第12話 手料理
***
何が、起こっているんだろう。
今さらながら、俺は自分に身に起きている出来事を客観視する。
高校生活二年目、今まで彼女ゼロの童貞。親の教育方針で実家の隣町の学校へ入学し、独り暮らし歴は一年とちょっとになる。自炊はほどほどに普段の食事はインスタントが多いこの頃の食生活。
……それが。
俺は床に正座したまま、ちらりとキッチンの方を見やる。
白いブラウスにスーツスカート。その上に橙色にドット柄のエプロンを膝上で身に着け、袖口は腕まくりをして白い肌が露出し、普段ボブの髪は低めのポニーに結ばれている。
そんな可愛い女性が、俺んちのキッチンで料理をしている。
しかも、彼女曰く、「……昨日の、お礼……」だそうで。つまりそれは俺のためだけにわざわざ買い物に行き、料理をしてくれているのに他ならない。
ただ、忘れてはいけないのは、昨日彼女が財布を落としたという事実だ。そのことについて尋ねると、「……鞄の底にあった、ポイントカードで足りたから……」とぎこちなく答えた。ちなみに財布は警察には届けられておらず、ポイントも残額はほぼ使い切ったそう。俺はそのことを咎めたかったが、彼女のどうしても、という気迫に押され、材料費の半分を肩代わりすることで話が落ち着いて。
……まぁ、とにかく。
その女性、叶戸先生は、小気味のいいリズムで野菜を刻んだり、ボールで何かをこねたりしている。少し前にお米と具材を投入した炊飯器からは、いい香りのする蒸気が出てきて、思わずお腹が鳴ってしまう。
……なーちゃん、料理できたんだ。手際、めっちゃいいなぁ。
本当に不思議な感じだ。ついこないだまで遠い過去の人物であった人が、教育実習生に成っていて、いつの間にか料理までできるようになって。ちょっと意外というか、全然実感がわかない。
そんなことを考えていると、キッチンから叶戸先生がやってくる。近くで見るエプロン姿がめっちゃ可愛くて、思わず見惚れた。
あまりにも凝視しすぎただろうか、叶戸先生は俺の視線から自身を守るように抱き、
「…………そんなに、見ないで」
「あ……み、見てないです!」
俺は慌てて視線を逸らす。
ガン見がバレた恥ずかしさ身もだえするが。
「……ひなくん」
遠慮がちな、叶戸先生の声が、俺に語り掛ける。
「あの……よかったら」
「……味見、してほしいな、って」
意外な言葉に俺は振り返り、
「……いいの?」
叶戸先生は恥ずかしげに頷き、
「……私、……味付けに自信がなくて。……それに」
一層顔を真っ赤にして、言う。
「……ひなくんの、好みにしたい……」
思わず俺も、赤面せざるを得ない。
勘違いしそうになる自分の心を、必死に説得する必要があった。
……い、今は『お礼』のためにしてくれているのであって、断じて好意とかじゃ!
「…………わ、わかりました。そこまで言うなら、味見させていただきます」
「……お、お願いします」
照れ隠しに何故か丁寧になる言葉遣い。考えるとさらに輪をかけて恥ずかしくなるので、俺は無心のまま叶戸先生の後に続く。
見るとシンクには水にさらされたレタスやトマト、ガスコンロには深めの両手鍋が火にかけられていた。
「……ちなみに、メニューは何ですか?」
俺が質問すると、叶戸先生は指折り数えながら、
「……野菜ピラフとお豆のサラダ、あとメインは……トマト風味のロールキャベツにしてみた……」
「おおー、なにそれ、めっちゃテンション上がりますね!」
「……全部洋風にしちゃったけど、大丈夫かな?」
「もちろんですっ。なんか匂いだけでもう、ありがとうございます」
かしこまって頭を下げる俺に、「……さすがに、気が早いよ」と叶戸先生が控えめに笑った。エプロン姿と相まってますます可愛い。ああ、なんだろうこの至福のひと時。
「……ピラフはもう炊飯器に入れちゃったから、後で。まずは……ロールキャベツとドレッシング、お願いしようかな」
コンロにかけてあった鍋の火をいったん止め、ふたをとる。大量の湯気が立ち上り、トマトソースの濃厚な香りが鼻孔をくすぐり、
「……美味しいです」
「……まだ食べてないでしょ……」
感嘆の声を漏らす俺を、叶戸先生がたしなめる。
でもだって、さすが美術教師というか、とにかくその料理は造形が綺麗で堪らなかったのだ。どんな作り方したら、こんな均一でかつ一点の歪みもないロールキャベツが成型できるのか。これは料理だが、どちらかというと芸術の域で、作品だった。正直食べるのがもったいないくらいだ。天才肌にもほどがある。それほどに見た目には完璧な出来だった。
「……じゃあ、その」
叶戸先生が俺にスプーンを差し出す。
「……どうぞ」
受け取った俺は、緊張のあまり手が震えてしまう。十年ぶりに再会した幼なじみが、なーちゃんが作ってくれた手料理。……どんな味がするんだろう、色々考えてしまうが、俺はそれを打ち消して、なんとか鍋からトマトソースを慎重にすくい出し、湯気が出ていい香りのソースをそっと口元へ運んで……、
「あ、待って」
叶戸先生の制止に思わず手を止めた。ちょっとだけ拍子抜けだ。
………しかし、次の瞬間。
横から叶戸先生の頭がふいに近づき、そのまま少し前に傾く。俺の手元へ落ちかかる横髪の後れ毛を片手で押さえ、伏せ目になった艶のある表情で小さく口をすぼめ……そして。
「……ふぅー、ふー……」
「…………」
触れそうなくらい近くで、俺のスプーンへと息を吹いた。
熱くなったスプーンとは正反対の涼しい風が、俺の指先をかすめて少しくすぐったい。充満するトマトの香りとは別の、とんでもなくいい匂いを脳が知覚し。
「……はい、……いいよ?」
離れていく頭といい匂い、残されるトマトソース。
突然の出来事についていけず、フリーズしていた思考がやっと戻ってきて。
……なに、今の……?
たった今行われた行為を理解するのに、数秒かかる。理解できた瞬間、俺の顔は秒速で火が出るよりも真っ赤になった。
あまりの恥ずかしさに俺はあわあわと目が泳ぎ、挙動不審になる。そんな俺の様子に気付いた叶戸先生は、「?」と、しばらく不思議そうに俺を見つめてから、
「……あ……」
焦ったような表情で、いつもより数倍くらい顔を着火させた。
「……火傷とか、大変だからっ。……それだけ……」
「は、はい。わかってますッ」
「…………」
「…………」
「……は、はやく済ませて」
「……は、はい」
「……」
「……お、おいしゅうございます」
「……それは、どうも」
「……」
「……」
その後も続けざまに俺は、叶戸先生に言われるがまま、ぎこちなくサラダの手作りドレッシング、炊き上がったピラフの味見役を担うのだけど。
……もちろん、味なんて分かるわけがなかった。
「……じゃあ、いただきます」
「…………」
拝むように念入りに手を合わせてから、まずはロールキャベツにスプーンを一入れする。芸術品のようなキャベツがしなやかに割れて、中から挽肉の肉汁が流れ出る。俺は一口すくって口へ運び、
「めっちゃ美味しい……ってか、めっちゃ好みの味」
「……本当? ……よかった……」
ホッと安堵したように脱力する叶戸先生。お世辞じゃなく、めちゃめちゃ美味しい。特に味を加えたりしなかったし、本人は否定するだろうが、料理上手と言って差し支えないと思う。空腹と相まって思わずがっついてしまう。
「……ゆっくり食べてね。……私も、いただきます……」
叶戸先生も加わり、二人で食卓を囲む。一人暮らしになってから久しぶりの誰かと食べる夕食に、いつもより箸が進む気がする。もちろん、料理が美味しいのもあるが、改めて実感した。……誰かとゴハンを食べるっていいことだ。
「……あのね……」
叶戸先生が遠慮がちに口を開く。
「……迷惑じゃなかったら、明日、お弁当作ってもいい?」
「えっ」
意外な提案に、俺は思いがけず箸を取り落としそうになる。
「……そんな、無理しなくていいですよ、昼は購買で何とかなるし、……それに先生も実習で大変なのに……」
「……大丈夫、……お料理、慣れてるから。全然へっちゃら。……ただ……」
叶戸先生は少しトーンを落とし、スプーンでトマトソースをくるくるしながら、
「……味は自信ないから、薄味で。それでもいいなら。……あ、でも、各自で調整できるようにソースとかケチャップとか用意して……」
「どんだけ味覚に自信ないんですか」
俺は思わず笑ってしまう。味付けも含めて料理なのに、なんだか矛盾だ。これほどの腕前のわりに変に自信だけがない様子が、なんだかとても可笑しく感じる。
「……味付けだけは、担当外なの……」
視線を逸らし、ムキになったように先生が言う。その様子があまりにいじらしいので、思わずまじまじ見ると、むー、と照れた顔をして、
「……はい」
両手でなぜかケチャップを差し出してくる。照れ隠しなのか、顔を茹でだこくらい赤くしてそっぽを向いてしまった。……なにそれ、可愛い。
……ここまで言ってくれているのだから、断るのは悪いかな……。
「……じゃあ、お願いしようかな……」
俺がそうこぼすと、
「うん」
十年前に見た、心底嬉しそうな時の笑顔で、叶戸先生は笑った。
食後のキッチンで、俺は一人、泡立ったお皿と鍋を温水で皿を流す。作ってくれた人に片づけまでさせるものか、と断固として皿洗いだけは譲らず、今、叶戸先生には少し休んでもらっているところだ。
……明日は、お弁当かぁ……、楽しみだなぁ……。
自然と口元が緩み、先ほどの叶戸先生の笑顔を想起する。加えてその前の『……味付けだけは、担当外……』の時の照れた顔……。
考えると、なんだか改めてドキドキしてきた。だって思い返すと今日の叶戸先生の発言はなんというか、……いちいち意味深なのだ。
『ただいま』って、いつかは言ってもよくて、自分から手料理を作ってあげる途中に、咄嗟にふーふーしてあげて、かつお手製弁当を作ってあげたい存在って、本当にただの脈ナシ幼馴染なんだろうか。それとも、やっぱり……。
……、
やっぱり俺に……こ、好意とかあるのだろうか、……ってナシナシ。
俺は今一度自身の顔を叩き、気を引き締める。
何を隠そう、これからお風呂と睡眠タイムという試練が再度やってくるからだ。浮ついた気持ちのまま望んだら三原則もクソもない。……けど。
俺は一人、布巾片手に自問自答する。
……あくまで『仮に』の話だけど。
『仮に、叶戸先生が、俺のこと好きだったら』
……どうしよう。
叶戸先生は初恋の相手だし、替えの利かない幼馴染という間柄だから、何の見返りがなくたって、きっと俺は彼女を助けたいと思う。でもそれは、俺の一方的な罪悪感への償いとしての感情で。確かに叶戸先生は可愛いけれど、改めて今でも彼女が好きか、と問われると、俺は正直、なんて答えたらいいかわからないのだ。
だから、どうしよう。
昨晩の『しゅき』の一件は、気にしすぎるほど気になるけど。
でも俺は、いざその真意を確認したとして、その後一体どうしたらいいんだ? ……付き合う? ……いや、今朝も言われた通り、教育実習生と生徒はそういう関係になってはダメだ。結局は迷惑をかけてしまう。なら、真意なんて本当はあえて聞かない方がいいのではないだろうか? ……いや、でもこのまま悶々としてるのも……、うーん。
思考が煮詰まったところで、俺は自分が食器拭きを終えてしまったことに気付いた。閉めたはずの蛇口からポタポタと、水滴が落ちるのでノズルを締め直す。
……ま、とりあえず明日は、純粋に叶戸先生の手作り弁当を楽しめばいいか。
思考を安易に放棄して、俺は叶戸先生が待つリビングへ足を運ぶ。
視界の端には、久しぶりの登板に向けて肩を作るリリーフピッチャーのごとく、綺麗にされた弁当箱が置かれていた。
その時は、思いもよらなかった。
――翌朝作られた叶戸先生の弁当が、あんな事態を引き起こす、なんて。
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