて、そいつの同居人兼、保護者兼、スポンサー兼親友をやってる」
「――同居人の名は、かつては柴崎花凪。……今は、叶戸花凪」
事実が受け入れられず、眉も動かせない俺に、なぜか少しだけ寂しそうに御厨さんが笑う。
「よく来たね、花倉ひなたくん。……アンタのこと、待ってたよ、ずっと」
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