第4話 バスタオル
***
無数の水滴がユニットバスの壁を叩く音が遠くで聞こえる。ボイラーの燃焼音が鈍く響き渡る中、俺は落ち着きなく部屋の中をウロウロしてみる。
確かにこれは、簡単な解答だ。手軽でお金もかからず、健康面の不安もない。
……しかし。
ふいに音が止まり、俺は息を呑む。心臓の鼓動のギアがやむなく上がり、再び感じられるシャワーの気配にほっと息をつく。
……異性が、しかも美少女が、俺の独り暮らしのアパートでシャワーを浴びる日が来るなんて。
今さらながら思う。問題だ。大問題だ。その証拠に叶戸先生が入室してからというもの、俺の心臓はずっとドキドキしっぱなしだ。今も否応なく想像が掻き立てられるシャワー室の光景を、打ち消すのに忙しい。
「……Dカップ……」
自分の頬を思い切り平手打ちする。ヒリヒリと顔面が痛むが、それくらいじゃないとこの不埒な心を自制できない。恥を知れ恥を。叶戸先生、なーちゃんの信頼を裏切る気か、このバカ。
そこで俺は玄関に来た時のことを想起する。
「……えっ」
叶戸先生は、焦ったように声を上げた。
「……どうしたんですか?」
「……あれ、ひなくん……って……一人暮らしなの?」
「……そうですけど……、って、あ!」
そこでようやく俺は、自分が一人暮らしであることを説明しないまま提案してしまったことに気が付く。となると叶戸先生が焦るのも当然だ。なーちゃんは昔何度も俺の実家にきたことがあったので、そっちをイメージするのは想像に難くない。
「……ごめん! ちゃんと伝えてませんでした! ……高校進学と共に社会経験ってことで親元離れてて……、も、もちろん騙すつもりなんて全く無かったんで!」
我ながら胡散臭すぎる。こんなのどう考えても、若い女性を連れ込むための言い訳だ。
「……や、やっぱり、やめときましょう! 今から俺がATM走ってお金貸して、割高でも別のホテルとかを……ッ」
俺はスマホを取り出しあくせくと検索を始めようとする。しかし、叶戸先生は俺の手を取ってそれを制止し、こちらに目を合わさないまま、アパートのドアを真っ直ぐに見つめ。
「…………だいじょうぶ。……おじゃま、します」
耳まで真っ赤にしてそうささやく。思わず、俺も顔が熱くなった。
――その後、家の敷居をまたいだ叶戸先生にすぐさまシャワーを勧め、今に至る。
何度考え直しても、この状況は俺の節操への信頼で成り立っている。だから変に聞き耳を立ててシャワー音を聴いたりなんてしないし、彼女の裸を俺ん家のシャワーから出たお湯が叩く様を想像したりなんて、しない。してはいけない。絶対に、だ。
「……あ、あの」
「ひゃ、ひゃいッ!! なんですかッ!」
突然の呼びかけに声が裏返る。見ると脱衣場のスライド扉が数センチだけ開いていて、奥から声が聞こえる。
「……申し訳ないんだけど……バスタオル、いいかな?」
「はい! あ……ええと」
「スーツケースに、入ってて……」
「了解です! お、お待ちを!」
返事をしてから気が付く。
――お、俺、女の子のスーツケースを開けるのか、開けていいのか!
無骨なスーツケースを前に一人立ち尽くす。
や、本人の頼みだからいいんだろうけど。……でも、そういう問題じゃないのだ、男子心の問題なのだ、なんて。
俺は数秒逡巡した末、
ガチャリ。
恐る恐る鈍色のカーボンケースを開き、適度に整頓された荷物をごそごそまさぐっていく。
ポーチ、充電ケーブル、資料集なんかも目に入る。そしてようやくバスタオルにたどり着き……、って、すぐ横にあるこの繊細な作りの繊維物ってもしかしてブ……!?
「……まだ?」
「い、いますぐッ!!」
心臓が止まるかと思った。俺は慌ててバスタオルを掴み、スーツケースを閉じる。
脱衣場の扉の前で、数センチの隙間に手を入れてバスタオルを押し込んだ。
「……ありがと」
閉まる扉。ほっと息をつく俺。その瞬間、さっき目に入ったブラジャーのきめ細やかな作りと布地の大きさが脳内に沸き上がる。
……D。あれがDですよD。そしてそのDが、今この瞬間、扉一枚隔ててそこに全てを露わにしているわけで……。
ゴクリ、と生唾を飲み込む俺。その時。
「……あの、ひなくんも……入る?」
振り返ると、再び数センチ開いた隙間から、叶戸先生の大きな瞳が俺を見つめていた。バクバクと急激に心臓が全身に血液を送り、俺の脳内も熱を帯びる。
――えッ、一緒に入るって、えッ! それってつまり……!?
淫靡な妄想に思考が沸騰しかけるが、
「……このあと」
そこでようやく脳が冷却され、自分の誤解に気が付いた。
当然だが、『自分(叶戸先生)はもう済んだが、同じく雨に濡れている俺はこの後シャワーを浴びる?』の意味だ。勝手に『一緒』とか誤訳が過ぎる。思春期って大変だな本当。
「…………そですね」
恥ずかしさと色々想像してしまった申し訳なさで、若干消沈して答える。するとすぐさま扉が開き、
「……じゃあ、……どうぞ」
バスタオルを身体に巻いただけの姿。白く透き通った肌は、今だけ少し赤みを帯びて上気して、タオルで包まれた髪は艶やかに潤い、少しだけ癖がついていて。……極めつけは濃厚なシャンプーの香り。俺と同じシャンプーのはずなのに、めちゃめちゃいい匂いがして。そして何より……。
「……あの……?」
「あ、ええ……とッ」
身体に巻いたバスタオルから、少しだけ露わになった胸の谷間が、腰の曲線の曲線が、目の前の女性を、かつてのなーちゃんとは一線を画して見せる。バスタオル程度の防御力では、そのスタイルの良さを隠し切るのは不可能だ。
叶戸先生はなーちゃんだけど、なーちゃんではない。
そのことを強烈に実感した俺は、ただ目線を下げて、「……どうも」と言うことしかできなかった。
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