第53話 過去

 ***





 言葉を失うとは、こういうことを言うのだと思う。



 白血病。


 そう御厨さんは言った。


 自分の人生で何度かしか登場したことのない、その言葉。病気の名前。


 正直に告白すると、どんな意味か正確にはわかっていない。


 ただ、知っているのは、よく恋愛ドラマで、ヒロインがかかる不治の病だということくらいで。


 ……不治?


 ……じゃあ、叶戸先生は、



 ……なーちゃんは、死ん……、




「――あー、ほれ、ちょいそこやめ―、シリアスやめ―」



 驚きと感傷に飲まれかける俺の思考を、場違いなほどラフな調子で、御厨さんの言葉が遮った。

 


「……しょうねん、今、アンタ、白血病を、不治の病とか思ったろ?」


「……ち、違うんですか?」

「ちげーし、ばーか。ステレオタイプ過ぎんでしょ。言っとくけど、それ、ラブロマンスの見すぎだから」


 御厨さんが俺の瞳を横目で捉え、


「白血病ってさ、いわば血液のガンって言われてて、簡単に言うと、血を作る細胞がガン細胞化して、健康な血液の働きを邪魔する病気なんだわ。たしかに昔は、致死率百パーセントの病気で、それこそ、漫画に出てくるような『不治の病』だった。……でも」


 それからニヤリと笑って見せる。



「今は違う。……令和の白血病は、治せる病気だし。……そしてそのために、あーしみたいな医者がいるんだし」


 その視線には、バスローブ姿に似合わぬほどの熱量で、何かの決意が垣間見えて。俺はいくつもあった疑念を忘れてしまう。

 


「そう、なんですか?」

「ああ。特に小児性のものなら、八割九割に迫るくらい生存率が上がってる。確かに死に至るケースもねーわけじゃないけど、寛解……、用は治るケースの方がずっと多いって話」


「……そう、なんですか」


「言ったろ? 現にカナも、病気の寛解を診断されたのが今から四年前だよ。とっくに治ってるってか、今もずっと再発の兆候もなし。最近ピンピンしてるのは、しょうねんが一番近くで見てきたじゃんー?」


「……それは、たしかに」


「……だからさー、ちげーんだし。あーし別にしょうねんのこと、わざわざしんみりさせてやりたくて、他人のプライベートをペラペラしゃべってるわけじゃねーの。それよりかはさ……」


 彼女は遠くを見ていた。それは、どこか自分に言い聞かせているように感じる。


「わかってやってほしーの。……あのコが乗り越えてきたこと。耐えてきたこと。ツラいこといっぱいあったけど、全部ぶつかって消化不良起こしながらでも、前に進んできたこと。その片鱗を、その価値を、少しでもわかってやってほしーだけなのよ。……他でもない、しょうねん、……いや、『ひなくん』にはさ」


「あの」

 

「……何が、あったんですか?」


「……」



 御厨さんは、一瞬だけ困った顔をして、かと思うと、どこかすがるような視線で俺を見る。それから諦めるように再び笑みを作った。


「あーしが話したってバレたら、カナ、激おこだろうな……」


「あ、いや、それはその」

「や、いいのいいの。それはそれ。これはこれだ」


 そう言って御厨さんは、天を仰いだ。

 グレージュの後れ毛が半乾きのまま、ひとすじ垂れる。



「……あれは、今から九年前の春。あーしがまだ、研修医の時だった。ある一人の少女が、両親に連れられて、診察にやってきた。東京に転校してきてから、まだ中学に入学してまもないその子は、それからしばらくの間、検査入院のために学校を休むことになったんだ」



「最初は、すぐに退院できる予定だった。けど、一週間、二週間と退院の時間は伸び、気が付くと半年が経っていた。半年ぶりに登校した学校には、その少女、カナの居場所は、どこにも無くなっていた」


「……カナは、学校を休むようになった。それに比例するように病状が悪化して、次第に入院の期間も伸びていった。さすがに義務教育に支障がきたすからと、カナは院内学級に転校することになった。そんな時期だった。カナの両親が離婚して、父親が音信不通になったのは……」


「え……」


「正直、目も当てられなかった。ただでさえ、慣れない治療からくるストレスで苦しい時期なのに。あーしはそれまで、『患者とは一定の距離を保つ』ってのを信条にして、仕事をしてきた。関わりすぎると、色々とめんどくせーからね。親のレールに乗って、ただ医者になっただけのあーしには、やる気も覚悟も足りないのは重々承知だった。……でも、その時、初めて思ったんだよ、『あーしが、何とかしなきゃ』って」


「ま、でも実際話してみると、カナは面白いヤツだった。暇さえあれば院内中の絵を描いて、たまに一緒に病棟を抜け出してスケッチとかして、看護師長に怒られたこともあったっけ。……でも、カナが一番笑顔になるのは、……決まって『ひなくん』の話をする時だった」


「……えッ」


 急に登場した自分の名前に、俺は思わず声を上げる。

 聞き間違えかと、一瞬本気で自分の耳を疑うが、


「……ホント草だよ、カナ。『ひなくん』って言葉が病室に行き交う度に、途端に表情がほぐれて、笑ったり怒ったりするんだ。……ま、もちろんあーしを始め、ナースステーションのイジリの対象になったことは言うまでもないけど」


「……」


 それは、どういう反応だったんだろうか。俺が喜んでいいものなんだろうか。

 でも、たしか、それくらいだったはずだ。


 なーちゃんからの手紙が、途絶えたのは。



「……ただ、さすがに抗がん剤治療が始まってからは、いくらカナでも、日に日に笑顔が減っていった。多分、毎晩病室で、一人になっては泣いてたよ。あーしには、何もできなかった。あーしの言うどんな言葉も、カナに届かなくて、寄り添えなかった。……ただ」


 御厨さんの瞳が、俺を捉え、


「そんな中でも『ひなくん』の手紙だけは、別格だった。まるで魔法の呪文みたいに、カナに届くんだ。でも、病気の引け目からか、次第に返事をすることも億劫になっていって。気付くと、『ひなくん』の手紙は来なくなった。そのことにあーしは大人げなく、イラついてたことを覚えてるよ」


「……あの頃のあーしはもう、正直、何でもよかったんだ。ちょっと不愛想だけど温かかったカナの顔が、どんどん本物の無表情に変わってくのに、耐えられなくて。……だからあーし、当時小三、四だった『ひなくん』になんとか連絡を取ろうとした。……『ひなくん』なら、きっとカナを笑顔にできる、何なら連れてきてやろう、と。他の誰にできなくても、きっと『ひなくん』なら、って。……でも」


 懐かしむように、困ったように、御厨さんが微笑む。



「……それを本人に話した時さ、……あのコ、笑ったんだ」





『――ダメ』



『――ひなくん、お母さんが病気で死んで、悲しい思いいっぱいした。だから、わたしは、ひなくんの前では、病気になったらダメなの。……わたしは、』




『――生きなきゃ、だめなの。そしてもう一度、』




『――もう一度、ひなくんと一緒に、学校にいくの」





 ……。




「その時さ、あーし、生まれて初めて他人が羨ましいと思った。……結局、カナはツラい抗がん剤治療も、治療後の無菌室での生活も、全部一人で耐えきった。心労で母親が倒れ、そのまま心の病を患ってしまっても、副作用で容姿が変わっても、弱音なんてほとんど吐かずに。毎朝やってくる不安と戦って、ひたすら『ひなくん』に自分の病気を悟らせないように」


「……」


「そのあと病状は一旦回復に向かい、短期間の自宅療養が許されるようになった。もちろん、検査入院と検査入院の間だったけど。でも検査の結果、再入院することになって。それから数年の間、何度も入院して、投薬して、回復して、また悪化してを繰り返すことになった。……本当なら受験とか、高校デビューとか、部活の悩みとか、そういうことに費やす時間を、カナはずっと、病院での闘病に充てざるを得なくなった……」


「……」


「……高二の春に突破口になる移植手術を受けるころには、カナは本当に、擦り切れた心で自分の命と向き合っていた。幸い手術が功を奏して、病状は一挙に回復に向かった。術後の経過も良好で、約一年にわたる経過観察も、無事クリアした。この写真の頃、ようやく完全な退院を向かえた頃には、……カナはもう、高三になっていた」


「ちょ、ちょっと待ってください」



 息苦しさのようなものを堪えきれず、俺はまるで息継ぎをするかのように、言葉を発する。



「……ずっと、俺のために?」


「……うん」


「……俺との、約束を守るために?」


「そう」



 御厨さんの淀みない肯定が、その事実が。



「……俺がやる気なく学校生活を送ってた時も、くだらないことで青春を浪費してた時も?」


「うん」



『……そういうの、参加したこと……ないから』


 当たり前の日常を、どこかに落としてきてしまったという事実が。



「どうせ忘れられてるとか、相手に迷惑だとか、自分勝手にいろんなこと考えて、諦めようとしてた時も?」


「うん、……そうだよ」


「……っ」


 どうしようもなく俺を打ちのめし、



「……ずっと、」


「……ずっと、ひとりで? あの小学生みたいに、支えてくれる人もなく?」


「そうだね。……けどさ」



 そして同時に、

 どうしようもないほどに、




「『ひなくんが、悲しまないために、もう一度近しい人を、失わないように』」




「……どんなときも。カナは、しょうねんのためだけに、……生きようとしてたんだ」




 俺のことを、そっと優しく包み込む。



「……」



 病気になって、家族がバラバラになって。


 どんなに大変な時期にあっても、苦しいことがあっても。



『……キミ、いつも一人でいるよね?』



 ……ずっと、変わってなかった。



『約束』



 初めて声をかけてくれた、あの日から。


 小指を結び合わせた、あの日から。



 ……なーちゃんはずっと、どんなときも。



「…………ッ」




 ――俺の、年上幼なじみでいてくれたんだ。




「……そ、っ」


「そ、そんなのっ……!」



 言葉を続けようとして、失敗する。


 ぎりぎりまで堪えていた感情が溢れ出し、目頭が急に熱くなって視界が滲む。



「……、…、……っ」



 どうして、気付いてあげられなかったんだろう。


 あの時、俺が諦めたりしなければ、少なくとも孤独に闘病させることはなかった。


 ……それなのに。



「……隠してたんだ。わからなくて、当然っしょ?」


「……でも、俺ッ、おれッ………っ」


「あのコ自身が選んだんじゃん、……他でもない、しょうねんのために」



 御厨さんの穏やかな声が、耳朶を打つ。

 しかしそれは、迫る後悔に、ますます拍車をかけ、



「……俺、ずっとなーちゃんにもらってばっかで、どんなに小さいことでもいいからッ、何かを返せればいい、ってずっとッ、そう、おもってたのにッ……」



 これだけの時間を、それほどの大事な想いに気付くこともできず。


 のうのうと自分の人生を生きようとしていた俺が、人生をかけて想ってくれた彼女に、返せるものなどあるはずもない。


 ……もう、何をしても間に合わない。


 そう、思い始めた時だった。



「返してるよ、十分に」

  

 

「……え?」 



 視線が交わる。


 御厨さんが優しい目で、俺を見つめて。


「ほれ」


「?」



 ふいに、何かが投げてよこされる。


 その何かは俺の膝に当って床にゆっくりと落ちる。感触から考えると、相当軽いものであるようだが。


 目を凝らしてみると、それは一通の、古びた便せんだった。




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