第8話 出席
***
話の経緯をまとめると、こうだ。
「生徒はあだ名とかじゃなく、苗字に『くんさん』付けで呼ぶように」
そう指導した後に、担任は叶戸先生に何気なく、「叶戸さんて、下宿だっけ?」と聞いたそうだ。すると急に顔を赤くして押し黙り、「昨日は……その……知り合いの家に」
その様子から「え、失礼かもだけどー、彼氏ー?」と尋ねると、
「ち、違いますッ。花倉くんは彼氏じゃ……」
「え?」
「あ」
「……花倉って、まさか、花倉日向?」
「……違います(顔真っ赤)」
「……そういや、昨日、花倉見て固まってたもんなー」
「……なな、なんで知って!」
「……え……図星なんー……」
「……」
ということがあり、俺に召集がかかった次第らしい。
……って、ちょっと! 叶戸先生ッ!
「なーるほどねー、……ってアホか、早く言いなさいそういうことは」
「……う……すみません……」
「まーでも、理由があったにせよ、規則違反は間違いないなー、でもなんか事情が込み入ってそうだしー、んー、余計な仕事増やしたくないなー」
前から思っていたが、この人のものぐさは、教師として、いや、人としてどうなんだ。
天パの髪をわしゃわしゃ掻いてから、担任は口を開いた。
「……うし。黙っとこー」
「……え」
驚く叶戸先生。俺も思わず身を乗り出して、
「……いいん、ですか?」
「あー。互いの親に面識があるくらいの仲なんだろー? ならいーや。それにー、宿無し無一文風邪ひきの三拍子ときたらー、まー仕方ないでしょー。……ていうかぶっちゃけ、めんどくさいわー」
……おいそこ、本音出てる出てる。
「叶戸先生」
担任がなーちゃんを呼ぶ。いつものだらしない語尾ではない、短く手鋭い呼び方。
「……俺は何も訊かなかった、だから何も知らない。……そういうことにしておく。でもだからこそ、俺は助けないよ? 宿と財布の件は気の毒だけど、自分の責任だよね。だったら自分で何とかするのが筋だ。……まずは自分の身の回りから、しっかり整えなさい。教師を志す者として、当然のことです。……わかった?」
「……はい。……申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる叶戸先生。
担任はやれやれ、と肩をすくめて、
「まー、とにかく何でもいいからバレずにやれー。正直俺としては自分の評価が下がらなけりゃそれでいいからー」
相変わらず最低なことを言っている。……先ほど見たのは白昼夢か何かだろうか。
「……花倉」
「はい」
不意に名を呼ばれ、俺は身構える。
……しかし。
「…………がんばれよー?」
「……え、はい」
担任はニヤニヤ笑みを浮かべつつ、背中をポンポン叩いて去っていく。意味がわからなかったが、さっきの真面目な様子がよぎって、無駄に緊張したのがバカみたいだった。
俺は先に教室に戻り、荷物を置いて席に着く。
とりあえず、教育実習が続けられそうで本当に良かった。
後は、担任の厚意を無駄にしないよう、なるべく目立たないように過ごさなくては。
とにかく、俺となーちゃんの関係性は、周りには知られないようにしよう。
チャイムが鳴り、少し遅れて担任と叶戸先生が入ってきた。
日直が気のない号令をして、
「……おー、お前ら朗報だぞー」
「今日の出席はー、叶戸先生にとってもらうからー」
途端に「マジ?」「やったー」「ご褒美」と、教室の空気がいくらか華やぐ。がやがやとざわめき立つ周囲の様子に、俺は叶戸先生の人気ぶりを再認識させられる。
「……じゃー、みんな、お手柔らかに……」
そう切り出した叶戸先生が、
「○○◇◇さん」
「はい」
「〇◇△△さん」
「うぃーっす」
次々にクラスメイトのフルネームを呼んでいく。生徒たちは皆各々に「やーん」「至福ーー」などと返事をしていく。
さすが美少女実習生だ。出席を取るだけでクラスが盛り上がる。
……やっぱり、なーちゃんってすごいな。
思わず感心してしまう。
ちょっと天然なところはあるが、少なくとも教壇に立った彼女に『なーちゃん』はふさわしくない。でも、そんな俺のずっと前をいく姿は、まさしく昔見てきたなーちゃんそのもので。
『…………ひなくん………………しゅき…………』
唐突に昨日のことを思い出し、赤面する。
本人は忘れているようだが、言われたこっちは忘れられるわけがない。
改めて……あれは、どういう……、
「△▽□◇さん」
「はーい」
我に返ると、出席番号は俺の直前まで来ていた。
危ない危ない。
さっきのテンションのまま名前なんて呼ばれたら、まともな返事をできた自信がない。気が付いてホントよかった。
……しかし。
「……次は……えっと……」
凛として生徒の名前を読み上げていた叶戸先生が、急にたどたどしくなる。
そして。
「……は、はなくら………」
声が震え、端正な顔面がみるみるうちに真っ赤に染まる。両手で出席簿にぎゅっとしがみつき、
「…………ひな……た……く……」
そのまま顔半分を隠して語尾が消沈した。
「……………」
何か言いたげな様子で、前髪と出席簿の間からキラキラ大きな瞳だけ出している。いつもに増して水分を含んだ視線で、ある一点を見つめている。
……もちろん、俺だ。
「…………へ………?」
俺は狼狽する。
えーと、なんですか、その熱のこもった視線は。
眉をハの字にして、目は潤み、赤い顔で俺を……って!
――もしかして、熱がぶり返した!? だとしたら大変だ。
なんて、のんきに考えていると。
「……えっ、なにこれ……」
「……急にどうしたの?」
「今まで普通だったのに……花倉の時だけあんな恥ずかしそうに……」
誰かが最後に言った一言が、思いのほか響き渡った。
その瞬間、叶戸先生を囲んでいた視線の焦点が、移動する。
……もちろん、俺へ。
「……えっ」
「……マジ……? ……嘘だよね?」
「え、いや……その……」
「……はなくら、てめー……」
「や、俺は別に何も……っ」
「……そーいうことなのっ!? これって、そーいうことなのっ!?」
教室が爆発的にざわめきだし、所々で困惑、悲鳴、怒り、歓喜の感情が表現される。叶戸先生は依然突っ立ったままでその頬を。担任が小さくため息をついたのが周辺視野で見えた。
……これは、マズい。
「先生ッ!」
渦を巻いて巻きあがり、強大なハリケーンのごとく立ち込める暗雲に、俺はびし、と手を挙げて懇願する。
「寝不足で気分が悪いので、保健室に行ってきます!」
言いながら腰を浮かせ、俺は退散を試みる。周囲からの視線は痛いが、ここでクラス中から詰問されるのは、いくらなんでもリスクが大きすぎる。
ここは一旦空気を落ち着けてから、後で説明を……、などと考えていた時だった。それまでだんまりだった叶戸先生が、ぽつりと。
「……じゃあ……私もいく」
『…………え?』
クラス全体が、同じ言葉を重ねた。もちろん、俺も。
再び視線の焦点と化した教育実習生が、言う。
「……私も一緒に、保健室いきたい」
その瞬間、誰もが思った。
『――保健室で、一体何を!?』
身の危険を感じた俺は、周りが叶戸先生の発言に衝撃を受けてるうちに、そっと教室を後にする。
『とにかく何でもいいからバレずにやれー』
担任の言葉が頭によぎり、俺は一人、笑顔を作って悟りを得た。
……うん、相当な無理ゲー、ですね。
◇◇◇
出席事件の、少し前。
バタンと、扉が閉まり、実習生控室、と書かれた札が揺れている。
途端に足の力が抜け、私は扉を背にしながらへなへなとその場に座り込む。スーツの布地が引っ張られて窮屈だけど、そんなことはどうでもいい。
恐る恐る想起する。昨日、彼が困っている自分の元へ来てくれたこと。体調を心配して、泊めてくれたこと。
本来ならそれだけで誤算中の誤算だし、充分失格だ。事実、まだ日が昇らない内に目覚めた時、同じ部屋に彼がいて、一瞬気絶しそうになった。動揺の末、そのまま寝たふりを続けた結果として、満足に睡眠できたとは言い難い。
……しかし。
今、自分が置かれている状況は、それらをはるかに凌駕する。
『……ひなくん………しゅき……』
「~~~~~~~っ!!」
言葉にならない。両手で顔を覆い、人目を憚らず足をジタバタさせる。
……よりにもよって! 『しゅき』! 『しゅき』とか! ありえない! 頭おかしい! もういっそのことおかしくなってしまった方がずっと!
恥ずかしさのあまり、涙が出てくる。これではアイメイクもやり直しだ。今朝の何も覚えてない演出のために、いつもよりしっかりめに塗ったのに。
私は深く息を吸って、吐く。
心を何とか落ち着けてから、鞄から十年ぶりに再会した『人質』を取り出し、ぎゅっと抱きしめる。
思い浮かぶのは、ついさっきの社会科準備室。
別人みたいに大人っぽくなった彼が、あの時は小さかった彼が。私の不手際のせいで訪れたピンチを、自分のことを顧みずに助けてくれた。
『……たとえ十年経っても、なーちゃんを助けないなんて、俺には選べなかった』
堪え切れず、スケッチブックに顔を埋める。硬い厚紙が肌に貼りつくが、気にならない。
「…………ひなくん………」
その名を呼ぶたびに、胸が痛み、目が潤むのはなぜだろう。否、理由なんてとっくに知っている。それこそ、十年も前から変わらぬ想い。揺るがぬ答え。……でも。
十年ものあいだ約束を引き延ばし、何の連絡も出来なかった自分に、それを伝える資格なんてあるはずがない。
ましてや『しゅき』なんて、口が裂けても言えない、言ってはいけなかったのだ。
時計を確認すると、時刻が進んでいた。
もうすぐ、ショートホームルームが始まる。今日は出席の実習をするから、クラスの生徒の名前を呼ばなければいけない。無論、彼の名前もだ……なのに。
「……はなくら、ひなたくん………………………」
「………すき………」
どうしても、その言葉を加えたくなる欲望が、抑えられない。
こんなことで、本当に私は教育実習を乗り切れるんだろうか。今回のことも首の皮一枚でつながったとはいえ、予断を許さない状況だ。……変なことは絶対に言わないようにしないと。
……。
唐突に誘惑が胸をよぎる。
今ここは一人きりだし、人前で変なことを口走らないように、ガス抜きをすればいいのではないか。……そう、あくまでこれは秘密を守るためであり、念のためだから……などと欲望が幅を利かせ、私はその誘惑に、敗北した。
「……ひなくん………」
誰もいない控室で、私はぽつりと一言。
「…………しゅき」
朦朧とする中で漏れ出したその言葉を、今度はしっかりと言い直した。
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