第3話 失敗

 ***




 通り雨だと思った雨は未だ降り続け、その勢いは弱まるどころか次第に強くなっていた。一向に止む気配がないので、とりあえず俺と叶戸先生は公園の東屋あずまやに退避した。雨がトタン屋根を叩く規則的な音が、俺達の間にある沈黙をいくらか和らげてくれている。


「……一応、確認なんですけど」


 俺はそう切り出して沈黙を破り、「……さっきの、って、……その、そういう意味で捉えていいんですよね?」


 ひなくん、と呼ばれたからには、先生は俺の予想通りなーちゃん本人なんですよね?

 本当はそう聞きたかったのだが、上手く言えなかった。その証拠に、ビクンと反応した叶戸先生は真っ赤な顔をして、


「さ、さっき? ……そ、そういう意味って、……何のことを言っているのかさっぱり……ッ」


 こちらに全く視線を合わさずに歯切れ悪く答える。にしてもなんでそんなに焦っているんだろう。俺は観念して言語化から逃避したい自分自身を脇に押しやって聞き直す。


「……つまり、……その……先生は、なー……なーちゃん……ってことで、合ってますよね?」


 負けないくらいの歯切れの悪さ。ていうか高校生にもなって『なーちゃん』と発声するのは、ちょっと抵抗があり、でもその情報は本人確認には切っても切れないわけで。……結果尻すぼみに小声になっていくという情けない失態をさらした。

 しかし叶戸先生はというと、


「……あ、そっち?」


 意表を突かれた、というでも言うように、目をパチクリさせていた。そっち、とは一体どういう意味なのか、今度は俺がさっぱりわからない。


「あの、そっち、って?」

「……なんでもない、こっちの話」


 叶戸先生はそう言ってから立ち上がり、俺に背を向けた。

 それから少しだけ振り返り、


「……合ってるよ? …………ひなくん」


 それは、俺が長年待ち望んだ光景そのものだった。

 初恋の少女が大人になり、俺の前に姿を現して、その瞳が俺を見ている。

 横顔が少し赤く見えるのは、多分、照れ隠しか、それともブラウスの白さに対比した錯覚からか。とにかく、なーちゃんが再び目の前にいることに、心が揺れた。


「……ひさしぶり」

「……う、うん。……久しぶり」


 ずっと再開の時を想像していた。もっと色々考えると思っていた。長年の不満や疑念が噴出して、もっと感情的になるかもとも思った。でも実際の現実は自分でも不思議なほど何も思いつかず、ただ、あるのは再会の喜びだけだった。


「……おっきくなったね」

「……そちらこそ」

「……カッコよくなった」

「……えと、……そっちは、綺麗に」

「…………それは……どうも……」


 言葉が上手く出てこない。それは向こうも同じなのか、俺達は視線を合わせずに、しかしチラチラと互いを盗み見て会話する。確かに相手は見知った幼馴染なのだが、あまりにブランクが長いせいで、何を話せばいいのかわからない。それに……。


『……ひなくん……ッ』


 先ほどの光景が脳内に蘇る。同時に未だ残っている彼女の柔らかくて強力なハグの感触と熱を思い出し、途端に顔を逸らした。


 ……ヤバい。このままでは、せっかくの再会だと言うのに、まともに顔も見られない。高鳴る胸の鼓動が、本当に煩わしい。というか、そもそも自分の決意を翻してまでここに戻ってきたのは、呑気にドキドキするためじゃない。


 ごほん、と俺はわざとらしい咳ばらいをする。


「……それで、困ってるのは……どういう?」


 なーちゃん、と語尾に加えようとして、止める。なんというか、いざ本人だとわかっても、口には出しずらい。

 叶戸先生は決まりの悪い顔をして、


「……すこし、マズったの……」


 そのまましばらく黙った後、ブラウスの肘を抱えた手で擦りつつ、


「……あの、バカにしたりしない?」

「しませんよ。当然です」


 いくらか迷った後、意を決したのか、「実は……」


「……確保してたはずの短期下宿の予約が、……一年後だったの」


 ――そりゃだいぶやっちまったな。

 

 思わず口に出しそうになるのをなんとか堪えた。叶戸先生は真剣そのものなので、軽々しくツッコミなどできるわけない。にしても相当なヤラカシだ。都心から地方都市に教育実習に帰省する大学生はよくいる中で、正直中々聞かないミスだ。


「……で、今はちょうどどこも満室で使えないらしくて。マンスリー賃貸とかも探したんだけど、よりにもよって全部ダメみたいで……」

「……なるほど……」


 俺は少し考えてから、


「……なら、とりあえず安いビジネスホテルとかは?」

「……そう私も思って、……手頃なとこ行ってみたんだけど、……その……」


「……財布、無くしちゃって」


 ……うわぁ。


「お金もそうなんだけど、身分証も無くなっちゃったから、……その、成人だって信じてもらえなくて、結果、借りられなく……」


 なんと悲惨な。ここまで不運が重なると、さすがに笑えない。


「……だから、最終手段として、……その、野宿を……」


 まずは身分証だけでも回収しなくては。となると、まずは警察か。そしてその後には……って、ちょっと待て待て。


「……今なんて言いました?」

「……だからその、野宿をしようかと……」

「……どこで?」


 叶戸先生は取っ手を握ってスーツケースを引き寄せ、苦し紛れに笑みを作る。


「……こ、ここで」


 ……。


「なっ……」

「な?」


「何考えてるんですかっ! ダメに決まってるでしょう!」


 思いのほか大きな声が出て、叶戸先生がビクっと驚く。


「……そうかな? ……ここならお金もかからないし、雨風も多少はしのげるし。それに、ほら……人生で一度くらいアウトドアを経験するのも……」


「そういう問題じゃありませんっ」


 俺の鋭い声に、叶戸先生がまたビクついた。


「……この辺、一見閑静に見えますけど、地味に犯罪率高いんです。不審者とかしょっちゅう出るし、夜遅い時間になると、柄の悪い酔っ払いも多い。……そんなところになーちゃ、……叶戸先生みたいな可愛い女性が野宿なんて、生身で猛獣の檻に入るより、ありえない話ですッ」


 ……ましてや、雨に濡れた状態の女性を。

 そんなの、どっちに転んでも危険以外の何物でもない。


「……そう、なんだ。……でも、じゃあ、どうすれば……」


 ガクっと肩を落とし、ベンチに膝を抱くようにして座る叶戸先生。さっきから何度かしているようにブラウスの肘や肩をさする。そこで俺は、ようやく気が付いた。


「……先生、……もしかして、寒い?」

「……えっ、……そんなことな――くしょんっ」


 小さなくしゃみを二回続ける叶戸先生。その目は潤み、頬には赤みが差している。

 ――まるで、風邪でもひいたみたいに。


 自分の愚かしさに、反吐が出そうだった。再会の喜びに気を取られ勝手に意識して、相手の体調が悪いことに注意も向けられなかった。冷静に考えたらわかることだ。全く相手の立場になんて立っていない、俺は何も変わっていなかった。猛烈な後悔と申し訳なさに、打ちのめされそうになる。

 

「……大丈夫。……後は自分でなんとかできるから……心配してくれてありがと」


 無理やり笑う彼女を見て、俺は思う。

 どうすればいいか、簡単な答えにはとっくにたどり着いている。

 金銭的な負担がなく、安全で健康面の心配もない、事前の予約も必要のない宿泊できる場所。かつ明日からの教育実習に通う支障がないほどの遠さで。そんな場所が俺には一つだけ心当たりがあった。

 ……ただ、別の問題がある。

 

「……先生、……叶戸先生……いや」


 でもそれは、もしかしたら俺の幼稚な幻想が問題にしているだけで。


「なーちゃん」


 相手にしてみたら、本当は問題にもなってなかったのかもしれない。



「……良かったら……俺の家、来る?」



 例えば意識をしているのが、俺だけなら。昔から俺だけだったなら。彼女にとって俺は年下のガキでしかないのなら。

 その問題は、問題じゃなくなる。後は、俺自身の問題だ。


「……もちろん……嫌じゃなかったら」


 息を呑む音が聞こえ、叶戸先生が顔を上げる。

 先生の顔は相変わらず朱色に染まり、宝石みたいに輝く涙目は、どうしようもなく俺の心をざわつかせる。見れば見るほど、見つめれば見つめるほど、幻想は俺の中を右往左往して、まだ見ぬ真実から遠ざけていく。


 でも、その混沌の中、たったひとつわかったことがある。


 俺を惑わず幻想の源、消え入りそうなソプラノの声が、俺に。


 ささやくように静かに、


「…………やじゃ、ないよ……?」と言ったのだ。




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