第2章 実習生と美術部員
第9話 担任
「……失礼します」
扉を開けて入ると、そこには今朝と寸分違わぬ未整理ぶりの机が目に入る。違うのは差し込む光が朝日でなくて夕日だということと、そこに美少女教育実習生がいないことくらいだ。
「おー、なんだ花倉かー。……どしたー」
担任は俺を横目でチラ見すると、ノートパソコンを眺めたまま声をかけてくる。相変わらずの適当さだ。
しかし、今回ばかりは、……いや今回も俺は、この人に助けられてしまったわけで。
「……先生、その節は、どうもありがとうございました」
俺は柄にもなく頭を下げる。
結局、今朝の出席の一件の後、恐る恐る教室に戻ったのだが、周囲の反応は正直、拍子抜けだった。
「……なー、花倉ぁー! 花凪ちゃんって、昔からあんなに可愛かったんー?」
「……てか、花倉どこ小ー? え、マジー、うち花凪ちゃんと学区隣だったんだけどー!」
先ほどあれほど恨み節を唱えていたクラスの面々が、揃いも揃って笑顔で話しかけてくる。悪感情はもちろん、取り繕った様子すら一切ない。
困惑する俺に、とりわけ陽キャな集団が、満面の笑顔で言う。
「……やー、にしても羨ましいわー。……花凪ちゃんと、従弟だなんて。つか、超似てなくねマジウケるしー!」
聞くと、あの殺伐とした状況の中で脱兎のごとく退散した俺を尻目に、「あ」と担任が口を開き、
「……言い忘れてたわー。叶戸先生と花倉ってなー、実は遠目の従弟なんだわー」
……と、いつもの適当な調子で適当な嘘をついてくれたらしい。
「いやーわかるわかるー、身内がいると教師ってやりずらいんだよなぁー、ましてや実習中に従弟とかー、なんだそれ地獄かー寝不足にもなるわー、俺だったら絶対やだわー、同情ー」
「な。叶戸先生」と担任が鮮やかなクリティカルパスを出し、
「……は、はい」
なーちゃんこと叶戸先生が、ひたすら頷いた結果、
「……なんだー、そーゆーことかよー!」
「先生、早く言えしー!」
「変な誤解してごめんね、叶戸先生ー!」
途端に破顔して安堵の表情が広がり、空気が回復したそうだ。
そんなクラスメイト達を、透き通るように綺麗な瞳でじっと見つめ、
「……あの、こちらこそ、……みんな……ごめんね……?」
もじもじと謝罪の言葉を述べる叶戸先生の破壊力にやられたらしい。(おそらく本人は騙してることを謝ったのだろうけど)それ以来、俺達の関係は『従弟』で通り、俺は叶戸先生にとっての『完全対象外の弟的存在』という認識になったようだ。……どおりで俺を見る目が妙に暖かく、「クラス一ツイてないヤツ」的に扱われてると思った。まぁ、現実に対象外な可能性だって十分にあるんだけど……。
なんにせよ、こうして何事もなく授業を終えて放課後を迎えられるのは、担任のおかげに他ならない。こればっかりは、いくら相手が適当な人間でも、ちゃんと礼を言っておきたかった。
……しかし。
「……お前、そんなこと言うために、わざわざ尋ねてきたのかー。……暇なの? 暇ならどうか早くお引き取り願いたいなー、生徒指導―? 知らんわー、こちとら残業定額使い放題のしがない教員なもんでー」
……いや、ホントなんで教師になったの、この人。
俺は内心呆れると共に、わざわざ礼を述べに赴いたことを猛烈に後悔する。
担任はひたすらにワードソフトを使って資料か何かを作成しているようだ。……えーと、令和○年度、○○学園祭、保護者へ追加のお知らせ……、
「おい見んなー、会議通ってない内部資料だボケー」
脂肪の付いた広い背中が移動し、俺の視界を遮る。
……いや、内部資料なら生徒がいる前でやるなよ。隠すなら、ちゃんと隠してほしい。
まぁ、でも確かに学校祭が三週間後に迫っているのは事実だし、そんな時期に教育実習の指導教諭を同時進行することが多忙なのは、生徒の俺から見ても瞭然だ。一応借りがあることだし、ここは大人しくお暇するか。
「……すみませんでした。……じゃ、失礼しま……」
「あ、言い忘れてたわー」
……多分今みたいな感じで、従弟の件も言ったな?
俺は半ば確信と共に、一度引きかけた扉を元に戻す。
「……なんですか?」
わざとらしく『不機嫌』を込めた表情を作り、振り返る。担任はそれを気にも留めず続けた。
「……今日は、警察ほか、……もろもろに寄らなきゃいけないと、なので……」
一瞬何のことがわからなかったが、遅れて理解する。叶戸先生のことだ。
「……ってさっき早々に帰ったよ。……まぁ、記録上は体調不良による早退でつけてんだけど、あながち間違ってないしー」
「……まぁ、確かにそうですね」
そういえば学校ではあまりそういう素振りはなかったが、体調は大丈夫なのだろうか。急に心配になってきた俺に、担任が目を合わせずに言う。
「……長い実習だ。また体調不良とか、勘弁だからな?」
それは宿を同じくする俺に向けて言っているのだろうか、それとも自身の面倒ごとが増えることへのボヤキか。どっちかはわからないけど、担任は稀に見せる真剣な表情をして。
「……くれぐれも疲れることはさすなよー、同衾とかー」
「――しないわ!」
急にぶっこまれた下ネタに、一気に気が萎える。
先ほどの『邪魔したら悪いか』的な気持ちとは、ずいぶん質の異なる後味で、俺は扉を開こうと手を伸ばす。
すると。
「失礼しま」
「失礼します」
俺の退室と誰かの入室が、思いがけず同タイミングとなる。
二人分の力が引いた扉が、勢いよく開いた。
「!?」
至近距離で唐突に交わる視線。その差三十センチ。
多少垂れ目気味な叶戸先生よりも、幾分かつり上がった流線形の瞼。
「……は、花倉……?」
「……平沢……」
クラスは違うが、同じ学年、同じ部活。出身中学も同じ、中学からの仲。
驚きのあまり広がった形のいい眉根が、次の瞬間には、きゅ、と狭まって。
「……あの、邪魔なんだけど」
「あ、ごめん……」
俺はいそいそと水平方向へと道を譲る。
爽やかなせっけんの香りが鼻孔をくすぐり、綺麗に揃えた黒い前髪の後ろでは、美しい絹のようなハーフアップのテールが元気に揺れる。
確かに顔は整っているのだが、(実際ファンも多いとか)服装や髪形を含めて清楚というか古風というか、悪く言うとあまり垢ぬけた感じはしない。一方で不機嫌な様子で俺を一瞥する様子からは、決して気弱ではない彼女の性格が伝わってくる。
「
「えー、あーその辺に置いておいてー、後で見とくからー」
「他に何か用がありますか?」
「やー、ないないーさんきゅーそーまっちー」
「そうですか、では失礼します」
さっと気のないお辞儀をして、平沢が踵を返す。
その途中でチラリと目が合い、
「……なに、花倉。……暇なの?」
「違うわっ」
不思議そうにこちらを見つめ、失礼なことを抜かしてくる。
……わざわざ道を譲られておいて、その言い分はないだろう。
この尊大な物言い。
何を隠そう彼女こそが、中学で俺を、強引に美術部に入部させたクラスメイトその人だ。
「「失礼しました」」
ピタリとは合わない微妙なユニゾンの発声で、俺達は同時に社会科準備室を出る。
そこで俺は、違和感にひたと気付く。
……ん?
「ちょっと待って。ウチの担任の名前って、――
「……はぁ?」
平沢は立ち止まり、端正な横顔でこちらを一瞥し、
「前から思ってたけど、やっぱり花倉って、……ヤバい人だよね」
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