第54話 動機

 ***





 日焼けした紙。

 硬筆で書かれたらしいその汚い字は、色が薄くなり、かろうじて読めるか読めないか程度だ。


 でも、その便せんを見た瞬間、俺は妙な既視感に襲われて。



「見覚えないか、『ひなくん』?」


「……え?」


 御厨さんの言葉に、俺は再び目を凝らす。


 限界まで薄れたその文字の、輪郭をたどるようにして内容を確かめ、


「あっ……」



 そこで、ようやく思い出した。



『嫌じゃなかったら、会いたいです。俺、なーちゃんと会って話がしたい。』




「そう。これは四年前、久しぶりに『ひなくん』から届いた、一通の手紙だよ」


「……これ、なんで?」



 ……とっくに捨てられた、と思っていたのに。



「……寛解して退院した時、カナはもう、ボロボロだった。長い闘病生活のせいで感情は希薄、何をするにも心がこもらない、抜け殻みたいな状態。まるで、生きてないみたいだった。……あんまりだよね、あんなに苦労して病気と闘ったのにさ」


「いくら『ひなくん』を悲しませないことには成功しても、ずっと音信不通になった状態では、自分からは何もできなかったし。……正直、あの時のカナには、生きる目的が無かった。長年の間、病気を治して『死なないこと』だけが目的になっていたあのコには、皮肉にもそれ以上の『生きる』理由ってヤツがなかったんだ」


「……で、さすがのあーしも見かねて、半ば強引にルームシェアを提案して、自分の部屋に居候させることにした。それで多少は明るくなったけど、無気力に生きてたね、ホント。……あーし、それがどうしても嫌でさ、金にものを言わせて、いろんなことに付き合わせてみたけど、結局どれもダメだった。……でも」



 御厨さんは、遠くを見ながら、どこか、悔しそうにしながら。



「……再び現れたんだ、『ひなくん』が」




『嫌じゃなかったら、会いたいです。俺、なーちゃんと会って話がしたい。』


『……』



『……………、マリちゃん、私、……大学に行きたい。……教職課程があるところ』




「……笑っちゃうよね。結局他のどんなことよりも、そこに書いてあるたった一文が、あのコに『生きる理由』を与えたなんて。……さんざん散財させた挙句これだから、もうたまんないわ、マジ草も生えないわー、なんて」



 少し自嘲気味に、御厨さんが言う。



「それからカナは、美大の予備校というか、画塾に入ることになった。毎日朝から晩まで、死ぬ思いをして絵を勉強した。他方では、同時進行で大検の勉強も進め、寝る間も惜しんで努力していた。それで……、」


「どっちも現役で合格しちゃうもんだから、大したもんだよな。……あーしの実家はクリスチャンなんだけどさ、神様って、いるんだと思ったよ。闘病を含めて、あれだけ頑張った人間が、運だったとしても、ちゃんと結果を出したんだからな」


 御厨さんの言葉に、蘇る。


 いつも夜遅くまで努力を重ねていた、叶戸先生の姿。


 どんなに過去がわからなくても、地道な頑張りの裏付けだけは、常に感じ取っていた。



「それからカナは、人生を取り戻すかのように、忙しく大学生活を送って、順調に教職課程を履修して、なんとか掴んだ僅かな情報を頼りに、しょうねんの学校へ実習生として行けることになったわけ」


「そこからのことは、きっと、しょうねんのほうがよく知ってるでしょ?」


「……え、……まぁ」



 へへ、と御厨さんが笑う。


 いつもの彼女とは見違えるほど、何の含みも打算もない笑みだった。



「……な? だから充分なんだって。しょうねんはもう、ちゃんとあのコにいろんなものを返せてるよ」


「……」



 そうだとしたら、嬉しい。


 でも。



「……ホント、そうですかね?」


「ああ、むしろ返しすぎてて、ムカつくくらいには」


「え」


 少し含みのある言い方に、俺はドキリとした。


 慌てて御厨さんの表情を確認すると、いつものからかい好きな、性格の悪いギャルの顔に戻っている。少しわざとらしいくらいだ。

 

 それは、御厨さんなりの気遣いなのかもしれない。きっと本人に聞いても、答えてはくれないだろうけど。



「……ありがとう、ございます」



 でも今だけは、大人しく、その気遣いに甘えることにする。


 御厨さんのこういうところは、素直に尊敬できると、心から思った。



「……少しは、わかってもらえた系? あのコのこと」



 御厨さんの改まった質問に、


「はい。……ただ」


「二つ、まだわからないことが」


「何よ? 言ってみ?」


「……その御厨さんはどうして」

「さん付けはやめろよ、あとマリアと呼べし、マリアと」


「えと、マリア……さん」

「キッモ! グーで殴るぞ、グーで!」


「ま、マリア先生は、どうして、あそこに?」


 聞いた瞬間、御厨さんは気まずそうな照れているような、どっちかわからない難しい顔をして、言い淀む。


「んー、それは、その……」


「……カナが『ひなくん』の学校に実習に行くとかさ、……たしかに応援する気持ちもあったけど。でもさ、過去の経験からずっと、あーしは『ひなくん』に負け越しなわけよ。だからちょい複雑。……自分でも最近まで気付かなかったけどさ、あーしはずっと、どこかで『ひなくん』に嫉妬してたのかも」


 御厨さんの言葉に、俺は驚く。


「だからあの時は、直前であーしが実習に反対した結果、カナとケンカ別れして、癪だからこの際、休みとって冷やかしに行ってやろーと。何なら邪魔とかしてやって。……とか、思ってたんだけどね……」


 そこでチラリと俺を見やり、


「でも初日からさっそく、アクシデントありつつも『ひなくん』の家に転がり込むとか、マジなんなの! もしかして『ひなくん』、ヤリチンか!?  ……って思って色々聞き耳立ててたら、普通にいいヤツじゃん、ってなって。かと思うと、暇さえあれば二人してイチャコラしやがって。もうやってられねーわ、ってなって……」


「べ、別にイチャコラしてません!」


 いわれのない主張に、俺は慌てて否定するも、


「で、バレないように周囲をウロウロしつつ、やるせなさにヤケ酒してたら、なんと『ひなくん』ご本人がナチュラルに声をかけてくるじゃん。しかも見知らぬ酔っ払いを心配して……『やっぱこいつ、いいヤツじゃん』ってなって……」


「え、俺だって気付いてたんですか」

「だってしょうねん、名乗ったやん」

「あ……」


「だから、仕方ないけど上手くいってくれと、途中からはマジで思ってた。でもさ、『ひなくん』はだんだん疲れてきて、無理すればするほど、想像上の『ひなくん』とは全然違う、どこにでもいる、ただの一人の片想い童貞で。……あーしにとってさ、『ひなくん』は虚像みたいなものだった。ある部分では、カナもそうかも。でも、その虚像と本物の『ひなくん』にはギャップがあって、本当にカナを任せていいのか、正直戸惑ってた。……でも、そんなある日、ついに、電話が来た」



 その声には少しだけ、後悔のようなものが混ざっていた。



「『ごめんなさい』『私が、間違ってた』……あのコ、電話越しに泣きながら、開口一番にそう言ったんだ。そして、『ひなくんを、助けて』とも。……それでもう、酔っ払い系ストーキングは、やめにしなきゃいけなかった」


「……覚えてないかもしれないけど、あーし実はあの日、部屋に上がったんだ。しょうねんを診察して、薬とか用意したり看病の方法を指示して。……で、その後、カナと東京に帰る手はずもさせてもらった。手際よくて、驚いただろ? しょうねんには悪かったけど、……でもそれが、他でもないカナの希望だったからな……」


 御厨さんが俺を見る。

 まるで許しを請うような目に見えた。


「……正直、しょうねんがここまでくるなんて、思ってもみなかった。『ひなくん』は今度こそ来ないって、勝手にどこかで諦めてた。……でも、しょうねんは来た。何の計画性も、確実性もなく。カナにとって虚像の『ひなくん』じゃなくて、情けない、単なる片想いのしょうねんがきた……しかも、なんか泣いてるし。卑怯だよね、さすがに。見過ごせるわけねーっつの」


「……」


「……正直、今の今でも迷ってる。『ひなくん』に、いや、……しょうねんに、この話をするのが、本当にカナのためになるのかって。ここまで話しといてなんだけど、こう見えて内心はカオス状態なんだ……」


「……でも、それでも」


 俺も、口を開く。 


「助けてくれた。……教えてくれた」



「俺はそのこと、感謝してます。……心底、聞けてよかった。そして、それを話してくれたのが、……マリア先生で、よかった」


「……え?」


 驚いたように、御厨さんが声を上げた。

 

「……なーちゃんの側に、俺がずっといられなかったのは、死ぬほどの後悔ですけど」


 俺は、笑ってみせる。

 少しだけ、さっきのお返しのつもりで。


「……でも、なーちゃんのこと、こんなにも考えて傷ついて、悩んでる人が、ここにもいるんだ、ってわかって。少しだけ、嬉しくなりました。……だから、よかった」


「……しょうねん……」


 御厨さんが目を瞠り、俺の顔をまじまじと見つめる。

 その瞬間、気のせいかもしれないけど、ただの一人の人間として、目の前の女性と互いを分かり合えた気がした。胸の下の方が、少しだけ温かい。そして。


 ……、



 その感覚が、俺の心に奥底にある一つの感情を、引き上げる。



「あの、マリア先生」


「ん?」


「ありがとうございます」


「……え、なに急に。てか、それならさっき聞いたけど?」

「いえ、さっきのじゃなくて」


「?」


「……俺、たった今、ちょうどこの瞬間に、ようやくわかったことがあるんです」


 一度、瞬きをして、その間に何かを悟ったような顔をして。



「……どんな?」



 御厨さんが首をかしげ、俺に尋ねる。質問よりかは、きっとそれは確認の類。


 その確認に、俺はまっすぐ前を向き、




「……俺、叶戸先生に、言いたいことがある」



「他の誰でもなく、俺自身の言葉で、聞いてほしいことがある」




「……」


「……気付くのに、十年かかりました。だから、教えてくれて、ありがとうございます」


「……」


 一瞬の間の後に、御厨さんが大げさに肩を落とし、そして困った顔で笑う。


「……これだから、片想いの童貞は」


「すみません、相変わらずで」


「いや、それでいいよ。……というか、それがいいんだ」



 再び、俺たちは微笑み合う。

 

 ……本当に、来てよかった。

 

 それはまるで、長いあいだ冒険を共にした、仲間みたいな感覚で。歳も身分も違うけど、互いを認め合える、なんともくすぐったい感覚。なんだか照れてしまう。


 正直少しだけ照れ隠しの意味もあって、俺は自ら話題を逸らすことにした。


「えと、それで」



「……結局、なーちゃんは今、どこに?」



「ぎくッ」



 ……ぎく?


 なんか今、この場面にしては、おかしい擬音がしなかったか?


 疑問に思って視線を向けると、御厨さんが、ものすごいスピードで目を逸らす。見ると先ほどよりいくぶんも、バスローブ姿がぎこちなく。……変だな、なんかさっきまでわかりあえたムード満々だったのに。



「……えと、マリア先生?」


「……な、なんだし、しょうねん」


 目が、泳ぐ泳ぐ。


 先ほどまでの落ち着いた大人感は、微塵も感じられなかった。


 嫌な予感がする。



 ……現在時刻、午後九時。


 この家に着いてからもうすでに結構な時間が経っていて、これから夜も更けようとしているのに、同居人が帰宅する様子は、一切ない。



「……ま、まさかとは思うんですけど」


 ……またケンカして、家出してる、とか?


 もしそうだとすると、再び状況はふりだしに戻ったようなものだけど……。


「……あ、ちょ、ちょい待ち!」


 ギャルで医師という、『焦る』とは無縁な世界にいるであろう御厨さんが、珍しく心底焦った様子で、


「あ、あのさ! なな、なんというかさっ……」


「……さんざん、ああまで言って、応援ムード作って、挙句しょうねんの奥底に眠る、内なる望み的なものまで、引き出しておいてなんだけどっ……」



 そう前置きした御厨さんが、

 

 その手入れされた綺麗な唇で、



 俺の想像を、三周半くらい上回った回答を、容赦なく。




「お、怒らないで聞いて、しょうねん」







「あのコ、今、泊りがけで、お見合い中なんだよね!」




「…………」




「――はぁあああああああ!?」

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