第61話 お願い
「……え、ちょっと、……ひなくん?」
「……」
湯気の向こうからは、何の答えも返ってこず、代わりにうっすらと見えるのは、なぜか湯船の中で立ち尽くしている、ひなくんのシルエット。
「……ええと、どうかした?」
「……わかりました」
「え? ……何が、」
「やっぱり俺、何もわかってなかった」
「?」
「……どんなに考えても、もがいても、所詮相手の気持ちなんて、辿り着けないものなんだと。わかったつもりでいたけど、でも、予想以上だった」
ひなくんの言ってる意味が、わからない。
首をかしげる私に、
「……だから、もういいです」
そう、口にしたひなくんが、
「あ、え」
一歩、一歩、湯船の中を私の元へ。
「もう、考えるのやめにする。今、伝えなきゃ、……手遅れになる」
「え、ちょっ、ひなくん? ……なんで、近寄って……? ……こ、ここ湯船だよ!?」
頭がパニックになる私。
慌てて胸元のタオルを引き上げ、自分の身体をかばうように、ひなくんへ背中を向ける。
しかしひなくんは、焦る私の調子にまったく合わせることはなく。
「……関係ないです、もう。ここが、どこでも、なーちゃんが、何を考えてても、考えてなくても変わらない」
「……か、関係ある! あ、あんまり近いと、……は、恥ずかしいから!」
その距離、半ば一メートル。
さすがに羞恥心に耐えられなくなった私の喚きに、
「じゃあ、俺も、反対を向きます。……それなら、聞いてくれますか?」
「……そ、それなら、なんとか」
「……」
背中越しに、また少しだけ緊張の色が感じられて。
「なーちゃん、俺のお願い、聞いてくれませんか」
「……お願い?」
「もう一度、実習生になってくれませんか?」
「……!」
「俺、もう一度見たいんです。なーちゃんが、叶戸先生が、みんなと楽しそうにしてるとこ。……昔の、記憶の中でのなーちゃんは、確かにいつも楽しそうだった。……でも、思い返すとそれは全部、俺のためにしてくれてたことなのかも、って。俺のために、俺が喜ぶように。そういうのはすごく有り難いですけど。……でも、」
後ろから、短い深呼吸の音がする。
「……俺……もう、泣くだけの、ガキじゃない」
「――」
「頭を撫でてもらわなくても、『大丈夫だよ』って慰めてもらわなくても。……半人前だけど、ちゃんと一人暮らしもできる。下手くそだけど、一人で絵も描ける。……なーちゃんに助けてもらわなくても、俺は歩いていける」
「……」
蘇る、同居生活の記憶。
料理も最初こそ私が作れど、後半はなんだかんだ言って、ひなくんに頼っていた。不格好で武骨だけど、彼のお弁当はちゃんとお弁当だった。
「……そう、だね」
「……だから、もう、俺のことなんて、気にしなくていいんです。俺のことなんか気にせずに、……自分のやりたいこと、やればいい。……先生、言ってたじゃないですか。『ぜんぶ、やりたい』って……」
その声は、少しだけ強がりが見え隠れして、
「みんなも言ってました、『叶戸先生と学校祭したい』って。特に平沢なんか、怒ってた。勝手に帰ったことを、この選択だけは『クソだ』って。『絶対に連れ帰ってこい』って念押しされたんです。叶戸先生を待ってる人が、たくさんいるんです、あそこには……」
「……」
「……ダメ、ですか?」
エコーのかかった声が、震えていて、私の胸を突く。
なんて真摯なんだろう、と、一瞬心を緩ませかけるが、
「……ダメだよ」
そう答えた私の声もまた、震えていた。
「……だって私、甘えちゃうから……」
「……マリちゃんにも言われるけど、私、世間知らずだから……」
「大学生にもなって、宿もとれない。貴重品の管理もできなければ、居候をすることでかける迷惑も、想像できない。できるのは、絵を描くことと、付け焼刃の教師の真似事だけ……」
「そんなこと……」
「そんなこと、ある。……わかってるでしょ、ひなくんも」
「……」
言いながら、情けなさに涙腺が緩む。
「助けが必要だったのは、私のほう。何もかも計算が甘くて、誰かに頼らなきゃ、満足に実習もできなかったのは、私。ひなくんじゃない……」
「……自分でも、わかってるよ? 私のせいで、ひなくんが、倒れちゃったこと」
「私やっとわかった。大事な人に倒れられる側の、……気持ち」
「今まで、どこかで自分だけが一番不幸だと思ってたの。……でも、違った。わかったの。大切な人が苦しんでる方が、何倍もツラいんだって」
「……初めて、思ったの。私、ひなくんにだけは、病気になってほしくない。……ずっと、どこまでも純粋で、一生懸命なままのひなくんでいてほしい。……そう思ってたはずなのに、私が迷惑をかけることで、結果的に、一番真逆のことをしていたの。……だから、私は戻れない。……これ以上一緒にいたら、私がひなくんをダメにしちゃうから」
「……」
「……ごめんね。……なので私、教育実習に戻ることなんて、できな……」
「――なーちゃん」
「!」
突然、耳元でした、ひなくんの声。
浴槽のお湯が揺れ、平坦だった湯面は数多の波をつくる。
遅れて感じたのは、肌の感触。
ひなくんの手が 私の貧相な手首を掴み、
「――」
そのまま生じる引力で、私をひなくんの方へと。
驚いて顔を上げると、ひなくんの濡れた大きい手が、私の頭をすっぽりと覆い、
固い肩。
ぎゅっと、それでいて優しく私を包み込む、ひなくんの身体。
温泉で火照った彼の体温が、触れる私のおでこにその熱を移し。……って、
「ひひひ、ひなくん!? おお、お風呂でそういうことは、さ、さすがに…!」
「……そんなの、どうだっていい。気にしない」
さらに強く抱きしめられる感触。
「!」
あまりの熱量に、私は脳が沸騰したかと錯覚するほど、言語も思考も失ってしまう。そんな中、一つの記憶だけが私の頭を占領する。
かつて十年前、別れ際にひなくんにした、ハグのこと。
あの時触れた彼の腕も胸も、今と変わらずとても熱かったことを、今さら。いや、むしろ身体が覚えていたのかもしれない。
自分でも信じられないくらいドキドキしているのに、不思議と安らぎがあって落ち着く。
おかしいな、と思っていると。
「……大丈夫だよ、なーちゃん」
頭上から、優しいひなくんの声が届いた。
「たしかに、なーちゃんは甘い。常に脇が空いてるし、一見優等生ぶってるけど、世間知らずで、努力家で。わかってます。正直心配だし、こっそりついてきたマリア先生の気持ちもわかります。……でも」
「それに甘えてるのは、俺の方なんです」
「泣くことしかできなかった俺に、約束してくれた。その約束を守るために、俺が傷つかないように、見えないところでたくさん、自分の人生をかけて、俺を守ってくれた。ずっと、そんなこともわからずに大人になった気でいた俺が、一番甘えてる」
「だから、たった今終わりにします、甘えるの」
「もう、逃げるのはやめにします。わかってるのに曖昧にしたり、やるべきことを先延ばしにするのは、終わりにする。……ダメダメな自分も、他人のことなんか全然わからない自分とも、ちゃんと向き合う」
「『なーちゃんのせい』? ……違います、絶対。……俺が倒れたのは、俺が甘かったからです。俺が、自分をちゃんと見られていなかったから。俺のせいなんです。そういうことを、ちゃんと認めて。認めたうえで、自分が本当に欲しいものことだけを考えて、ちゃんと生きる。……そう、したいと思います。俺は半人前だから、時間がかかるかもですが、でも、必ずそういう風になれるように。……それで、もしなれたら……その時は」
その一瞬の間に垣間見えるのは、溢れるほどの誠実さ。
でも、それ以上に。
「今度は俺が、なーちゃんのことを甘やかします。世間とかがいくら厳しくても、俺だけは絶対に、なーちゃんの味方になる。できなかったこと、やってみたかったこと、今まで無くした分だけ、苦しかったこと全部、忘れさせるくらいに。得られなかったもの、全部俺が倍にします。甘やかして甘やかして、もう充分って言われても、その上をいく幸せを感じられるように」
「……だって、俺」
言葉を切り、そっとひなくんの肩が私と距離をとる。
立ち込める湯煙の中、ただ、ひなくんの瞳が、私を見つめて。
「……なーちゃんのこと、世界一可愛いくて、仕方ないんです」
「――!」
思わず、震える。
言葉の意味を何度もなぞって、確かめて。
その意味がはらむ危険な熱に、みるみるうちに私は焦がされて。
「……なので、覚悟、しといてください」
それはきっと、十年前から、ずっと聞きたくて。
「なーちゃんがしてくれた時間よりも、ずっと長く」
紡がれる一つ一つの言葉が、少しかすれたその声が。
「今度は俺が、なーちゃんのこと、甘やかします。人生かけて、ずっと。しつこく、いつまでも……」
どれもこれも、ひたすらに私の真ん中を捉えて、譲ってはくれない。
「だって俺、」
「――なーちゃんのことが、好きだから」
「――」
驚きに目を見開いて、その顔面を凝視する。穴が開くほど見つめても、彼の顔は緊張して、紅潮して、でもいつになく真剣で。そのことを自覚した次の瞬間、私は、へなへなとその場に崩れ落ちる。力なく地面に座り込み、両手で自分の頬に触れる。
……ずるい。
ずるいよ、ひなくん。
そんな顔で、そんなことを言われたら。
ああ、もう。
ダメだ。
逃れられない。
どんなことを言われても、何があろうとも。
私はもう、ひなくんだけがいい。
他の誰かが、目に入る可能性なんて、微塵もなくなってしまった。
手遅れだ。
きっと私は、捕虜にでも、なってしまったのだ。
……いや、違う。
顔が熱い。熱すぎて息苦しい。どんどん熱が上昇し、最早ゆでだこのように真っ赤になった顔を、彼にだけは見られないように、必死に隠して。
でも同時に溢れ出す、押さえきれない想い。
背反する二つ感情に挟まれた私は、どうしていいかわからず、
熱を帯びた顔を両手で隠したまま、聞こえるか聞こえないかの声で、一言だけ。
「…………しゅき」
――たぶん、人質なんだ。
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