第59話 必死

 ◇◇◇



「――ひな、くん?」


「――叶戸、先生……」




 言葉が、出てこない。


 まるで、夢を見ていると錯覚するほど。


 目の前に現れたその存在に、私は心底、混乱していた。


 どうしてこのタイミングで、彼がいるのか。


 だってお見合いなのに、こんなところまで? しかもよりにもよって、私がたった今、人生をかけて片想いを続ける決意をした、張本人がくるなんて。もう無茶苦茶だ。神様、私にいったいどうしてほしいというんだろう。


 などと、頭の中が一瞬にしてごちゃごちゃになった。でも。


「あ」


 ひなくんの鼻から一筋、赤い線が垂れる。


 一コンマ遅れて、その正体が、血だとわかって。



「……だ、大丈夫!? 怪我っ!?」


 瞬間的に頭の中が真っ白になって、気付くと駆け寄っていた。



「え、いつのまに……」


「いつのまにじゃない! ……他は? 痛いとこない!?」


 荷物から取り出したティッシュで、彼の鼻をぬぐうと、


「あ、えと。……ありがとうございます」


 思わずほっと、息を撫でおろす。


 よかった。ぱっと見る限り、特に鼻血以外は、異常がないようだ。


「……じっと、して。……こより、入れるから」


 その時。


「……えーちょいー、……あーしの心配は、ナシ?」


 運転席のドアが開いて、細身の女性が現れる。

 その姿も、口調も。私を本日ここに連れてきた黒幕であることに他ならない。


「……ま、マリちゃ」


 私が驚いてその名を呼ぶよりも早く、


「――マリア……ッ!」


 周囲の全員が驚くほど鋭く、隣にいたガブリエルさんが、血相を変えてマリちゃんに駆け寄る。

 それに気づいたマリちゃんが、これまた血相を変えて、焦ったように。


「……う、あ、や、やっほーガブちゃんっ。……え、えとこれにはその、訳がッ……!」


「そんなことは、どうでもいい!」


 しかし、ガブリエルさんはその反応をガン無視して、マリちゃんの手を取り、


「折れてる……!」


「え、……マジ? あ」


 見るとその手首は、傍目にぞっとするくらいの角度に曲がっていて、



「いい、痛ったああああああああああ!!」

「動くな、バカ。……ほら、じっとしていろ」


 全く動じない現役の医者が、手際よく荷物の中から包帯を取り出し、添木と手首を固定する。


「ちょ、自分でできるし!」

「あ? 血液内科のくせに強がるな。小児科のオールラウンド感なめんなよ、このギャルが」


 吐き捨てるように、荒っぽく言うガブリエルさん。

 観念したのか、「うっせ、ジジイ」とだけ漏らしてマリちゃんが大人しくなる。



 ……。 


 なんだろう、この空気。

 

 目の前には、二台の廃車。その傍らで、二人の医者が互いを罵倒しつつ、しかし気遣いをして、片方が片方を素早く応急処置をする。


 その光景は、なんともシュールだけど、どことないイチャツキ感というか。


 少なくとも、久しぶりのひなくんとの再開には、あまりにも場違いすぎて。



「……」

「……」



 私も、ひなくんも、続く言葉を失ってしまった。



 無言の中、横目で盗み見る。


 ……久しぶりの、ひなくんの顔。



 途端に、心が温かくなる。明るくなる。暗い靄がかかっていた視界が晴れるみたいに。


 ……でも。



 だからこそ、私は、彼を離れると決めたのだ。



 ひなくんは、ずっと、私の、太陽だから。



 ……私なんかがその輝きを、消しちゃいけないから。



 そう思って、身を切り裂かれる思いで、あの部屋を後にしてきたのに。



 ……ッ。


 たまらない。


 だって、私、今、こんなに嬉しくて。


 同じくらい、今、こんなにも泣きたい。



 ……ダメなの、ダメなの。



 そう、自分に必死に言い聞かせて。



「――――ッ」



 突拍子もなく、私は、駆け出す。




 ……逃げよう。ひなくんの前から。




「……えっ?」




 このまま、走って、走って。



「叶戸先生ッ!」



 ……揺らぎそうになる決意を、失う前に。




「ちょ、カナッ! どこ行く!? そっちは!!」




 耳を塞いで、その声に足を止めたくなる誘惑と戦って、



 このまま、彼の前から、永遠に。



「――!」



 やってくるはずの足下の反発が、消えた。


 その瞬間、身体のすべての感覚が鋭敏になって、自分が崖から足を踏み外したことに気付く。


 


 街灯のない真の暗闇が、私の目の前に広がって。



 ……落ちる?


 この高さから、岸壁へ?

 

 何度も感じてきたはずの死の輪郭に、



「……ッ!!」



 恐怖のあまり、目を閉じる。

 


 その時だった。



「―――――ッッああああああああああああああ!!」




 温かい手。


 昔はずっと、小さくて、手の中に収まるくらいだった、大好きな手。


 

 その手が、勘違いのしようのない感覚で、



 しっかりと、私の手を掴む。




 見ると、彼の顔が私の真上、正面にあって。


 必死に両手で私の手を手繰り寄せるようにして、



「――なーちゃんッ、」



 ……やめて。そんなのずるい。



「――なーちゃあああん!」



 ……呼ばないで、これ以上、お願いだから。



「は、離して!」

「――イヤです!」

「このままじゃ、二人とも落ちるから! ならせめて、ひなくんだけでも……」


「――絶対、イヤですッ!」


「……っ」


「――俺、離さないから、」



 なにかが、降ってくる。


 降り始めの小雨のような、微かな水滴。


 彼の目に光る、宝石の粒が、次々と私の頬をたたき、



「――もう、二度と! なーちゃんのこと、離さないからッ!」



「……ひなくん」


 手が、ゆっくりとずれ落ちる。

 ひなくんの指先が、痛いくらいに私の手を締め付けて、その間を縫うように、無情にも滑り落ちて。


「くっ、あああッ」


 苦悶に歪むその表情が、零れる涙が、


「ひなくん……」


「なーちゃんッ、うううああ」



 全部、神様からのご褒美だと思った。


 

「ひなくん」



 ようやく目が合う。


 その可愛い眼もとには、涙がいっぱい溜まっていて、


 私も、泣けた。


 でも、がんばって笑おう。



「……ひなくん」



「ありがと」



「――ッ!」



 指先が、彼の体温を離れる。


 不思議と、怖くはなかった。


 きっと、視界の中いっぱいに、大好きな人がいてくれるから。


 ……でも、ごめんね、ひなくん。




 ――私は、生きなきゃだったのに、最後まで、守れなかっ……。




「――ぐおおおおおおおおおッ!」


 

 間近で聞こえるうめき声に、顔を上げる。


「……ガブリエル、さん?」


 長身の従兄さんが、その長い腕を伸ばして、私を支えていた。


「勝手にあきらめんな、……お前、それでもペドか!」


「なんで……」


「お前、言ったよな、『本当にそれでいいのか』って。その言葉、そっくりそのまま返す!」


 返答するよりも先に、もう一つの細い腕が私を掴み、


「ふっ、ざけんな! ……こんなとこで、こんな形でアンタを失うために、あーしは、アンタの、……アンタの家族になった覚えはないんだよ!」


 自慢のアイメイクをボロボロに涙で流した、マリちゃんが一喝する。


「――意地でも、落としてやんない! あがいてもがいて苦しんで、幸せになるまでは、絶対に!! あーしがアンタを、落としてやんないからッ!」


「マリちゃん……、……ッ」


 上から落ちてくる涙が多すぎて、もう自分のと、ぐちゃぐちゃだった。


 そんな私を、



「――なーちゃん、生きて! 俺と、俺たちと一緒に、……生きてッ!」  


 

 精一杯、両手を伸ばすとともに。

 宙づりになっていた身体が、徐々に引き上げられて。


「……っ!」 


 足裏に再び地面の感触を感じる。

 私を含めて全員が、その場に倒れこんだ。窒息寸前の人みたいに荒く、それでも安堵の息を漏らす中、


「ばかばか、カナのばか!」


「……死んじゃうかと思ったじゃん!」

 

 体当たりかと思うくらいの勢いで、マリちゃんが私に抱きつく。涙と鼻水で崩れたその顔も、馴染みのある香水の香りも、どうしようもなく優しくて。


「マリちゃん……」


 私も負けじと、抱きしめ返す。


「ごめん、……ごめんね。……マリちゃん、ごめん。……でも、助けてくれて、ありがとう」

「……謝るくらいなら、最初から、落ちるなし。……でも」


 向かい合い、マリちゃんが笑う。


「……よかった」


 たまらなく胸の奥が、温かくなる。

 もう一度、涙の波が押し寄せてきそうだったが、しかし、どうしても見過ごせない事柄があって。


「ところで……あの」


「……手、だいじょうぶ?」


「え?」


 見ると、先ほど固定したはずのマリちゃんの手首が、再び折れ曲がっている。いや、むしろさっきよりも酷くなったような。


「うわあああ、いたああああ、やば、やばあああ! 麻酔!麻酔打って!」


 唖然とするひなくんと私の目の前で、ガブリエルさんが軽々とマリちゃんを身体ごと抱きかかえ、


「……と、冗談はこれくらいにして、俺はこのバカをタクシーで病院に連れていく。この調子だととりあえず大丈夫だと思うが、一応な。……お前らは気にせず、まずは、その泥だらけになった身体を洗ってこい」


 そう言って私たちに背を向け、すたすたと歩き出す。



 取り残された私は、ひなくんと目を合わせ、



「あの……えと、その……」




「……じゃあ、……とりあえず、お風呂、いく?」


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