第11話 ただいま

 ***




「……なんか疲れた……」


 いつもの帰り道、俺は寂しく独り言を漏らす。


 あの後、美術部では、三ケ嶋に叶戸先生のことを根掘り葉掘り訊かれ、答えざるを得なかった。『従弟』という設定に矛盾しないよう、注意してなんとか切り抜けたが、それが思ったより難しかった。完全な嘘を並べても墓穴を掘るだけなので、ほどよく事実を歪曲して伝えるのは頭を使うし気も遣う。なにより意図的に人を誤解させる罪悪感が半端なかった。……おまけに平沢は『……それにしては、仲良さそうだったよね』と、意味深に呟いたまま不機嫌になるし。


 人を騙す(?)のって、意外としんどいんだなぁ……。


 俺は経験したことのない疲労感に、肩を落とす。

 

 ……オレオレ詐欺の受け子とか、向いてない性格なんだろうな……、もちろん絶対にやりたくないけど。


 なんにしても、今日は疲れた。夕飯を作る元気もないから、ストックしてたカップ麺とかで適当に済ませて……。


 そんなことを考えながら、アパートの階段を上がる。

 俺の部屋のある二階の踊り場にさしかかり、


「……あ……」


 扉の脇に、美少女がいた。

 昼間みたスーツ姿に、手にはスーパーのビニール袋。中には買った商品が大量に入っているらしく、パンパンに膨らんでその形を歪にしている。

 俺の姿に気付いたらしい彼女は、


「……おかえり、……ひなくん」


 優しい声色で、はにかみながら言う。

 その響きは、疲れた脳内に染み渡るように広がり、俺に少しだけ疲労を忘れさせてくれる。


「…………あの、もしかして……待っててくれたんですか?」


 俺は質問しつつも、そうなんじゃないかという期待が半ばあった。

 

 家主よりも先に家に入るのは、気が引けるとか。もしくは俺に早く会いたかったとか。……や、後者の自信はないけど、万一の可能性もなきにしもあらず、『しゅき』の一件もあることだし……なんて。


 とにかく俺は、叶戸先生と今会えたことに心が躍った。

 相変わらずこの人は、俺のいて欲しい時に側にいてくれる。


 ……どうしよう、嬉しい。


 なんて、思っていると、



「あ、ううん、……なんていうか、その……入れなくて」



 ……。


 俺は自らの自惚れに食らったカウンターパンチに、ショックで倒れそうになる。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。


 ……ですよね。思い返すと俺、今朝も普通に鍵閉めて出ちゃったですもんね。


「……すみません、すぐ開けますね」


 いたたまれない気分の俺は、まるで業者のような口調と迅速さで、ドアの鍵を開ける。叶戸先生は「あ、うん……」と俺の様子を不思議そうに見ていた。


「……どうぞ」

「……その……、お邪魔します」


 叶戸先生がぎこちなく敷居をまたぎ、パンプスを脱ぐ。その様子を後ろから眺めつつ、俺は密かに思ってしまった。

 

 ……お邪魔します、か……。


 昨日、同じ言葉を聞いた時には、何も感じなかった。でも、何故だか今はその言葉が少しだけ寂しく思える。

 一日、たった一日過ごしただけなのだ。俺と叶戸先生の関係が特に変化したわけでもない。……しかし、と俺は昨夜の言葉を回想する。

 ごめんね、と彼女は言っていた。本人は熱で覚えてなかろうが、あの時の叶戸先生は明らかに後悔している様子だった。

 俺は、思いもよらなかったのだ。忘れられていると、ずっと思っていた。思いたくはなかったが、どこかで馬鹿にされているとすら思っていた。なのに、叶戸先生、なーちゃんは違った。理由はよくわからないけど、迎えに来られなかったのには、何かしらの事情があるようだった。

 言い換えると、なーちゃんは俺を裏切ってなどいなかった、ということだ。そのことが判ってホッとする半面、彼女を信じ続けられなかった自分への、良心の呵責に胸が痛くて。


 だからとにかく、今は幼馴染として叶戸先生の実習を応援したい、と思っている。


 そうすることで、いくらか罪滅ぼしになると思うし、ましてや相手は絶賛困り真っ最中だ。俺にできることは多くはないが、それでも何かしてあげたい。宿でも何でもどんとこいだ。正直叶戸先生がいいのなら、実習中この家を好きに使ってもらっても構わない。本気でそう思うくらいの心境だ。初恋の相手とか『しゅき』とかはとりあえず置いといて、俺はイチ幼馴染として、それこそ親戚的立場で彼女をサポートしたい。……だから。


 『お邪魔します』とか、いかにも他人な感じじゃなくて……


 ……、


「……ただいま、って言えばいいのに」


 

 しんとした玄関にポツリと、俺の声だけが響いて消えた。


 ……ん?


 ……おかしい。今、俺が思ってたことが勝手に音声化され……、


 そこで俺は、誤って心の声を口に出してしまったことに気付いた。


「あ……や……! 今の、なし!」


 今度こそ、死にたいくらいの羞恥心の奔流に飲み込まれる。

 

 な、な、何言ってんの俺……! 


 容赦なく紅潮する頬。恐る恐る前方に目をやると。


「…………」


 叶戸先生は、前を向いたまま黙りこくっていた。


 ……困っている? それとも図々しくて呆れた?


 どんな表情をしているのかが気になるが、確認する勇気はなかった。

 叶戸先生も俺も、両者何の動作も起こさないまま時間だけが過ぎる。しばらく膠着状態が続いてから、ようやく、すぅ、と前方から息を吸う音がした。


「…………………」


「…………た……」


「……ただい…………」


 もしかして……言おうと、してくれてる?


 心臓が高鳴り、身体中の神経がその働きを耳に譲渡する。鋭敏になった聴覚に全てのエネルギーを集約し、ただただ俺は息を止まるほどその言葉を待った。


「…………」


「…………っ」


 聞こえてくる彼女の、呼吸の輪郭に胸が詰まる。

 そしてもう一度だけ短く息を吸いこんだなーちゃんは、



「………………ごめん…………むり」



 俺は再び倒れそうになった。緊張のあまり止めていた息が、肺のフル稼働で再開する。未だ高鳴る心臓の鼓動。『もうちょっとだったのに』と恨めしい思いが身体を駆け巡る。


 ……期待させた挙句『むり』とか。……いや、ホント、俺のドキドキを返してほしい。

 

 いろいろと思うことはあったが、俺は平静を取り戻そうと、ふー、と深めの息をはいて呼吸を整える。

 しかし、


「………………その……いまは」


「……え?」


 思わず俺は顔を上げる。


 ……ごめん、むり………いまは……、ってことは……、


 なーちゃんは未だ前を向いたまま、自身の横髪を撫でるように耳にかける。露出した片耳は、林檎くらい真っ赤に染め上げられていた。


 

 ――いつかは、言ってもいいと?



 胸に驚きと何とも言えぬ暖かい気持ちが広がり、頬が熱くなる。

 

 すぐさま自慢の妄想が展開し、




『おかえり』


 俺は扉を開けて帰宅した彼女を迎える。彼女は俺の顔を見るやいなや、


『ひなくん……っ』


 不意に胸に柔らかい感触がして見下ろすと、彼女は俺の胸に顔をうずめ、おでこをすりすり擦って甘めのハグをしてくる。


『どうしたの、なんかあった?』


 俺が尋ねると、彼女は首を振って笑みを見せる。

 それから瞳うるうるの彼女、なーちゃんが上目遣いで俺を見つめ、


『……はやく、会いたかっただけ……』


 そしてそっと俺の唇に唇を近づけ、触れる寸前で……、


『……ただい……』




「…………あの……まだ?」


 いつの間にか振り返ったなーちゃんが、その可愛い口で苦言を呈する。

 気が付くとそこには、玄関で突っ立ったまま妄想の世界に旅立つ男子高校生が、一人いた。……俺だ。


「…………すみません」


 俺は我に返り、急いで脱ぎ掛けた靴を脱ぐ。


 ……危ない危ない、妄想の超えてはいけないラインを超えるところだった。


 先ほどの『おかえり』も良かったけど、これは中々な破壊力だ。想像上の架空の出来事に悩殺されるかと本気で思った。

 ……などと。


 靴を手早く揃えて並べつつ、俺は甘さひかえめな現実を再度実感する。

 ……と、そこで俺は、なーちゃんがもごもごと口の中で何かを言いかけているのに気づいた。


「どうかしました?」


「……あの………その……」


「……お願いがあるんだけど……」


 ……お願い? なんだろう?

 

「……ええと……」


 彼女は横目に俺を盗み見てから、スーパーのレジ袋を揺らし。



「……今晩のご飯……私が作ってもいい?」




 

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