第10話 部活

 ***




「花倉、今日部活いく?」


 前を歩きながら、平沢が尋ねてくる。放課後の廊下らしく、BGMは運動部の掛け声と吹奏楽部の管楽器。


「行くつもりだけど。……あれ、平沢出ないの?」


 俺が聞き返すと、


「んー、正直悩みどころよねー、学祭の特別時間割までに出し物の準備、終わらせときたいから。……でも、美術展も近いしー」

「あー、わかる。……ホントこの時期って、スケジュール鬼だよね。何考えてるんだろうなー美術部の顧問はー、……やー何も考えてないかー。来年定年だし」

「……それね」


 本当だ。決して言い過ぎではなく、美術部の顧問をしている白髪のお爺ちゃん顧問はそもそも姿を見せない。御年六十四歳となった今年は、定年退職間近のゆるーい指導しかしないから、きっと本来受けるべき教育実習指導も担任……古松になったんだろうと思う。そればかりは古松に全面的に同情したい。


「……ってか、A組って、もうやること決まってるのッ? 早ッ!」

「いや……普通というか遅いくらいでしょ。……まさかとは思うけど、花倉のC組は何も決まってないの?」


 平沢の質問に、俺は、ガクっとうなだれる。


「……その、まさかで、ございます……」


 はあ、と平沢がため息をつき、


「……さすが、『テキトーの代名詞』古松先生のクラスよね。うわー花倉、可哀想。こりゃ絶対、来週からタスクの山に血を見るね、絶対。……ご臨終ですっ」


「こらこら、まだ死んでないから! ……次のホームルームでは、さすがに内容決めるって言ってたし、何とかなるでしょ。……ま、今は何と言うか、クラス全体がそれどころじゃない感じだから……」


 意地悪い笑みを浮かべていた平沢が表情を変え、


「どういうこと?」


 俺は横目に、「ほら、例の……」と言いかけたところで、足を止める。


 見知ったスーツの後ろ姿が目に入ったからだ。


 その美少女実習生は、鞄を抱えつつ、校舎の分岐点となる空間を、キョロキョロと明らかに困ったような仕草で周りを見回している。


「……あれって、話題の実習生だよね?」


 ちょうど話に出そうとした人物を、先に言われてしまう。しかし、俺にはそんなことはどうでもよかった。


「……ちょっと待ってて」


 自然と足が動き、俺は叶戸先生が右往左往するT字路へ駆けつける。

 結構前に帰った、と聞いていたんだけど。


「あの、……何してるんですか?」


「……ひゃいッ!」


 叶戸先生は変な声で一瞬宙に浮いてから、


「……ひ、ひなくん? ……びっくりした……」


 俺の顔を見るやいなや、途端に安堵の息を漏らす。相当驚いたらしい。


「……それで、ここで何を?」

「……え……、あ、いや……特に何も……」


 視線を逸らし何かを誤魔化す素振り。

 俺は途端にピンときて、


「……もしかして迷ってます?」

 

 そう尋ねると、「う」などと低めの声を出し、


「…………」

「……図星、ですか?」

「…………うん」


 チラリと視線だけよこして答える。心底恥ずかしそうだ。


「……でも、これに限っては『あるある』ですよ?」

「……え?」

「……この学校、改築に改築を重ねてきた歴史がありまして。そのせいか校内は新旧入り乱れて迷路みたいになってて。なので毎年必ず新入生は迷うし、時々先生も。もはや恒例行事と言っても過言じゃないですね。……だから」


 俺は頭を掻きながら、笑みを作って言う。


「そんなに気にしなくて、大丈夫です」


「…………」


 叶戸先生はしばらく俺を黙って見つめてから、視線を落とし、


「……そっか。……ありがと」


 鞄をぎゅっと抱きしめながら、お礼を言う。

 その様子に俺は思わず昨日の朝の笑顔を想起して、なんだか恥ずかしくなってしまう。

 互いに言葉を交わさず、目も合わせぬまま、俺と叶戸先生は若干温度の上がった空間をひたすら共有し……、


 ……あ。


 不意に視線を感じて振り返ると、平沢が『じーっ』と音が聞こえそうなほど俺達のことをガン見していた。その眉根に特に変化はなく、何を考えているのかは読めない。

 かと思うと、急に足音を鳴らして近づいてきて、俺の方を一切見ずに笑顔で言う。


「……叶戸花凪先生、……ですよね?」

「あ、はい。……ええと、あなたは……」

「A組の平沢です、はじめまして」


 後ろ手に手を組み、軽い会釈をする平沢。慌てて叶戸先生もそれに続く。


「私、選択教科美術なんです。なので、そのうち授業にも来てくれる感じですか?」

「……あ、多分そう。基本的に二年生の授業は担当することになるから、まずは見学からお邪魔するかも……」

「そうですか、楽しみです。C組が羨ましい限りですね、こんなに可愛い方が毎日授業に来てくれるなんて」

「……そんなこと……」


 平沢の不自然なくらい丁寧な対応に、俺は違和感を覚える。さっきの古松への対応とは雲泥の差だ。何か意味があるんだろうか?


「……ところで」


 全く笑顔を崩さないまま平沢が言う。


「実は私、美術部でもあるんですよ。一応これでも、たまに賞を獲るくらいには活動させてもらってて」

「……そうなんだ。絵、上手なんだね」


「……で、先生は、どこか受賞歴とかありますか?」


「え?」

 

 平沢の一言で空気が張り詰める。その笑顔と似つかわない失礼な質問に、俺も思わず声が出た。


「……それって、高校美とか、総文祭とか……ってこと?」

「そうです。……ちなみに私は、去年県の美術展で優秀作品に選ばれました。総文祭への推薦枠は惜しくも逃しましたが、今年は絶対全国行きたいって思ってて……」


「……なので、アドバイスでも伺えたらと思ったんです。参考までに」


 首を少し傾げるように平沢が笑顔を強調する。彼女の隠れファンにしたら歓喜の一枚なのかもしれないが、語る内容が内容だけに全然笑えない。


 だが、これはよくあることだ。

 事実、教育実習生の学歴や出身校を、気にする生徒は多い。特に成績優秀者や運動部のエースなんかだ。もしこの問いへの答えが芳しくない場合、彼らの中で実習生は教師ではなくなる。

 ……そんな重要な質問を、よりにもよって今ここでするなんて。


 先日の自己紹介の時は、出身校を『東京の美大』と言って特に追及されていなかったが、平沢はいわゆる美術側の人間だ。濁すとかえって信用を失うし……、

 様々な危惧をめぐらす俺の隣で、叶戸先生は少し押し黙る。しばらくして意を決したように、


「……申し訳ないけど……、」


「……ないです」


 思わず俺はなーちゃんの顔を見た。明らかに今のことは今後の実習を円滑に進める上で不利になる発言だった。しかし、その表情は意外にも毅然としていて。


「……私、美術部じゃなかったから」


「え」と思わず声が漏れる。聞いた当人の平沢も同様だった。


「……美術部じゃ、なかった……?」

「……うん。高校はね。と言っても、中学でも一年で辞めちゃったけど……」

「…………ッ!」


 俺と平沢は言葉を失った。

 中、高でたったの一年。

 それはつまり、学生時代にまともな美術経験が、ほぼないことと同義だ。


「……先生、……大学どこ?」


 先ほどまでの笑顔とは打って変わり、平沢が混乱を隠さずに尋ねる。

 叶戸先生は、今度ばかりは「え」と恥ずかしがり……、


「……○○美大……だけど」


 ついに俺達は声を失う。


 ……○○美大って、あの名門の?


 試験が厳しくて、美術のインターハイである総文祭入賞者でも、容赦なく落とすことがあると噂の大学だ。国内の有名アーティストを多数輩出し、歴史と実力を兼ね備える名門中の名門。

 そんな大学に、たかだか美術経験一年の人間が、一発合格した。そんなことがあり得るんだろうか。仮にあり得るとするならその人は、


 ……それはもう、天才の域と言っていい。


 俺は思わず感嘆してしまう。平沢も同じで、目の前にいる小柄な女性に呆気にとられているようだ。そんな俺達の様子を見かねてか、


「……ごめんね。……だから、本格的なアドバイスは力になれない。……お遊び程度ならお邪魔したいけど、……あいにく今日は大事な用事があって……」


 叶戸先生は鞄を持ち直し、手を振って言う。


「……じゃあね、平沢さん、……推薦枠、とれるといいね」


 そう言って小走りで去っていく。

 去り際の曲がり角で一瞬目が合ったが、そのまま行ってしまった。


 残された俺と平沢は、そのまましばらく突っ立ってから、どちらからともなく歩き出す。特に会話も交わさないまま、ひたすら歩いて部室の扉を開くと。


「おお、花倉ぁー、待ってたぜお前のことぉー!」


 その同じ美術部の二年、三ケ嶋みがしまが興奮した様子ではしゃぎまわり、


「――お前、あの美少女実習生と従弟ってマジぃ!?」


 俺はビクっと、身体を硬直させた。

 振り返らなくても、平沢がその端正な顔で凝視してくるのがわかった。



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