第13話 挨拶
***
翌朝、俺は緊張の中で快晴の通学路を進み、校門を目指す。平日の水曜日、特になにか行事があるというわけでもないのに、学校前の並木道は生徒でごった返していた。
そんな生徒の様子に不思議がる一方で、俺は内心冷や汗を垂らし、数十分前の出来事を回想する。
「あ」
気が付いた時には、すでに遅かった。
その少し前、昨晩眠れなかったせいで二日分の睡眠を一晩でとった俺は、寝ぼけ眼を擦っていた。そこへいつものようにスーツ姿の叶戸先生が現れ、囁くように一言。
「……お弁当、置いてくから」
今思えば確かにそうだ。彼女は何も間違ったことは言っていない。……ただ。
叶戸先生が先に家を出てしばらくした後、俺がキッチンを通ると、そこにはお弁当箱が二つ置いてあった。一つは昨日準備した俺のと、……あともう一つは小ぶりなオレンジの弁当箱。
……いや、確かに置いていきましたね、自分のも。
俺はため息と共に、寝癖をポリポリと掻く。
……さすがなーちゃん、相変わらずの天然っぷりだ。きっとこのまま指摘しないと、昼食の時間まで気付かないんだろう。さすがにそれは可哀想なので早めに連絡を……、
そこまで考えた俺は、はたと気付く。
……あれ、俺、叶戸先生の連絡先、知らなくない?
今まで必要になる機会がなかったせいだ。そういえば一昨日彼女のスマホを見てから、その存在を忘れていた。過去とかどう想ってるとか、色々なことで頭がいっぱいで、連絡先を交換する、という些細だけど重要なことをすっ飛ばしていた。よくよく考えれば、スマホでつながっていれば昨日もわざわざ待っていることなんてなかったのだ。俺は自分の要領の悪さに心底辟易して。
……じゃあ、仕方ないから弁当は、学校で直接届けるか。
そう思ってきたのだけど……。
校門まで二十メートルのところで、俺は頭を抱える。生徒指導の一環、通学指導が行われていたのだ。何てことない、いつもの冴えない表情の教師が、輪番制で立って挨拶をしているだけの、日常風景。気にする生徒など一人もいない。……はずだったのだが。
「……おはようございます」
「お、おはよう……ございますっ」
スーツ姿の美少女が微笑みかけ、挨拶された生徒が思わず目を奪われ、挨拶を返す。生徒から挨拶が返ってきたことが嬉しかったのか、美少女がその白い頬をほんのり染めて再び笑みを返す。
その光景が、あまりにも神々しくて、男子も女子も、上級生も下級生も、はたまた教師までもが足を止め、その瞬間を見物していく。さながら路上ライブ中の芸能人みたいだった。
そして、その中心にいるスーツの美少女は、……もちろんなーちゃんだった。
いつにも増して混んでいた通学路の原因も、これで判明した。全員が全員順番待ちでもするように、校門から列を作って並んでいたのだ。普段は歩行者天国のごとく無法地帯に等しい校門前も、今日は誰からともなく整然としていて、別の施設みたいだ。
しかし、その中で俺はたった一人、この状況に誰よりも焦りを感じていた。
……こんなに人がいる中で弁当なんて渡したら、いくら従弟の設定でもさすがに無理がある。仮に演技をするにしても、前もって言ってない状況で叶戸先生が対応できるかは未知数だ。下手すれば昨日みたいに自爆してボロが出かねない。
……でも正直、朝を逃したらもうチャンスは昼休みだけになってしまう。昨日の夜、叶戸先生が今日のスケジュールは一日授業見学で、ずっと出ずっぱりになると言っていたからだ。昼休みに会えるかどうかは賭けなので、できれば朝のうちに……。
俺は必死に頭を巡らすが、有効な解決策などすぐに浮かぶわけもない。そうこうしているうちに列が進み、順番が近づいて。
「あれ? 花倉もそれ、並んでるの? ……従弟なのに」
横から咎めるような声がして振り向くと、列の外側に平沢がいた。俺の方をじっと見て何かもの言いたげな視線を送ってきていた。
……まずい。
「……まさか。……何も考えずに後ろに並んだら、抜けにくくなってただけだから」
ウソじゃない。半分は真実だ。俺は弁当の件で並んでいたのであって、何も叶戸先生の挨拶を受けるために、わざわざ列に並んでいたわけではないからだ。
言いながら俺は人ごみをかき分け、平沢の元に行く。
平沢はそんな俺を気に留めず、すたすたと歩き出してしまう。
……どう考えても、今弁当を渡すのは得策じゃない。昼休みにするか。
俺は後ろ脚を引かれつつ、泣く泣く今朝のコンタクトを諦める。列をスキップするようにして外側を進み、平沢を追う。列に属していない生徒は数人しかおらず、驚くほど何の障害もなく、校門へたどり着いた。
その時、視界の角っこでは、今順番だった人への叶戸先生の挨拶が終わり、次の生徒が前へ……、
「…………あ」
なーちゃんと、目が合った。
揺れる大きな瞳で俺と平沢を交互に見て、俺達が列を飛ばして中に入ろうとしたことに気付いたようだ。……そして、
「……………………」
その瞬間、その場の誰が見ても誤解のない、表情の変化がそこにはあった。
心から嬉しい、を具現化したような穏やかな眉尻が、見る見るうちにハの字に落ちて、しゅん、と哀愁の色をのせる。何かをここまで残念がる人間の表情を、俺は見たことがない。叶戸先生はそのまま沈んだような表情で下を向いてしまう。とてつもなく酷いことをした気がして、思わず胸が痛んだ。
同じことを、周囲の全員が感じたようだ。次の瞬間、その共感はそれを引き起こした張本人である俺と平沢へ、非難の色を持って向けられる。
『お前ら、叶戸先生になんて表情させてんだ謝れコラ』
多分そんな感じだろう。聞かなくてもわかる。というかわざわざ目線で言われなくても、俺自身が充分後悔の念に駆られている。
横目に見ると、どうやら平沢も同じようだった。ばつの悪い顔をして俺に目配せをし、
「「……先生……、おはようございます……」」
その瞬間、またしてもその場の全員が証人となるほど明確に、叶戸先生の喜びが表情になる。見ているこっちがホッとするような笑顔で、目を線に鼻まで赤くして、叶戸先生が言う。
「……おはよう……ございます……っ」
その朝、叶戸先生の人気は全校で不動のものとなり、お弁当を渡すのが、ますます困難になった。
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