第60話 お風呂
◇◇◇
「 」
「 」
湯煙の中。
互いの身体を覆うのは、バスタオル一枚だけ。
脱衣場で別れたはずのひなくんと、思わぬ形ですぐに再会した私は、半端じゃなく気が動転して、無我夢中で背を向ける。
『『――こ、混浴だったこと、忘れてたー!!』』
やってしまった。
いや、そんなちょっとしたミスを反省するくらいの言葉では、今の状況を表すことはできない。
でも、とりあえず何よりも。
……た、タオル巻いておいてよかった!
心底安堵しつつ、同時に自分がほぼ裸同然でひなくんの近くにいることに、信じられないくらいの羞恥心を感じる。
……た、たしかに言ったけど、『ひなくんがいい』って言ったけど! ……何この展開、神様、ぜったい頭おかしい。
動揺しているのは、どうやらひなくんも同じようで、
「……あ、ああの! 俺、一回出ますから! ……っておわッ!」
後ろで、べち、と豪快にこける音が聞こえ、
「ひ、ひなくん大丈夫!?」
「あ、ちょ……」
そこで、私たちは向かい合う。
幸いにも、大事なところはタオルで守られて見えないながらも、初めて見るその身体は、私が思っていたよりもずっと筋肉質で。
ごつごつした関節が、強烈にひなくんを男の子だと意識させて。
……目が、離せなくなる。
「……」
「……」
「…………あ、の」
「……はい」
「し、死ぬほど恥ずかしいんですが……」
「うあ、……ご、ごめんねっ!!」
やっと、視線ごと身体を背ける。
心臓が、壊れそうなくらい早鐘を打ち、自分がたった今していたことの恥ずかしさに全身が熱くなるのがわかった。
そんな私の心情を、知ってか知らずか。
「……えと、なんか、俺たち、だけみたいですね」
「……え、そう、みたい……だけど……」
「…………」
「……」
「……あの」
慎重に何かを探るような声色で、
「……じゃあ、……こ、このまま入りませんか、い、いっそのこと……」
「………………へ?」
その言葉の意味を、理解した瞬間、
「はええ!? ……あ!? ……いい!?」
もう一度脳が沸騰して、私は言語すら失い、
「ひひひ、ひなくんのえっちッ!!!」
真っ赤になって喚く私に、
「そ、そそれは、……至極、ごもっともなんですけど、……でも」
「その……、二人きりで、話がしたくて」
「……どうしても、話したいことだから。このままうやむやになるのは、嫌だなっって思って……」
「……って、何言ってんだ俺。……こんなの、どう考えても頭おかしいですよね、すみません。やっぱ俺、今すぐ出ま……」
「待って」
お風呂場の壁に反響して、思った以上に声が響く。
「いい、よ」
「え……?」
「……その、……話、だけなら」
ヒノキ風呂、というやつだろうか。
木目が温泉でふやけて、滑らかになった浴槽に、半透明のお湯が絶え間なく流れ込む。
そんな湯船の中にある段差に腰掛けて、一辺の端と端に距離をとって。
「……話、聞きました。……その、病気のこと」
「……」
「……そっか」
「驚かないんですか?」
「うん。……ひなくんとマリちゃんが、一緒にここに来た時ってことは、きっとそういうことなのかも、って……」
「……ええと、すみません」
「どうして謝るの?」
「だって、その、隠してたのに……」
「……仕方ないよ、マリちゃんだもん。……私には何も言わずに、実習にもついてきてたくらいだし……」
「……」
天井の水滴が、ぽたりと水面に落ち、波紋を広げて。
「それで、どう思った?」
「え?」
「……ひなくんは、どう、思ったの?」
「……」
「……たしかにびっくり、しました。最初は後悔して、自分へ憤りもしました、……でも」
「……でも?」
白く立ち込める、湯気の向こうで。
「……同時に少しだけ、安心したんです。。やっぱりなーちゃんは、なーちゃんだって」
シルエットだけ見える彼が、どことなく微笑んだ気がして。
「……」
「……それは、誉め言葉なの?」
「……再会してから、……なんとなく、別人みたいだと、思ってましたから。……見た目も、中身も」
「そ、それを言うなら、ひなくんだって……っ!」
思わず立ち上がりかけ、私は思い留まる。
タオルを巻いているとはいえ、さすがにお湯で体のラインが出てしまうと大変だ。何が大変かというと、もちろん恥ずかしいからだ。
「…………」
黙り込む私を窺ってから、ひなくんは、
「……そうですね」
「たしかに、言う通りです。いつかも言ってましたけど、変わらないものなんて、ないと。その通りです。俺も変わった。なーちゃんも、変わった。この十年で、立派な叶戸先生へ……でも」
「昔から、変わっていないとこも、確かにあった」
「俺は、俺です。昔の俺も、今の俺も。いくら背が伸びて、勉強を覚えても。どんなに小手先のところが変わっても、……根本では変わらず、変われず相変わらず、俺なんです。……なーちゃんも、きっとそう、でしょう?」
「……」
「……マリア先生から話を聞いて。それで、改めて確信しました」
「叶戸先生は、なーちゃんのままだった。自分では、変わったって言ってたけど、……ずっと、なーちゃんは変わらなかった。叶戸先生は相変わらず、いつも突拍子なくて、でも優しい、昔から俺が大好きだった、幼なじみのなーちゃんだった……」
不意に、お湯を掻く音がして、私はハッとする。
見ると、少しだけ晴れた湯気の向こう、ひなくんが私をじっと見つめて。
「なーちゃん」
「……ありがとう、変わらないでいてくれて」
「……っ」
彼の言葉と、広がるお湯の波紋が。
「……ありがとう、知らせないでいてくれて」
ゆっくりと水面を移動して、私の肌に届く。
優しく、私を包み込む。
「なにより……」
「……ありがとう、ずっと、俺の、幼なじみでいてくれて」
「……………っ」
ぽたり、と水滴が水面に落ちる。
次から次へと、湧き上がって、止まらない。止められない。
「……っ、……うう」
その響きが持つ柔らかさが、温かさが。
一人で戦ったあの時間の全てを、肯定してくれているように感じられて。
「……どんなに否定されても、拒まれても逃げられても、変わらないです。今までも、そして、これからも、ずっと」
湯気の向こうで、もう一度、彼が笑う。
「俺は、きっと、なーちゃんに、『ありがとう』って言いたいんです」
それはまるで、十年前に約束した、あの時のようで。
無垢で、純粋で、いつだって輝く、
私がずっと見たかった、太陽そのものだった。
「……こっちの、セリフだよ」
濡れた両手で涙をぬぐい、
「ありがとう、ひなくん。……私を、助けてくれて」
ありったけの思いを込めて、私も言う。
「……これからは、その、色々と気を付けます。救ってもらった命を、もう一度、ちゃんと大事にできるように……」
「……」
ひなくんが急に、押し黙る。
「?」
あまりにも不自然なタイミングに、不思議に思った私が、声をかけようとした時。
「えと……それで、……その」
ようやく口を開いた彼は、どこか緊張しているようだった。
「……どう、なったんですか?」
「どうって?」
「……それは……その、」
しばらく言い淀んだ彼は、意を決したように、
「……お、お見合い、してたんですよね?」
「うッ」
忘れていた。
そもそもここに来た目的も、半ば強引に勧められたとはいえ、忘れられないひなくんのことを整理しようとかそういう理由だった気がする。……かと言って、本人にそのことを伝えるのは、気が引けるし。
「そ、そうだね……」
「……なんというか、その……」
「う、上手くいった、感じなんですか?」
「え……」
いつもよりぎこちない聞き方と、少しだけ赤らんだ彼の顔。
……なにその顔、かわいい。
などと、まだ涙も乾かぬうちに、私の思考はいとも簡単に奪われる。
……ああ、やっぱり私って、とことんひなくんに弱いんだなぁ、なんて。
長年染みついた慣性で、私はその考えをすぐさま打ち消して。
「……上手くいったかどうかは、わからないけど」
とりあえず、何も考えずに事実だけを伝えてみる。
「……最後になんか、……プロポーズ的なものをされたような、されなかったような……」
ザバァァァ。
「!」
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