第65話 最終日
***
実習最終日。
目覚めると、まだ外は暗かった。
時間を確認すると、午前五時。最近ずっと朝が早かったせいで、早起きが習慣になってしまったようだ。俺は寝ぼけ眼をこすり、ベッドから起き上がる。壁を手で伝いながら、ぎこちなく照明のスイッチを入れて、
「……あ」
そこでようやく思い出す。
すっかり寝ぼけて忘れていたが、昨日は実家に泊ったんだった。ここは俺の部屋だけど、いつもの部屋ではない。今頃、俺の部屋では、叶戸先生が最後の支度に励んでいることだろう。
部屋を出て、階段を降りる。
「あら、アンタ、……おはよ」
不意に話しかけられ、驚いて目を向けると、
「……おはよう、父さん」
「いつになく早いわねー。前はこんなに早起きだったかしら?」
痩身の中年男性もとい、俺の父親が、早朝からヘアバンドをして顔面をマッサージしている。みると机の上には化粧水やら、高保湿液やらが乗っており、
「……父さんの方は、相変わらずだね」
何を隠そう、うちの父親は化粧品メーカーに勤務するオネエだ。美容のことに関しては人一倍感度が高く、もう五十代だというのに朝から肌作りに勤しんでいる。
「……まぁね。人間歳をとると、何事もルーティーンから外れられなくなるものだからね」
「……そういうもん?」
「そうよ? だから大事なのは、早めに習慣にしちゃうことかしら、っと」
キュポン、と小気味のいい音を鳴らして、化粧品のふたを閉め、父さんが笑う。
「……さて。アンタもしてく? 久しぶりに」
リビングに隣接した、六畳の和室。
その一面に飾られている仏壇と、そこに立てかけられた一枚の遺影。
チン、と金属と金属が触れ合う音がして、
「…………」
俺たちは両手を合わせ、目を閉じて祈る。
祈る先は、もちろん、母だった。
「……何か月ぶりかしらね、アンタ、全然帰らないんだもの。きっと、母さんも喜んでるわ……」
「……そう、かな?」
「そうよ。……あの人はああ見えてね、結構寂しがりやだったんだから」
「え」
思ってもみなかった。
だって自分の見てきた母親は、いつだって優しくて、気丈だった気がするから。
「そうなの? ……初耳なんだけど」
「初めて言ったからね。入院してた時なんてね、夜中に病室抜け出しては、しょっちゅう電話かかってきたものよ。大した話題もないのにね。……なんて」
「……」
父親の横顔を、改めて見つめる。
今まで考えたこともなかったが、この人はある意味、あの東京であった小学生側の人間だったのだ。
どんな想いで、病気の母と、彼女の死と、向き合ってきたんだろう。
そんなことも、俺はまだ、全然知らない。
「……他にも、まだまだあるわよ。聞きたかったら、ちゃんとたまには帰ってらっしゃい」
「……」
たしかに、それもいいと思った。
今まで、思い返すとツラくなるからと、無意識に避けてきた、母の話。
色々なことに、向き合うと決めた今。
これからは少しずつ、それとも向き合っていきたい、と。
……でも。
「……あのさ」
俺は、口を開く。
「……お願いが、あるんだけど」
今は、とりあえず。
どうしても、話さなければいけないことがあるから。
「――行ってきます」
身支度を終え、玄関の扉を開こうとする俺に、
「ちょっと待ってください」
リビングの奥から声がして、
「……忘れ物です。……お兄ちゃん」
いそいそと弁当袋を手渡してくるのは、真中だった。
「……え、いいのに。急に帰省したのはこっちが悪いから」
「いいから受け取ってください。ここまでさせておいて、持っていかない方がかえって失礼なんですからね」
制服にエプロン姿で、真中が口を尖らせる。
「……まぁ、平沢さんの美味しいお弁当を食べ慣れたお兄ちゃんには、口に合わないかもですが」
「……」
思い出す。
以前真中が押しかけてきた時、俺は結局最後まで真中に本当のことを言わず、あれからずっと、騙し続けたままになっている。
本人もきっと、どことなく違和感に気付いていただろうが、なんだかんだ追及せずにいてくれたのは、正直助かった。いくら気の置けない妹とはいえ、そんな相手にいつまでも本当のことを教えないのは、すごく不誠実に思えて。
「あのさ、真中」
そう、意を決して話しかける俺を、
「あ、結構です」
「え」
あっさりと手の甲を見せて返したのは、真中の方だった。
「お兄ちゃんみたいに、下半身がただれた人との会話なんて、朝から重たすぎるので。心が胃もたれするから、さっさと『いってきます』してもらってもいいですか?」
「……お前、いくらなんでもそれは、実の兄に向かって、辛辣過ぎない?」
「……仕方ないでしょう? 事実なんですから」
眼鏡のずれを直して胸を張る妹。
その様子にどうにもムッときてしまった俺は。
「あ、言い忘れたけど、俺、好きな人ができたんだった! ……年上の!」
多少わざとらしく、年上を強調して告げてみる。
誤解を解かないままに聞くと、間違いなく『下半身がただれた人間』だけど、それで真中に一泡吹かせられるなら、それでよし。
そう、思っていたのだけど。
「……へぇ、そう……」
あれ?
おかしい。今までの真中だったら、ここは、
『と、年上ですと!?』
などと、一気に取り乱す場面だと思ったのだが。
そんな俺の予想を大いに裏切るように、
どういう心境の変化か、真中は俺に、なんとも朗らかな表情で。
「……ま、……とりあえず、がんばんなよ、……お兄ちゃん」
小さく手を振る真中の姿は、いつもの世話焼きの母親代わりではなく、ちゃんと普通の妹のようだった。
「きりーつ、れー、ちゃくせーき」
午前中の美術室に、号令が響き渡る。
集まった生徒は、二クラス合同のいつもの美術の授業メンバー。もちろん、俺もその一員だ。
しかし、今日に限って参加者は、俺たち生徒だけでなく。
教室の後方には、古松をはじめ、教頭や校長、その他の多数の教師が集まっていた。何もしていなくても圧を感じる、その異様な空間だった。
何を隠そう、この時間が、延期になっていた研究授業で。
……叶戸先生にとっての、最後の授業だった。
意識すると、かえって俺の方が緊張してきた。
周囲を見回すと、どうやら俺だけじゃないみたいで。
でも、
そんな教室の雰囲気を、
「はい、よろしくお願いします。……あれ、みんな、なんか表情硬いよ? ……おかしいなぁ、いつもは授業のどこかで、必ず誰かが『ヌードデッサン』って言ってくるはずなのに……」
ぷ、と思わず笑い声が漏れる。
俺を含めた数人の反応が、次々と周囲に伝染する。気が付くと、あっという間に空気が変わって。
「……もちろん、残念ながら、今日もヌードデッサンはないけど」
そう前置きした叶戸先生の顔は、余裕とやる気に満ちていた。
「……今日は、みんなで、別のものを丸裸にして、実際に作っていきたいと思います」
はきはきと話すその姿は、これまで見てきた叶戸先生とは、まるで別人のようで。
「それが、これ!」
教卓の上に置かれた布の目隠しを取り、その中から現れたのは。
「……あ………」
思わず、声が漏れる。
そこにあったのは、細かい細工で作られたカラフルな住宅のミニチュアで。
『建築模型』
そう黒板に書き出された字に、俺はいつかの画材屋のでの会話を思い出す。
『……いいなぁ。俺、こういうの、一度でいいから作ってみたい……』
「……みんながいつも何気なく使っている建物。学校も、家も。デザインするときには、建築模型が使われています。……ちなみにこれ、私の手作りです、すごいでしょ?」
「……とはいえ、全部作るのは時間がかかるので、今回はモンタージュというか、あらかじめ部品を用意したので、それを使って空間のデザインに取り組んでみたいと思います」
生徒がみんな、その精巧な模型に視線を奪われる。
その様子を、後方にいる教師たちが、うんうん、頷きながらメモを取っている。
……しかしながら。
いつの間に、こんなの作ってたんだろう。
知らなかった。
……まさか、授業の題材に選んでいたなんて。
そのとき、叶戸先生と視線が合って、
彼女が、にっこりと微笑む。
それで、確信した。
……覚えてて、くれたんだ。
今、授業中なのに。
俺はどうしようもなく、胸が温かくなった。
その日の午後。
いつかのように、全校生徒が、体育館に集まる。
延々と続く壇上の校長の話など、もはや誰も聞いていない。
その場にいるほぼすべての生徒が、かつて彼女がやってきた時のように、スーツ姿の教育実習生の姿に目を奪われている。
「……それでは、叶戸先生、お別れの挨拶を……」
「……はい」
マイクの前に立つ、小柄で線が細く、それでいて誰もが振り返るほどの美少女。小さく咳払いをしてから、
「……正直に言うと、この三週間、不安で不安で仕方ありませんでした。いろんなことに悩んで、失敗もたくさんしました。私のせいで迷惑かけたことも、たくさんあったかと思います。……でも」
声の輪郭が震えるのは、いつものことだけど。
「……そのたびに、私、みんなに助けられて。たくさんたくさん、元気をもらってきました。先生方からの熱いご指導も、全部が全部、……本当に、私にとってかけがえのない学びの機会で。……あの、わた、……わたし」
今だけは、きっと違う。
そのことを、その場にいる誰もがわかっていた。
「……すごく、幸せでしたっ。……ここであったこと、全部、わたし、本当に嬉しくて。……これからも、もっとがんばろう、勉強しよう、って思うことができました。……こんな言葉では、まったく足りないことはわかっていますけど……」
教育実習生が、言葉を切り、
「……みなさん、本当に、三週間ありがとうございました!」
濡れた目元を隠すかのように頭を下げる。
どこからともなく、拍手が始まり。
気が付くと、体育館全体が、拍手の渦に包まれていた。
「……あいさつ、よかったよ! 感動した!」
「ねえ、いかないで!」
「ほんと、まだいてよ! かなぎちゃん!」
ホームルームでは、もらい泣きした多数の女子生徒に、もみくちゃにされ、
「……うん、……うんッ! ありがとう!」
その様子に、さらなるもらい泣きをした叶戸先生が、泣いて、笑う。
そんな、男子が割って入るには、物凄く難易度の高い雰囲気の中。
「……え、えーと、叶戸先生」
クラスを代表して、俺が、叶戸先生に声をかける。
「……、ひなくん?」
「……え、えーと、その、なんていうか……」
「?」
上手く言葉が出てこない。
そんな自分に戸惑い、言い淀んでいると。
「おーい花倉ー! シャキッとしろよー」
「ホント! せっかくみんなで用意したんだから、無駄にしないでよね!」
次々飛んでくる、激励か野次の言葉の数々。
「……ようい?」
叶戸先生が、不思議そうに首を傾げて、
「……はぁ」
完全にもう、退路は無さそうだと。
俺は、観念して、後ろ手に持っていた色紙と花束を差し出し。
「……ええとですね、俺たち、C組からの、寄せ書きです。……叶戸先生、その、これからも、頑張ってくださ……」
「うおおーい、心こもってねーぞ!」
「何照れてんだよ、花倉マジウケるわ!」
言葉と共に、クラス中で湧き上がる笑い。
でも、その中には、たしかに優しさのようなものもあって。
以前はこういうの、苦手だったけど、
……今は、不思議と嫌じゃない。
「……あ、……ありがとうっ」
「かなぎちゃーん! みんなで写真とろッ!」
「え、……うん!」
「はい、古松、お願いね!」
「……こうなることは、完全に予想してたぞー俺はー」
黒板の前。
前列の机は、適当に周りへ寄せてしまって。
強引に作り出したスペースに、生徒たちが各々並ぶ。
……彼女を、囲んで。
「あいー、とるぞー、さん、に、いちー」
パシャ。
その画像の中のなーちゃんは、いつかの写真よりも、ずっとずっと笑顔だった。
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