天然幼なじみの教育実習生が、実習中俺だけにひたすら甘えてくる
或木あんた
第1章 実習生、到来
第1話 再会
「え?」
俺、
全校生徒がみっちり整列した体育館で、ガヤガヤと騒々しい高校生達が急に静かになり、息を呑む音がする。
その視線は、壇上の小柄なスーツ姿の女性に向けられていた。
「……今日から三週間お世話になります、
声の端が震え、緊張が体育館中に伝わるような声で彼女は言った。
一礼と同時に、肩上の柔らかなボブが揺れ、まっすぐ前を向き直す。途端に歓喜のざわめきが会場を埋め尽くした。
ざわざわ、ひそひそと繰り出される彼らのつぶやきを要約すると、多分こうだ。
……すげー可愛いッ。
途端に色めき立ち、髪型を気にし始めるお調子者男子や、自分と歳近い教師への好奇心に目を輝かせる女子グループ。
毎年恒例行事の一部。そんな教育実習の実習生が可愛い女性でラッキー。
大体の生徒がそんな反応で、それを予測していたであろう教師陣は、やれやれとため息をつく。
――そんな浮足立つ空間の中で、ただ一人。
「……なーちゃん?」
俺だけが、彼女の登場に衝撃を受け、心を抉られている。
だって彼女、――旧姓、柴崎花凪は、十年前に転校したきり疎遠になってしまった四歳上の幼馴染で。
そして、多分俺の、初恋の人だから。
***
十年前。
あの時の俺はまだ七歳で、物事の良し悪しもまだ分からない純朴な地方都市の田舎少年だった。
人見知りで引っ込み思案だった俺(小二)は、外遊びよりは絵本が好きで、必然的に一人で遊んでいることが多かった。
でも、そんな俺を唯一外に引っ張り出してくれた存在。
それが
近所の公園の端。
遊具で遊びまわる同年代の少年少女を横目で見ながら、本をめくる俺に。
「……つまり、ひなくんはどちらかというと、ムッツリスケベだね」
横で聞こえてきたなーちゃんの声を、耳が拾ってしまう。
少し迷ってから、
「『ムッツリスケベ』って、なに?」
「普段はエッチなことに一切興味がないふりをして、本当はそういうのすごく好きなひとのこと」
「……ぼく、エッチなこととか、よくわかんない」
「安心して。……わたしも、よくわからない」
みたいなどうでもいい会話をしばらくして、その後観念したように、なーちゃんは抱えたスケッチブックを開き、絵を描き始める。何回となく、繰り返してきたやりとり。
子どもたちの笑い声が転がる広い公園で、俺となーちゃんは狭いベンチで二人、それぞれ読書とスケッチをした。最初は変な人、くらいにしか思ってなかったけど、付きまとわれてから二年ほどで、少しは外にも出られるようになった。ずっと続きがあると思っていた。
でも。
――小二の秋、なーちゃんが小六の秋。終わりは突然やってきた。
「……わたし、転校するんだって。……東京」
意味がわからなかった。
「だからもう、ひなくんとは遊べないし、……同じ学校にも、行けない」
俺はただただ言葉を失って、そんな俺をなーちゃんが申し訳なさそうに、
「……ごめんね」
「……なんで、あやまるの?」
ぐちゃぐちゃになる頭で、なんとか言葉を紡ぎ出した。
しかし、返ってきた言葉はもっと理解不能だった。
「……言えなくて。……ずっと、言わなくちゃって、……でも、結局最後になっちゃった」
「……どういう意味?」
イヤな予感がした。
「……つまり……今日で、おわかれ……」
「――聞きたくない! いやだ!」
不安に耐え切れなくなって、ついに涙が溢れ出た。
もうわけもわからず、ただ悲しくて、恥ずかしくて。
「……ひなくん」
「やだ! やだ! おわかれなんてやだ! なーちゃん、なー、……ッ!」
いい香りの後に、身体が何か温かいものに包みこまれる。
少し遅れて、抱きしめられていることに気付いた。
「……ごめん。……こうなるの、わかってた。……わかってたのに、言えなくて。わたしも立派にムッツリだ。おねーさんなのに、ムッツリしたわたしが悪い。……だから」
そこでなーちゃんは俺からそっと離れ、
「約束」
しゃがんで目線を合わせ、小指をつき出して言う。
「いつか必ず、またひなくんの元に戻ってくる」
「絶対だから、絶対くるから。だから今日は、さよなら。……ね?」
長くて綺麗な髪が揺れて、なーちゃんが微笑む。
拒否するのを忘れるくらいに、綺麗な笑顔。小指が絡み、その温もりに安心してしまう心に打ち勝てない。
「……ほんと?」
「うん」
「……また一緒に、学校行ける?」
そうだけ答えると、なーちゃんの手が俺の髪を撫でた。
「約束する。……そうだ、これ」
差し出されたのは、彼女愛用のスケッチブックだった。
「このコを人質にするから。ひなくんが持ってて。もしわたしが会いに来なかったら、好きにしていいから……」
「……うん」
俺の返事を聞いて、なーちゃんは笑った。
「じゃあね、ひなくん」
「うん、またね」と俺は言った。
それが、なーちゃんと交わした最後の言葉。
その後十年間、俺はなーちゃんと会っていない。
――以上が、俺となーちゃんの別れの顛末。
俺の青春の記憶に焼き付いた、淡い初恋の約束。
そしてそれは、同時に失恋の思い出でもある。
最初の一年くらいは、親を通じて時々文通なんかをしていたけど、そのうち返事はぱったりと来なくなった。
今思えば、なんてことない。年上のなーちゃんはあの後、思春期真っただ中の中学生になったわけで、そりゃ鼻垂れた田舎のガキよりも、洗練された都会の同級生が良かろう。
何よりも、よくよく考えてみると、学年が四つ違う相手と同じ学校に通えるのは、小学校以外ありえない。留年や浪人なら可能だけど、尋常じゃなくハイリスクローリターンな方法だ。そんなのやらないのが当然だし、仮に俺が逆の立場でも、同じようにしたと思う。
……ただ、当時の俺にとってそれは、はじめて本気で人に裏切られた経験だった。
今でこそ黒歴史化させることで消化はできているが、おかげで何年も異性とは無意識に距離をとってしまうし、年上の女性にどことない苦手意識を持ってしまっている。そんな感じでそれなりに後遺症は残っているわけで。(……ちなみに人質のスケッチブックは未だ捨てられず、押し入れに鎮座している)
――つまり、なーちゃんこと柴崎花凪は俺にとって、そういうデリケートな部分をヒリヒリさせる存在なのである。
そして、問題なのはそんな存在が、
「えー、先ほど全校集会でも紹介したけどー……改めてー、はい、叶戸先生―」
「あ、よろしくお願いします……」
――よりにもよって数あるクラスの中で、ウチへ来てしまったということだ。
「教科は美術だけどー、一応オレが指導教諭なもんでー、ホームルームはウチに入ってもらうことになってるからー」
指導教諭とか知らんわ。断れ。いつもは色々面倒くさがって、事務仕事とか平気で生徒に押し付けてくるくせに。……と担任にいわれのない恨み節を唱えてみる。もちろん心の中で。
「それじゃー、また自己紹介してもらうかー」
担任の中年男性らしいのっぺりとした声が響き、クラス中の視線が彼女に集まる。
長いまつ毛、大きな眼、すっと高い鼻。俺の見知ったなーちゃんとは一味も二味も違う。……いや、すごい美人、いや童顔だから美少女か、……じゃなくて。
なーちゃんは少し口もとをすぼめて、固いお辞儀で、
「はい。……あの、……
「――何でも……ッ!?」
思わず声が出た。
慌てて口を覆うが、幸いにも同じタイミングでクラスメイト達が同じことを言っていたらしい。とりあえず社会死せずに済んだ。
しかし、いいのか、とも思う。教育実習慣れしたウチの生徒にとって、最初の自己紹介は通過儀礼そのもの。そこで何を語るかで今後の扱いや対応が変化するし、そこで自ら主導権を渡すのは、ちょっとハイリスクなのでは……。
そんな俺の懸念など構いなしに「はいはい!」とノリのいい女子を皮切りに、
「彼氏いますかー?」
「……いないです」
「好きな異性のタイプはー?」
「……健康な人」
「何カップー?」
「……Dカップ」
「化粧水はなに使ってー」
「……市販の安いヤツ」
「キノコ派タケノコー」
「……両手で同時食べします」
次々飛び交う容赦ない質問の全てに、彼女は間髪入れずに素早く端的に答えていく。
中には初対面には失礼すぎる内容も含まれていたが、特に嫌な顔せずどんどん答えるため、聞く方がネタ切れで、次第にどうでもいい質問になっていく。
すごいというか、なんか気持ちいいな。
感心してしまった。
そして同時に、実は全くの他人説が浮上する。
だって俺の知るなーちゃんなら、なんというか、
『……彼氏? どこの武家? ……武家だったら、蘇我氏が好き』
……くらいには、不可思議な回答をする気がしていた。
……もしかして、別人? ただ同名で似てるだけ? だとすると勝手に『なーちゃん』呼びしてるの、最高にキモイから今すぐやめないと。……でもさっき小学校はこっちとか言ってたし……。
と俺が密かに疑い始めたくらい。
特にお調子者で知られるクラスの男子が、手を挙げて質問した。
「今、好きな人いるー?」
正直、何のひねりも面白みもない質問だった。これもなかなかに無礼な問いだが、さっきからもっと無礼なのにバンバン答えていたし、正直「いない」ならすぐに終わる話だ。たとえ「いる」でも、さっきは彼氏ナシと言っていたので、せいぜいどんな関係の人間か答えて終わればいい。一問一答としては発展性の薄い悪手だと思う。
そう、思ったのに。
ばちっ。
何の前触れもなく、叶戸先生と目が合う。
「あ、え?」
困惑する俺。しかし未だ目は合ったままで、十メートルくらいの距離で、叶戸先生の茶に透けた美しい瞳が、微かに揺れながら俺を見ている。偶然視線が合ったというよりは、相手にじっと凝視されていると言った方が正しい。
……なんで?
少し頑張って意識を瞳から離す。改めて顔全体を見ると、
ん? 気のせいか少し頬が紅潮している? そう思った瞬間。
ふいっ。
叶戸先生は顔を横に向けて逸らした。
横髪が少し遅れて揺れ、表情を隠す。
しかし、その頬はどう見ても紅潮して上気していて。
「え、何?」
「どうしたの?」
周囲の生徒も各々の顔に困惑の色を示し、それを察した彼女は、
「――あ、ええと、……そ、その」
しばらくもじもじした後、小さな拳で口元を隠し、
「……い……いません」
(……絶対ウソだ……ッ!!)
クラス全員の心がシンパシーした。確信がある。そう言いきれてしまうくらい明白な態度。
それまでどんな質問にもすんなり答えた彼女が、初めて言い淀んで。
そして、あからさまに動揺している。
動揺して、それでいてその動揺を悟られないようにちょっと強めに取り繕っている。バレバレだ。むしろその真っ赤な顔で取り繕えているつもりなのだろうか。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
だって些末なことなんて全部吹き飛ぶくらい、恥ずかしがる叶戸先生はなんというか、なんというか……、
(……か、可愛ええ―――ッ!!!)
再びシンパシー。間違いない。今ここは全クラ赤面タイムだ。この場にいる全員がこの奇跡的な瞬間に立ち会えたことに至上の喜びを感じている。
「……う……ッ」
その奇跡の体現者本人はといえば、そのまま困ったように黙り込んでしまった。教室の体感温度だけが二度も三度も上がったまま、誰もがこの空気を破ろうと特攻する気にもなれずに時間だけが過ぎる。クラス中から向けられる視線に耐えかねたのか、ついに叶戸先生はファイルを盾にして隠れてしまう。いや、何だこの可愛い生き物は。
そこでようやく見かねた担任が、
「……まー、とりあえずこんなもんでー。ほれ、いつまで呆けてる気かお前らー、授業やるぞー。……言っとくけどー、叶戸先生に見られてるからって、集中してなさそうなヤツはー、内申にバッチリ反映しとくからなー。……ほれ、叶戸先生―」
顎を突き出すようにして教室の後方を指し示し、その意図を理解した叶戸先生は逃げるように小走りする。
途端に糸が切れたようにガヤガヤするクラス内。
可愛かったよねー、とか、ありゃマジなやつ、とか好き勝手な感想が漏れ聞こえる。思わぬところでボロが出た、というところなのだろうか。いや、とりあえずそんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。それより。
……直前、なんで目が合ったんだろう。
あの時はびっくりしたが、思い返すと意味がわからない。俺の席は真ん中の一番窓側だから、席的に思わず目が合う位置でもあるまい。
んー、わからん。
そう思って横目で振り返ると、最後尾の後ろの空間で立っている叶戸先生と、再び目が合った。
先ほどとは違って、驚いたような表情の後にすぐに逸らされる。心なしかさっきより、ファイルを抱く力が強まったように見える。
やべ。なんかマズいことしてしまった?
俺は焦って頭の向きを正す。
結局正体は分からずじまいだけど、初対面の可愛い教育実習生に不用意に嫌われるのは避けたい。
でも。
……もし、叶戸先生がなーちゃんなら、なんで?
考えても考えても答えは出なかった。
代わりに担任のつまらない授業の導入だけが、意識の淵をなぞっては過ぎていった。
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