第57話 接近
***
……どうしよう。
ガクガク、と自分の膝が震える音がする。
車窓の外では、街灯に黄色く照らされた夜の首都高が、ロマンティックに右から左へと流れては消えていく。それとは対照的に耳に入るのは、もはやヒステリックと言えるほど、限界まで酷使されたエンジン音だ。もしも車が生き物なら、間違いなく悲鳴だろう。そんな音が、かれこれ二十分以上は、ひっきりなしに車内へ響き渡る。
その音を聞きながら、線のように繋がる光を眺めながら、俺は今一度シートベルトをしっかりと両手で握りしめる。けして感傷に浸っているのではない。いや、むしろ感傷に浸れるくらいの心の安定があるのなら、たった今俺にも分けてほしい。
否。
そんな俺よりも、百倍くらい心の余裕がない人物が、隣にいた。
「しょしょしょうねん!?」
「前にめっちゃ遅い車がいるんだけど!! このままだと追突するうう!!」
半分悲鳴のような声が響き、ギャルメイクをバッチリ決めたはずの御厨さんが、半べそで俺の方に振り返る。
「は、早く追い越して!! ウインカー!!」
「どこどこウインカー出すのどこぉ!? ハッ!?」
「いやあああ!?!?」と御厨さんがサイドミラーを指さし、
「後続車が! 後続車があああ!」
「ちょっ! ま、マリア先生とりあえず前!!!」
「めっちゃ車間詰めてきたあああー!? ってああああ前! 前ええ!」
「!?」
フロントガラス一面に映し出される、車のバックドア。
ものすごい勢いで近づくその光景を、
「うおおおお!!」
「ぎゃああああー!?」
強引に運転席の横からハンドルを取り、右に切る。
ゴォ、と風が切れる音がして、なんとか衝突を逃れる。
――し、心臓止まるかと思った。
ぎりぎりで窮地を脱し、
一息つこうとしたのも、束の間。
「ちょおおお!? 後続車ああ! 後続車がついてくるうううー!!」
ギャルかつ医師という強キャラが、叶戸先生の過去を語るという重要人物の彼女が。
「もおおおおおお! いやああああ!!!」
絶叫しながら泣きわめき、ハンドルを斜めに切る。
同時にしっかりアクセルを踏み、さらなる加速と、荒れ狂うメーター。心なしかノードノイズの音も、大きくなった気がして。
再びシートベルトを固く握りしめ、俺は脂汗をだらだらと流す。
……気を抜いたら、死ぬ、マジで。
三十分前。
「……」
タワマンの地下駐車場。
目の前でアイドリングするそれを目前に、俺は思わず言葉を失った。
失礼だと言われても仕方ない。悪いのは勝手に想像したこっちである。
……ただ、
「ほら、乗りなよしょうねん! 時間が惜しいっつの」
御厨さんが指さした先には、
バリバリの軽。薄いピンクがかった車体。いわば可愛い系。しかも、シートとかにハートとスペード柄があしらわれてて、内装がめっちゃ可愛いTHE乙女の車。
……思ってたのと、少し違った。
てっきり、お金持ちの御厨さんのことだから、〇ンボルギーニとか、スーパーカーか何かだと。
……しかも、
「さあ、いこか!」
ぶううううん!
……。
盛大に音が鳴り響くが、一ミリも進んでない。
「あ、あはは、……なぜに?」
「あの、ドライブにギア入ってます?」
「あ、そ、そうじゃん! なんだもーあーし、うっかりしすぎー」
「……一応聞いておきますけど、マリア先生、運転歴は?」
「……、」
「もち! ペーパー☆ドライバーでえす!」
「……」
「大丈夫! ちょっと走り出せば、すぐ思い出す系だから!」
「あああああああああああああああああ!!」
「いやあああああああああああああああああ!」
夜の高速を、爆走軽自動車がぶっちぎる。
法定速度を軽く上回るスピードで、まったく減速することなく、コーナーに突入し。
「ぎゃああああああああああああああああ!」
その運転にブレーキという言葉は、存在しない。
あるのは、アクセル、ハンドリング、アクセルの繰り返しのみ。
走行車線と追い越し車線を蛇行するようにし、次々と前の車を追い越しては、ますます加速して。
……死ぬ! マジで死ぬ!! いっそ殺して!!
冗談じゃなく、さっきから俺はずっと、死を覚悟している。半端ない勢いの遠心力に振られるたび、走馬灯みたいなのが見えるのも、真剣に時間の問題だと思う。
どうやらそれは運転者も同じようで、
「しょおおおねええええええええんん」
「なんですかあああああああ!」
「最初に声をかけられたときいい!!!」
「ええええええええ!?」
「あの時はあああああ! 本当にぃいいい!、やけになって酔っぱらってたからあああ、優しく声をかけてもらって正直いいい、」
「抱かれてもいいと思ったああああああ!!!!」
「…………」
「マリアせんせえええええええええ」
「なにいいい!」
「運転中にいいいい、しかも年上に向かってなんですがあああああああ!」
「ええええええ!」
「ねごとはああああ、寝て言えええええええええええ!!」
「うあああああ! ふられたああああああああ! ぴえええええええんん!!」
「ちょおおお、お願いだからああ、ハンドルは握っててえええええええええッ!!!」
◇◇◇
「……と、いう感じです。……すみません、長々とこんな話……」
「………」
「あ、あの?」
「……本当、まったくだ。……正直話題が延々と十年前の『ひなくん』の様子になった時、心底どうしようかと思ったぞ」
「……う……」
相変わらず一切のオブラートもない感想に、私は少々面喰いつつ、
「…………、それで、……どう思いますか?」
「どう、とは?」
「ええと、だからその……、私は、どうしたらいいと……」
少しでも解決の糸口を掴めれば。
そう淡い期待を込めて聞くと、
「さあ。そんなのは知らん」
「え!?」
思わず声が出た。
だってあんまりではないか、『話してみろ』と言われたから話したのに。……大切な思い出から些細な記憶に至るまで、せっかく恥を忍んで話したというのに。これでは、歩く先から、目の前で床板を外されたようなものではないか。失礼にもほどがある。
などと、一瞬で噴出した不満を、心の中で爆発させていると、
「そもそも、人生に『どうしたらいいか』なんてあるのか? それは自分自身で決めることだ。あるのは君が何を望み、何を諦めるかの二つだけだ。……そんなの、他人に聞く方がおかしい」
「……それは、……そうですけど」
確かに言う通りだと思う。ぐうの音も出ない。
マリちゃんに『整理してこい』と言われて、その時はピンと来なかった。
でも、改めて今、こうして第三者に話してみて、ようやく実感が湧いた気がする。
必要なのはあくまで整理であって、解決ではないのだ。だってもう、終わってるから。投げ出した教育実習も、無理させて傷つけたひなくんのことも。何をどうあがいても変えられない『失敗』の二文字が、どうしても受け入れられない自分の弱さが。
全部諦めなきゃいけないのは、わかってる。
……でも。
目を閉じてただ飲み下すには、あまりにも、彼の存在が大きすぎるのだ。
「…………」
俯いて、黙り込む。
よっぽど辛気臭い顔をしていたのだろうか。
「はぁ」と深いため息が聞こえたかと思うと、
「……まぁ、なんだ。……とりあえず元気出せよ。人に理解されない性癖なんて、案外誰にでもあるもんだ」
……ん?
「……せ、性癖? ちょ、話聞いてました? 何のこと?」
突如かけられた不審な単語に、私は思わず聞き返し、
「……あ? だって要するに、こうだろ? 君は遠距離恋愛の彼氏にフラれた、『ペド』女だと……」
「ペドじゃありませんッ!!」
その失礼すぎる意味に、私は顔を真っ赤にして抗議する。
「……これは、失礼、言い直す。『ショタコン』の……」
「違います! ……全然変わってません! な、何言ってるんですか、本当!」
「君こそ何を言ってる。……ペドとショタの定義はかなり異なっていて……」
「そんなの聞いてません! とにかく違いますから!」
はー、はーと息が荒くなる。
同時にキッと、従兄さんのことを睨みつける。
……大切な、ひなくんとの思い出を、ペドだ、なんて。
ひどい。
あまりにもひどい。
確かに年齢差はあれど、こちとらそんな邪な気持ちでひなくんを眺めたことなんて、ないというのに。
……などと、煮えくり返る腹の内を隠しきれない私に、
「……まー、認めないなら、それでもいい。俺にはどうでもいいからな。……ただ何にせよ、問題は一つだ」
「……君がその彼氏を忘れたいのか、そうじゃないか。……どんな過去があって、どれほどの想いがあってとかは、まったく関係ない。……ただ君自身が、どっちを望むのか。まずは、そこだ。それ以外ののことは、この際忘れてしまった方がいい」
「……私が、……ひなくんを、忘れる?」
言葉にしただけで、胸が痛んだ。
いつだって、瞼の裏にいた人。
いつかは、と、ありもせぬ未来を妄想し、再開したギャップと、でも確かに感じられる彼の面影と香りに、悶え、悩み苦しんできた日々。
……それを、全部、忘れろっていうの?
「……っ」
両手で身体を抱くようにして、想像を絶するような恐怖と空虚に打ちひしがれる。
それこそが、何の偽りもない自分の本心だった。
……でも、この答えこそが、何よりも今私を悩ませ、地面に足を釘付けにしているもの、そのもので。
「……忘れ、たくない。忘れたくなんか、ない。……でも」
涙腺が緩み、視界が霞んだ。
「……忘れなきゃ、いけない。……だって、忘れなきゃ……」
「いいんじゃないのか、忘れなくても」
顔を上げる。
従兄さんが、相も変わらず冷静な顔で、
「忘れたくないのなら、忘れない方がいい。……それよりは、忘れないままに人生を歩む方法を考えた方がいい。……絶対に手の届かないものを見続ける人生は、楽じゃないが、けして悪くはない」
私は、目を瞠る。
「……そう、ですかね?」
「ああ。少なくとも、俺はそう思う。自分の気持ちを変に誤魔化し続けるくらいなら、いっそのこと開き直って、永遠の片想いに恋焦がれるほうがよくないか? たった一度の人生だ。後悔を乗り越えずに生きることだって、立派な生きる道だとな」
「…………」
まじまじと、彼の顔を見る。
その言葉に感じる妙な説得力が、私に一抹の疑問を投げかけ、
「……片想い、してるんですか、あなたも?」
従兄さんは私をチラリと一瞥し、
「まあな」
「実は俺、……ロリコンなのだ」
「はッ!? ……え、えええええ――ッ!?」
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